そうだよ
部屋が、静かだった。
俺は彼女を見た。
一秒。
二秒。
答えは、とうに決まっていた。
バングルを渡したあの夜から、この問いが来る日のために、決めてあった。
『ないよ』
あの完璧な嘘は、この夕暮れで終わりにする。
「そうだよ」
それだけ言った。
受け取った、とも。
設計した、とも。
これからも受け取る、とも。
まだ言わない。
けれど、その四文字だけは嘘ではない。俺が彼女に渡せる、最初のまじりけのない真実だった。
エリシアの表情が、揺れた。
喜びでも、安堵でもない。
何かが、重く沈んでいく顔だ。
彼女の中で、何かが軋んだように見えた。自分の痛みなら、作業の内側へ押し込んでしまう子が、その痛みを誰かが代わりに背負っていたと知って、初めて立ち止まっている。
他人の苦しみには誰より敏い。
自分のことだけ、いつも最後に回す。
その盲点が今、痛みを持ち始めている。
俺が、その痛みを作った。
必要な棘だと、決めて作った。それでも、彼女のこの顔は、思っていたより堪える。
「……ないよ、と言っていましたが」
「俺への副作用は、言わなかった」
正確に返した。
技としては、正確だった。彼女が確かめなかっただけだ。そういう言い方でしか、まだ守れない。
エリシアの目が、バングルから俺のピアスへ動く。
「……これを設計したのは」
「俺だよ」
「……何のために」
そこで、言葉が一拍遅れた。
本当の理由は、まだ渡せない。
繋がっていたかった、とは。
手放したくなかった、とは。
君の痛みがこちらへ来ることに、救われていた、とは。
今ここでそれを言えば、彼女はそれさえ自分の責任に変えようとする。俺の欲まで、丁寧に背負おうとする。
そこまで背負わせたくはなかった。
少しだけ、視線を落とした。
「エリシアが、演算できるように。それだけだよ」
嘘ではない。
ただ、すべてでもない。
残り半分は、まだ俺の中に伏せたままだ。
「だから作った」
エリシアは、しばらく動かなかった。
「……ありがとうございます」
また、その言葉だった。
今のこれに、その言葉では足りていないと感じているのだろう。そういう顔だ。それでも、ほかの言葉が出てこない。出てこないまま無理に押し出した不器用な言葉が、いとおしかった。
訂正はしなかった。
代わりに、ゆっくりと息を吐いた。
長く、ずっと止めていた息を。
*
聖域を出る廊下で、足を止めた。
入口の石柱の向こうへ、白い法衣の人影が消える。見えたのは一瞬だけだったが、胸元には金の刻印があった。
枢機卿の直属だ。
視察官か。
第三の聖域の完了光を、入口から見ていたのだろう。エリシアが空に展げた万華鏡も、石が鳴いた長さも、アメジストへ変わった光も。報告は数日で枢機卿の手に渡る。
これまで寄越してきた刺客は、もう来ない。
次は、本体だ。
悪くない。
足のつかない刺客より、信仰で動くあの男の方が、よほど読みやすい。あの光を見た人間の中で、何かが動き出す。視察官が持ち帰る一行が、大叔父の信仰をどう軋ませるか。
第四の聖域で、確かめる。
俺は顔を変えず、エリシアの隣へ戻った。
*
並んで歩く廊下で、彼女の手が目に入った。
指先が、白い。
深く潜った演算のあとだ。血の気が、末まで戻りきっていない。アウロラやソリスより、ずっと深いところまで行ったのだから。
考えるより先に、俺は彼女の左手を、両手で包んでいた。
歩きながら。
理由も、もっともらしい口実も、今日は何も並べなかった。
並べる必要が、もうなかった。
指先の白さと、まだ腕に残る演算の余波を、そのまま手のひらで包み返す。
エリシアの足が、かすかに止まる。
見上げてきた瞳に、窓の外の夕暮れが赤く沈んでいた。
「ヴァレリウス……?」
問いかけるような、かすかな声。
俺は手を離さない。
力を込めるでもなく、ただ体温を重ねた。
これだけは、嘘じゃない。
「……行こう。少し、冷えているね」
これが嘘か本当か、今の彼女には量れないだろう。
それでいい。
包んだ手の熱だけは、夕日の廊下で、確かな事実として彼女の手に残る。
完璧な嘘だけで彼女を包んでおくつもりは、もうなかった。
*
馬車では、向かいではなく、隣に座った。
エリシアの反応が、一拍遅れた。
いつもは対面に座る。隣という席を、彼女は最初から選択肢に入れていなかったらしい。何か言う前に、俺はもう座っている。
肩が触れるか触れないか、その距離だ。
彼女がかすかに身を硬くするのが伝わってくる。困っている。今日のいくつもの名前のつかないものを並べようとして、隣の体温がそれを乱しているのだろう。
悪いとは、思わない。
少しでいい。
俺のことで乱れてくれればいい。
聖域の設計図より一拍だけ、俺のことを考える時間が増えればいい。
エリシアが蜜豆を一粒、口に入れた。
「甘い」
ちゃんと甘いのだろう。その甘さの裏で、俺の左半身を何が流れ続けているか、今日、彼女は知ってしまった。
もう、知らないふりはできない。
知った上で、それでも俺の隣にいてくれるのならいい。
夕暮れが、馬車の中まで赤く染める。
彼女の手には、まだ俺の手の熱が残っているはずだった。




