受け取る側
バングルを渡してから、数ヶ月が過ぎた。
その間、左耳と手首を繋ぐ道は、一度も途切れなかった。
彼女が演算を走らせるたび、手首の石が温み、その熱が俺の左半身へ届く。低く、途切れない痛み。彼女の魔核の歪みが、俺の中を通っていく。
慣れた。
慣れたが、消えはしない。
消えないことが、むしろ正しかった。彼女が色を見て、蜜豆を甘いと言い、深い演算へ潜っていける。その証が、俺の体に残っている。
アウロラでも、ソリスでも、俺にできたのは石越しに読むことだけだった。彼女が聖域の台に触れ、何を引き受けているのか。どれほどの重さを、どこまで押し込んでいるのか。外側から察するしかなかった。
だが——今日は違う。
バングルを渡した今、初めて、それを俺が受け取る。
第三の聖域、ボレアス。
彼女がずっと一人で歩いていた場所へ、ようやく半歩だけ踏み込める。
*
刻の栞を抜けると、夏だった。
見渡す限り、平らな土地だ。背の高い建物はなく、低い家並みが地平まで続いている。その向こうで、黄金の小麦畑が風に光っていた。穀物を干し、積み、運ぶための町。容赦のない夏の光が、何もかもを白く灼いている。
俺は、その眩しさの中で隣のエリシアを見た。
彼女は景色を眺めている。
見てはいない。
窓の外の夏も、地平の金も、その目に映してはいる。けれど、意識はもう別の場所にある。頭の中の設計図だけを見ている、あの目だ。
今日の改修は、これまでで最も深く、最も複雑だと、本人がいちばんよく分かっているのだろう。
「今日は最初から一緒ですね」
「うん」
それだけ言った。
もう、彼女の知らない場所から見守るだけでは足りない。
今日は最初から隣にいて、痛みごと受け止める。
馬車に乗り換え、立入禁止の森を抜けた。夏の光が木々に遮られ、こもった熱が車内へ沈む。エリシアは揺られながらも演算の中にいる。森へ入ったことも、意識の外だろう。
それでも、隣にいる。
それだけで、前とは違った。
*
聖域に着いた。
第二と同じく、黒石の巨大な立方体だった。古い石の重さがある。六面を覆う花は、アウロラの白でも、ソリスの金でもない。蒼に菫をひと匙落としたような、澄んだ青紫。
その大輪のただ一点、三色が完全に交わる核心だけが、アメジストに灯っていた。
彼女の瞳と、同じ色で。
エリシアが台に向かう。
その髪に、小さな葉が一枚、絡んでいた。
考えるより先に、指が伸びる。そっと、つまみ取った。
「ついていた」
それだけ言って、葉を落とす。
エリシアが一拍遅れて自分の髪に触れ、もう何もないことを確かめている。彼女が演算の外へ置いた小さなものを、邪魔にならないように拾う。昔から、何度もそうしてきた。
それだけのことだ。
それだけのことが、俺にはいつも、少しだけ惜しい。
髪に触れた指先に、まだ彼女の温度が残っている。口実にできるほどの長さではない。抱き寄せるほどの理由にもならない。だから俺は、葉を捨てるだけで終わらせる。
終わらせるたび、惜しいと思う。
俺は彼女の少し後ろ、手を伸ばせば届く場所に立った。
今日も、ここから見届ける。
彼女が台に触れた瞬間、空間が応えた。
生光が部屋を満たし、刻光の金が床を走り、造光の蒼が壁を這い上がる。アウロラとも、ソリスとも、規模が違う。光の密度が、まるで別物だった。
同時に、繋がりが深くなる。
数ヶ月、低く流れていただけの痛みが、一段跳ね上がった。彼女の演算が、全力で走り出している。その重さが、石の道を伝って俺の左腕へ雪崩れ込んでくる。
重い。
熱い。
息の底を、押し潰される。
これが、彼女が聖域の台に触れるたび、一人で抱えてきたものか。
ソリスでも、俺は光の外にいた。理解したつもりで、身体では知らなかった。
左腕で吠えるこの重さを、彼女は誰にも言わず、そのまま進んできた。
痛いとも。
重いとも。
ただの一度も。
エリシアの背中は、揺れない。傾かない。光の濁流の中で、ただ真っ直ぐに立っている。
その細い背中が、たまらなかった。
守りたい、という言葉では足りない。
分けてほしい、でも足りない。
彼女から俺の側へ引き受けられるものが一つ増えたことが、嬉しくて、腹立たしくて、どうしようもなかった。
*
逆流が来たのは、第四結節を据える瞬間だった。
ふいに、左腕を何かが貫いた。熱ではない。押し返しだ。数百年根を張っていた歪みが、変化を拒んで撥ね返す。その反射が彼女の腕を打ち、石の道を伝って、まっすぐ俺へ来た。
息が詰まる。
声は出さない。
出してはいけない。
彼女の手は、まだ台に触れている。演算は続いている。今ここで俺が乱せば、すべてが崩れる。
肩に力が入った。
それだけだ。
一瞬だけ、許した。
痛みの向こうで、エリシアは手を離さない。光の中に立ち、歪みをほどき、ひとつずつ道を繋いでいく。
数秒。
耐えた。
痛みが引いていく。手首の熱が下がる。彼女の波長が整った。
据えたか。
繋がりが、一段ゆるむ。構造が定まった手応えが、石越しに届いた。
エリシアが、持ちこたえた。
光が、アメジストになる。
石の壁が鳴き始めた。ソリスの時より長い。四重の歪みが、一つずつ解けていく音だ。
やがて、静かになった。
「……成功した」
彼女の声がした。
腕の重さが、消えた。
*
エリシアが振り返った。
その目が揺れている。何かを組み上げようとしている顔に見えた。
その目が、自分の左手首を見る。バングルを見る。
そして、俺の左耳を見た。
赤いしずくの石。
バングルと、対の石。
彼女の中で、線が繋がろうとしている。さっきの熱と、俺の肩と、二つの石を。演算の速さで、答えへ近づいていく。
止められない。
止める気も、なかった。
「……何かあった?」
いつもの声で、訊いた。
エリシアは、すぐには答えなかった。問いの形を探している。聞きたいことは決まっているのに、その言い方が見つからない。そういう間だった。
「その痛みは——」
一度言いさして、続けた。
「あなたに、行っていたんですか」




