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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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そうだよ

部屋が、静かだった。


俺は彼女を見た。


一秒。


二秒。


答えは、とうに決まっていた。


バングルを渡したあの夜から、この問いが来る日のために、決めてあった。


『ないよ』


あの完璧な嘘は、この夕暮れで終わりにする。


「そうだよ」


それだけ言った。


受け取った、とも。

設計した、とも。

これからも受け取る、とも。


まだ言わない。


けれど、その四文字だけは嘘ではない。俺が彼女に渡せる、最初のまじりけのない真実だった。


エリシアの表情が、揺れた。


喜びでも、安堵でもない。


何かが、重く沈んでいく顔だ。


彼女の中で、何かが軋んだように見えた。自分の痛みなら、作業の内側へ押し込んでしまう子が、その痛みを誰かが代わりに背負っていたと知って、初めて立ち止まっている。


他人の苦しみには誰より敏い。


自分のことだけ、いつも最後に回す。


その盲点が今、痛みを持ち始めている。


俺が、その痛みを作った。


必要な棘だと、決めて作った。それでも、彼女のこの顔は、思っていたより堪える。


「……ないよ、と言っていましたが」


「俺への副作用は、言わなかった」


正確に返した。


技としては、正確だった。彼女が確かめなかっただけだ。そういう言い方でしか、まだ守れない。


エリシアの目が、バングルから俺のピアスへ動く。


「……これを設計したのは」


「俺だよ」


「……何のために」


そこで、言葉が一拍遅れた。


本当の理由は、まだ渡せない。


繋がっていたかった、とは。

手放したくなかった、とは。

君の痛みがこちらへ来ることに、救われていた、とは。


今ここでそれを言えば、彼女はそれさえ自分の責任に変えようとする。俺の欲まで、丁寧に背負おうとする。


そこまで背負わせたくはなかった。


少しだけ、視線を落とした。


「エリシアが、演算できるように。それだけだよ」


嘘ではない。


ただ、すべてでもない。


残り半分は、まだ俺の中に伏せたままだ。


「だから作った」


エリシアは、しばらく動かなかった。


「……ありがとうございます」


また、その言葉だった。


今のこれに、その言葉では足りていないと感じているのだろう。そういう顔だ。それでも、ほかの言葉が出てこない。出てこないまま無理に押し出した不器用な言葉が、いとおしかった。


訂正はしなかった。


代わりに、ゆっくりと息を吐いた。


長く、ずっと止めていた息を。


    *


聖域を出る廊下で、足を止めた。


入口の石柱の向こうへ、白い法衣の人影が消える。見えたのは一瞬だけだったが、胸元には金の刻印があった。


枢機卿(すうききょう)の直属だ。


視察官か。


第三の聖域の完了光を、入口から見ていたのだろう。エリシアが空に展げた万華鏡も、石が鳴いた長さも、アメジストへ変わった光も。報告は数日で枢機卿の手に渡る。


これまで寄越してきた刺客は、もう来ない。


次は、本体だ。


悪くない。


足のつかない刺客より、信仰で動くあの男の方が、よほど読みやすい。あの光を見た人間の中で、何かが動き出す。視察官が持ち帰る一行が、大叔父の信仰をどう軋ませるか。


第四の聖域で、確かめる。


俺は顔を変えず、エリシアの隣へ戻った。


    *


並んで歩く廊下で、彼女の手が目に入った。


指先が、白い。


深く潜った演算のあとだ。血の気が、末まで戻りきっていない。アウロラやソリスより、ずっと深いところまで行ったのだから。


考えるより先に、俺は彼女の左手を、両手で包んでいた。


歩きながら。


理由も、もっともらしい口実も、今日は何も並べなかった。


並べる必要が、もうなかった。


指先の白さと、まだ腕に残る演算の余波を、そのまま手のひらで包み返す。


エリシアの足が、かすかに止まる。


見上げてきた瞳に、窓の外の夕暮れが赤く沈んでいた。


「ヴァレリウス……?」


問いかけるような、かすかな声。


俺は手を離さない。


力を込めるでもなく、ただ体温を重ねた。


これだけは、嘘じゃない。


「……行こう。少し、冷えているね」


これが嘘か本当か、今の彼女には量れないだろう。


それでいい。


包んだ手の熱だけは、夕日の廊下で、確かな事実として彼女の手に残る。


完璧な嘘だけで彼女を包んでおくつもりは、もうなかった。


    *


馬車では、向かいではなく、隣に座った。


エリシアの反応が、一拍遅れた。


いつもは対面に座る。隣という席を、彼女は最初から選択肢に入れていなかったらしい。何か言う前に、俺はもう座っている。


肩が触れるか触れないか、その距離だ。


彼女がかすかに身を硬くするのが伝わってくる。困っている。今日のいくつもの名前のつかないものを並べようとして、隣の体温がそれを乱しているのだろう。


悪いとは、思わない。


少しでいい。


俺のことで乱れてくれればいい。


聖域の設計図より一拍だけ、俺のことを考える時間が増えればいい。


エリシアが蜜豆を一粒、口に入れた。


「甘い」


ちゃんと甘いのだろう。その甘さの裏で、俺の左半身を何が流れ続けているか、今日、彼女は知ってしまった。


もう、知らないふりはできない。


知った上で、それでも俺の隣にいてくれるのならいい。


夕暮れが、馬車の中まで赤く染める。


彼女の手には、まだ俺の手の熱が残っているはずだった。

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