王城の密談
王城の最奥。夜半、灯りを落とされた小謁見室には、魔力灯の光さえ入っていなかった。
部屋を照らしているのは、窓から差す冷たい月光と、卓に置かれた一巻の古い羊皮紙だけだ。建国の頃から王家にのみ保管を許された、始祖の記の写し。かすれた文字は、読む者を拒むように沈んでいる。
五十六になる国王アルベリックは、豪奢な王衣を脱ぎ、酷使された一人の男の顔で椅子に深く沈んでいた。
「——第三の聖域の改修報告を、影から受け取った」
王の声は低く、砂を噛むように掠れている。俺は表情を変えず、続きを待った。
「エリシア令嬢は、数百年、誰も解けなかった滲んだ結び目をほどき、その場で被膜を編み直してみせたという。第三ほどの規模でも、手が乱れない。……見事だ。見事すぎて、余は鳥肌が立った」
王が、白髪の混じり始めた金髪を乱暴にかき上げる。乾いた笑いが落ちた。だが、目は笑っていない。
「同時に、余の影はこうも報せてきた。枢機卿の側近が、その一部始終を石柱の陰から見ていた、と」
左耳のピアスが、冷たく疼いた。
見られたという事実だけなら、驚きはない。枢機卿が動くことは織り込み済みだし、第三の聖域で視察官に見られたのも、半ばこちらが泳がせた結果でもある。
だが、王の顔は、俺が想定していた危機の顔ではなかった。暗殺でも、拘束でも、断罪でもない。もっと深く、もっと古い場所を見ている。
王が、卓の羊皮紙に老いた指を這わせた。
「ヴァレリウス。お前は、この国の最も深い底にある縦穴——ヴォイドの正体を、知っているか」
「……始祖アステリアが遺した、原始の魔力の残光。そう教わってきました」
「神殿のついた、都合のいい作り話だ」
月光の中で、王のタンザナイトの瞳が鈍く光る。女神の血を引く王家にだけ、血の奥へ沈められた神話がある。
「この国の魔力は、聖域だけで事足りるほど生易しいものではない。今も大地の底には、国土を圧し潰しかねない原始の濁流がある。始祖アステリアは、それを己自身を媒介にして地の底へ繋ぎ止めた。だが、どうしても繋ぎきれず、外へ滲んだものがある」
王の指が、掠れた一節を叩いた。
「それが、あの虹色の縦穴——ヴォイドだ。この国土の魔力すべての結び目であり、女神自身の魔核の、剥き出しの被膜でもある」
息が、胸の奥で止まった。
「そして、王家にだけ伝わる理が、もう一つある」
低い声だった。
「ヴォイドは、女神ご自身の魔核の形を写している。生光、刻光、造光。その三色を女神と同じ均衡で宿す者が縁に立てば、あの穴はその者を己の片割れと見なし、呼ぶ」
背筋を、冷たいものが滑り落ちた。
「意志ではない。善悪でもない。魔力の響きが、同じ響きに引かれるのだ。常人なら、抗えぬ」
「……過去に、例が」
「王家に一人いた。女神の血が濃く出た者だ。ヴォイドの縁で己を見失い、穴へ歩み出しかけた。辛うじて自分の足で退いたが、それ以来、王族があの穴へ近づくことは固く禁じられている」
タンザナイトの瞳が、まっすぐ俺を射た。
「だが、エリシア令嬢の収束は、王家に稀に出る濃さとは比べものにならぬ。女神と寸分違わぬ、完全な三色だ」
言わせるまでもなかった。
(——引き込まれる)
死ぬ気などなく、こちら側へ戻るつもりでいても、同じ形の光が彼女を穴へ呼ぶ。
理解した瞬間、床が抜けた。
これまで俺が守ろうとしていたのは刃だった。
毒も、拉致も、政治の圧力も、神殿の断罪も、それなら読めた。先回りできた。潰せた。
だが、違う。
本当の危機は、刃ではない。
祭壇だ。
エリシアがこれまで成してきたこと。アウロラで、ソリスで、ボレアスで、彼女が手掛けてきたものは、すべて漏れる滲みの原因、繋ぎ目の傷だった。
レリクトゥムの底で同じ傷を見たとしても、エリシアは国という大きな言葉のために自分の命を差し出す子ではない。そこは見誤らない。彼女は漠然とした救済に酔わないし、自分の身を投げれば世界が助かるという式を、最後まで疑う。必要なら抗い、戻る道を探す。
だが、その抵抗より先に、ヴォイドが彼女を呼ぶ。
意志ではない。選択でもない。同じ響きが同じ響きを引く。常人なら抗えぬと王は言った。まして女神と寸分違わぬ三色を持つエリシアなら、その共鳴を誰より強く受ける。彼女が自分を差し出すつもりなどなくても、足が進む。世界の傷を解くかどうかを考えるより先に、穴そのものが彼女を片割れとして引き寄せる。
だから恐ろしい。
枢機卿は、側近から事細かに報告を受けている。あの男が気づかないはずがない。
神殿の次の一手は、もう決まっていた。
「……女神の名のもとに」
声が、わずかに掠れた。
「奴らはエリシアに、世界との“融合”を強いる」
「そうだ」
王が、深く頷いた。
「イグナティウスは、あの娘を泥に塗れた人間のままにはしておかぬ。豊穣の国土を完成させる、無垢な“器”として神殿へ連れ去り、ヴォイドへ融かし込む。……それは、あの娘の心も命も、跡形なく消すということだ」
殺すのではない。神に戻すのだと、彼らは言うのだろう。
救済だと。聖業だと。世界のためだと。
エリシアの笑顔も、蜜豆の甘さも、困ったときに一瞬だけ寄る眉も、俺の声を聞いてわずかに肩の力を抜くあの仕草も、何もかもを奪って、役目だけを残す。
俺の唯一の人を、世界の傷口へ塗り込める。
(——させるか)
腹の底、抑え込んでいたエゴが静かに目を覚ました。
国のために、などと言えるほど、俺は綺麗ではない。神に逆らう覚悟、などという大仰な言葉もいらない。
俺はただ、エリシアを人間の側に引き留める。
エリシアが自分を材料のように数えるなら、その前に立つ。世界が彼女を喰うというなら、世界の口へ、彼女ではないものを噛ませる。
本物の彼女は渡さない。差し出すのは、神にも、神殿にも、世界の理にさえ彼女だと信じ込ませるほど精密な偽物だけだ。
——デコイ。
その言葉が、記憶の底から一つの禁術を引き上げた。
命の写し。
生きた人間の輪郭を、別の器へ写し取る古代の業。倫理にも、術者自身の命にも触れるがゆえに、ごく早くに禁書庫の奥へ封じられた術式だ。
あれしかない。確信は、一瞬で固まった。
「陛下」
王へ向き直る。
「時も、余裕もありません。率直に願います。——禁書『命の写し』に、目を通す許可を」
王が、ほんの小さく息を漏らした。
「……やはり、お前もそう言うか」
低い、独り言のような声だった。
——お前も。
その一語が、引っかかる。俺より先に、「命の写し」を望んだ者がいる。心当たりは、一人きりだ。
テオドール。
あの弟なら、姉のためなら、自分の身がどうなろうと迷わず差し出す。この術が術者の命を削る危険があると知って、なお真っ先に手を挙げる。
だが、テオドールにはやらせられない。
後で、きっちり話をつけておかねばならない。
胸の内でそう決めて、俺は素知らぬ顔を作った。
「すみません。聞き取れませんでした」
「いや」
王は卓の引き出しから、薄い植物紙に写された数枚の束を取り出した。
「これがその写しだ。覚えたら、燃やせ」
差し出されたそれを受け取る。用意してあったのか。最初から、この夜のために。
「……なぜ、私がこれを求めると」
「お前は」
王が、かすかに笑った。
「あの娘のことになると、分かりやすい」
否定する気には、ならなかった。




