エゴの初動
写しへ目を落とす。
そして——僥倖だ、と思った。
術式の骨は、途中まで、俺がこれまで組み上げてきた魔核修復の術と、ほとんど同じだ。違うのは、向き。彼女へ補うのではなく、彼女から写し取る。
それだけだ。それだけで、禁忌になる。
頭の奥が、冷たく冴えていく。
必要なものを揃えろ。
彼女の輪郭を、ただの似姿ではなく、世界が本物と誤るところまで写し取るには、今まで集めた日々の揺らぎだけでは足りない。
切り落とした直後の髪。そして、魔核の揺れを逃さず掬うには、唇から直に採るしかない。
紙の上の文字が、月光に沈む。胸の奥で、別の熱が上がった。
欲の熱だ。
その唇に触れる理由が、こんな地獄の図面の上へ置かれることに、吐き気がした。
それでも、使う。彼女を人間の側へ連れ戻すためなら、俺は自分の欲さえ道具に落とす。
次に必要なのは、そのデコイを満たす、桁外れの純粋な魔力だった。どこにある。
答えは、ひとつしかない。
ヴォイドだ。
あの穴には、始祖の純粋な魔力が、変換されないまま満ちている。あそこでなら、エリシアの輪郭を一片残らず写し取った、世界すら欺く結晶のデコイを編める。
すべての線が、虹色の縦穴へ収束していく。
「ヴァレリウス」
王の静かな声が、俺を渦から引き戻した。
王は椅子を立ち、窓の外の王都を見つめていた。その背は、あまりに孤独だった。
「余は王だ。神殿の権威を、公然と否定することはできぬ。建前に縛られ、国を守るためにこそ、あの娘の融着を止める手立てを、表向きは何ひとつ講じられぬ」
王の拳が、微かに震えていた。
「……すまぬ。本当に、すまぬと思っている」
王とて、人だ。始祖の幻を、一人の娘に重ね、生贄に差し出す己の立場を、呪わぬはずがない。
俺は、その老いた背を静かに見つめて、言った。
「謝らないでください、陛下。表舞台の正しさは、あなたにお任せします。私は、私のエゴで動きます」
「ヴァレリウス……」
「私が、彼女を地獄から引きずり戻します。枢機卿の信仰を、真っ向から否定してみせる。世界の理を欺く、完璧な嘘を作ります。ですから——」
一歩、月光の中へ踏み込んだ。
「最後の最後、俺が本物を連れ戻す、その一瞬にだけ。——隙を、ください」
ここだけ、私ではなく、俺、と零れた。王は、咎めなかった。
王は振り返らない。ただ、窓ガラスに映ったその顔が、微かに歪み——決意の笑みを浮かべた。
「……三分だ」
低い、鋼のような声だった。
「余の権限で、神殿の追跡と聖域の封鎖を遅らせられるのは、どう言い訳を重ねても三分が限界だ。それ以上は、国が割れる。……その三分でお前のエゴが間に合うなら、余は喜んで、神への裏切り者になろう」
「——充分です」
俺は静かに頭を下げ、闇の中へ退いた。
残された王は、再び始祖の記へ目を落としたようだった。掠れた文字の向こうに、世界のために消えた女神の、悲しい微笑みでも見たのかもしれない。
「行け、ヴァレリウス」
背後で、王の声がした。
「神に愛された聖女を——ただの、生意気な人間の娘に、戻してこい」
窓の外を、秋の冷たい風が吹き抜けていった。
*
その夜のうちに、公爵邸の地下へ降りた。
石壁を一枚押すと現れる、あの隠し部屋。羊皮紙の束。使い込んだ計算板。黒石の坩堝。五年、何度も空のまま見つめてきた坩堝の傍に、今夜は、テオドールがいた。
来ているだろうと思っていた。
来ないでくれとも、思っていた。
「命の写し」の写しを卓に広げると、テオドールはそれを一瞥して、静かに言った。
「やはり、それでしたか」
「王に、先に願い出たらしいな」
「……はい」
テオドールが目を伏せる。
「義兄様より先に、許可をいただこうとしました。断られましたが」
「なぜ、お前が」
「僕に、させてください」
顔を上げたテオドールの目は、まっすぐだった。
十三歳の子供の顔ではない。覚悟を決めた、共犯者の目だ。
「姉様の身体の輪郭なら、僕のほうが近い。姉弟です。同調も、きっと義兄様より速い。——僕が、デコイを編みます」
俺は、首を横に振った。
「だめだ」
「義兄様」
「これはな、テオドール」
写しの一節を、指で叩く。
「血が近いほど、危ない術だ」
テオドールの眉が、わずかに動いた。
「写し取るあいだ、術者の魔核は、相手と深く同調する。血が近いほど、その同調は強い。強すぎれば、相手の形が術者の内側へ入り込み、術者のほうを塗り替える」
部屋が、静かになった。
「これが禁書庫へ封じられた理由だ。最初にこれを試したのは、親子だったと記されている。血が近すぎた。結果は——術者の、自我の崩壊」
テオドールは、何も言わなかった。
「お前とエリシアは、ただの姉弟ではない」
俺は、言葉を選んだ。
「あの夜から、お前の命には、エリシアが削ったものが混じっている。お前がやれば、同調は深すぎる。たぶん——お前が、お前でなくなる」
テオドールの喉が、小さく動いた。
それでも、退かない目だった。
「俺は、血の上では他人だ」
写しを閉じる。
「血は遠い。だから同調は鈍い。鈍いからこそ、耐えられる。これは、俺にしかできない」
しばらく、坩堝の底の暗がりを、二人で見ていた。
「……義兄様が、自我を失う可能性は」
テオドールが、低く訊いた。
「ゼロではない」
正直に、そう答えた。
嘘をつく相手ではない。
テオドールの拳が、膝の上で固く握られた。十三歳の、細い手だった。
「テオドール」
俺は言った。
「お前の命は、エリシアが自分の身を削って繋いだものだ。こんなところで投げ出すな。あの夜、エリシアが引き受けた意味が、なくなる」
テオドールが、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、かすかに濡れていた。
だが、零れはしない。
「……分かりました」
テオドールは言った。
「では、僕は——義兄様が、自我を失わないための全部を、やります」
「ああ。頼む」
それで、役割は決まった。
俺が、神に差し出す偽物を作る。
テオドールが、俺を人間の側へ繋ぎ止める。
——ただ、一つだけ、引っかかった。
この弟は、いつから王の前へ出入りしている。命の写しの在処を、なぜ俺より先に知っていた。十三の子供が、容易く触れていい場所ではない。俺の見えないどこかで、この弟は、俺の知らない線を引いている。
「テオドール。お前、危ないことはしていないな」
テオドールは、すぐには答えなかった。灰色がかったアメジストが、坩堝の暗がりへ静かに伏せられる。
それが、答えだった。
追わなかった。今はエリシアだ。それ以外を抱える余裕は、互いにない。
「……いい。全部、終わったあとでいい。そのとき、残らず聞かせてくれ」
「……はい」テオドールが、静かに頷いた。「必ず。何もかも」
それで充分だった。
坩堝は、今夜も空だった。
だが空であることが、今夜だけは、始まりに見えた。




