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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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エゴの初動

写しへ目を落とす。


そして——僥倖だ、と思った。


術式の骨は、途中まで、俺がこれまで組み上げてきた魔核修復の術と、ほとんど同じだ。違うのは、向き。彼女へ補うのではなく、彼女から写し取る。


それだけだ。それだけで、禁忌になる。


頭の奥が、冷たく冴えていく。


必要なものを揃えろ。


彼女の輪郭を、ただの似姿ではなく、世界が本物と誤るところまで写し取るには、今まで集めた日々の揺らぎだけでは足りない。


切り落とした直後の髪。そして、魔核の揺れを逃さず掬うには、唇から直に採るしかない。


紙の上の文字が、月光に沈む。胸の奥で、別の熱が上がった。


欲の熱だ。


その唇に触れる理由が、こんな地獄の図面の上へ置かれることに、吐き気がした。


それでも、使う。彼女を人間の側へ連れ戻すためなら、俺は自分の欲さえ道具に落とす。


次に必要なのは、そのデコイを満たす、桁外れの純粋な魔力だった。どこにある。


答えは、ひとつしかない。


ヴォイドだ。


あの穴には、始祖の純粋な魔力が、変換されないまま満ちている。あそこでなら、エリシアの輪郭を一片残らず写し取った、世界すら欺く結晶のデコイを編める。


すべての線が、虹色の縦穴へ収束していく。


「ヴァレリウス」


王の静かな声が、俺を渦から引き戻した。


王は椅子を立ち、窓の外の王都を見つめていた。その背は、あまりに孤独だった。


「余は王だ。神殿の権威を、公然と否定することはできぬ。建前に縛られ、国を守るためにこそ、あの娘の融着を止める手立てを、表向きは何ひとつ講じられぬ」


王の拳が、微かに震えていた。


「……すまぬ。本当に、すまぬと思っている」


王とて、人だ。始祖の幻を、一人の娘に重ね、生贄に差し出す己の立場を、呪わぬはずがない。


俺は、その老いた背を静かに見つめて、言った。


「謝らないでください、陛下。表舞台の正しさは、あなたにお任せします。私は、私のエゴで動きます」


「ヴァレリウス……」


「私が、彼女を地獄から引きずり戻します。枢機卿(すうききょう)の信仰を、真っ向から否定してみせる。世界の理(ことわり)を欺く、完璧な嘘を作ります。ですから——」


一歩、月光の中へ踏み込んだ。


「最後の最後、俺が本物を連れ戻す、その一瞬にだけ。——隙を、ください」


ここだけ、私ではなく、俺、と零れた。王は、咎めなかった。


王は振り返らない。ただ、窓ガラスに映ったその顔が、微かに歪み——決意の笑みを浮かべた。


「……三分だ」


低い、鋼のような声だった。


「余の権限で、神殿の追跡と聖域の封鎖を遅らせられるのは、どう言い訳を重ねても三分が限界だ。それ以上は、国が割れる。……その三分でお前のエゴが間に合うなら、余は喜んで、神への裏切り者になろう」


「——充分です」


俺は静かに頭を下げ、闇の中へ退いた。


残された王は、再び始祖の記へ目を落としたようだった。掠れた文字の向こうに、世界のために消えた女神の、悲しい微笑みでも見たのかもしれない。


「行け、ヴァレリウス」


背後で、王の声がした。


「神に愛された聖女を——ただの、生意気な人間の娘に、戻してこい」


窓の外を、秋の冷たい風が吹き抜けていった。


    *


その夜のうちに、公爵邸の地下へ降りた。


石壁を一枚押すと現れる、あの隠し部屋。羊皮紙(ようひし)の束。使い込んだ計算板。黒石の坩堝(るつぼ)。五年、何度も空のまま見つめてきた坩堝の傍に、今夜は、テオドールがいた。


来ているだろうと思っていた。

来ないでくれとも、思っていた。


「命の写し」の写しを卓に広げると、テオドールはそれを一瞥して、静かに言った。


「やはり、それでしたか」


「王に、先に願い出たらしいな」


「……はい」


テオドールが目を伏せる。


「義兄様より先に、許可をいただこうとしました。断られましたが」


「なぜ、お前が」


「僕に、させてください」


顔を上げたテオドールの目は、まっすぐだった。


十三歳の子供の顔ではない。覚悟を決めた、共犯者の目だ。


「姉様の身体の輪郭なら、僕のほうが近い。姉弟です。同調も、きっと義兄様より速い。——僕が、デコイを編みます」


俺は、首を横に振った。


「だめだ」


「義兄様」


「これはな、テオドール」


写しの一節を、指で叩く。


「血が近いほど、危ない術だ」


テオドールの眉が、わずかに動いた。


「写し取るあいだ、術者の魔核は、相手と深く同調する。血が近いほど、その同調は強い。強すぎれば、相手の形が術者の内側へ入り込み、術者のほうを塗り替える」


部屋が、静かになった。


「これが禁書庫へ封じられた理由だ。最初にこれを試したのは、親子だったと記されている。血が近すぎた。結果は——術者の、自我の崩壊」


テオドールは、何も言わなかった。


「お前とエリシアは、ただの姉弟ではない」


俺は、言葉を選んだ。


「あの夜から、お前の命には、エリシアが削ったものが混じっている。お前がやれば、同調は深すぎる。たぶん——お前が、お前でなくなる」


テオドールの喉が、小さく動いた。


それでも、退かない目だった。


「俺は、血の上では他人だ」


写しを閉じる。


「血は遠い。だから同調は鈍い。鈍いからこそ、耐えられる。これは、俺にしかできない」


しばらく、坩堝の底の暗がりを、二人で見ていた。


「……義兄様が、自我を失う可能性は」


テオドールが、低く訊いた。


「ゼロではない」


正直に、そう答えた。


嘘をつく相手ではない。


テオドールの拳が、膝の上で固く握られた。十三歳の、細い手だった。


「テオドール」


俺は言った。


「お前の命は、エリシアが自分の身を削って繋いだものだ。こんなところで投げ出すな。あの夜、エリシアが引き受けた意味が、なくなる」


テオドールが、ゆっくりと顔を上げた。


その目が、かすかに濡れていた。


だが、零れはしない。


「……分かりました」


テオドールは言った。


「では、僕は——義兄様が、自我を失わないための全部を、やります」


「ああ。頼む」


それで、役割は決まった。


俺が、神に差し出す偽物を作る。

テオドールが、俺を人間の側へ繋ぎ止める。


——ただ、一つだけ、引っかかった。


この弟は、いつから王の前へ出入りしている。命の写しの在処を、なぜ俺より先に知っていた。十三の子供が、容易く触れていい場所ではない。俺の見えないどこかで、この弟は、俺の知らない線を引いている。


「テオドール。お前、危ないことはしていないな」


テオドールは、すぐには答えなかった。灰色がかったアメジストが、坩堝の暗がりへ静かに伏せられる。


それが、答えだった。


追わなかった。今はエリシアだ。それ以外を抱える余裕は、互いにない。


「……いい。全部、終わったあとでいい。そのとき、残らず聞かせてくれ」


「……はい」テオドールが、静かに頷いた。「必ず。何もかも」


それで充分だった。


坩堝は、今夜も空だった。


だが空であることが、今夜だけは、始まりに見えた。

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