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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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受け取る側

バングルを渡してから、数ヶ月が過ぎた。


その間、左耳と手首を繋ぐ道は、一度も途切れなかった。


彼女が演算を走らせるたび、手首の石が温み、その熱が俺の左半身へ届く。低く、途切れない痛み。彼女の魔核の歪みが、俺の中を通っていく。


慣れた。


慣れたが、消えはしない。


消えないことが、むしろ正しかった。彼女が色を見て、蜜豆を甘いと言い、深い演算へ潜っていける。その証が、俺の体に残っている。


アウロラでも、ソリスでも、俺にできたのは石越しに読むことだけだった。彼女が聖域の台に触れ、何を引き受けているのか。どれほどの重さを、どこまで押し込んでいるのか。外側から察するしかなかった。


だが——今日は違う。


バングルを渡した今、初めて、それを俺が受け取る。


第三の聖域、ボレアス。


彼女がずっと一人で歩いていた場所へ、ようやく半歩だけ踏み込める。


    *


刻の栞(ときのしおり)を抜けると、夏だった。


見渡す限り、平らな土地だ。背の高い建物はなく、低い家並みが地平まで続いている。その向こうで、黄金の小麦畑が風に光っていた。穀物を干し、積み、運ぶための町。容赦のない夏の光が、何もかもを白く灼いている。


俺は、その眩しさの中で隣のエリシアを見た。


彼女は景色を眺めている。


見てはいない。


窓の外の夏も、地平の金も、その目に映してはいる。けれど、意識はもう別の場所にある。頭の中の設計図だけを見ている、あの目だ。


今日の改修は、これまでで最も深く、最も複雑だと、本人がいちばんよく分かっているのだろう。


「今日は最初から一緒ですね」


「うん」


それだけ言った。


もう、彼女の知らない場所から見守るだけでは足りない。


今日は最初から隣にいて、痛みごと受け止める。


馬車に乗り換え、立入禁止の森を抜けた。夏の光が木々に遮られ、こもった熱が車内へ沈む。エリシアは揺られながらも演算の中にいる。森へ入ったことも、意識の外だろう。


それでも、隣にいる。


それだけで、前とは違った。


    *


聖域に着いた。


第二と同じく、黒石の巨大な立方体だった。古い石の重さがある。六面を覆う花は、アウロラの白でも、ソリスの金でもない。蒼に菫(すみれ)をひと匙落としたような、澄んだ青紫。


その大輪のただ一点、三色が完全に交わる核心だけが、アメジストに灯っていた。


彼女の瞳と、同じ色で。


エリシアが台に向かう。


その髪に、小さな葉が一枚、絡んでいた。


考えるより先に、指が伸びる。そっと、つまみ取った。


「ついていた」


それだけ言って、葉を落とす。


エリシアが一拍遅れて自分の髪に触れ、もう何もないことを確かめている。彼女が演算の外へ置いた小さなものを、邪魔にならないように拾う。昔から、何度もそうしてきた。


それだけのことだ。


それだけのことが、俺にはいつも、少しだけ惜しい。


髪に触れた指先に、まだ彼女の温度が残っている。口実にできるほどの長さではない。抱き寄せるほどの理由にもならない。だから俺は、葉を捨てるだけで終わらせる。


終わらせるたび、惜しいと思う。


俺は彼女の少し後ろ、手を伸ばせば届く場所に立った。


今日も、ここから見届ける。


彼女が台に触れた瞬間、空間が応えた。


生光(せいこう)が部屋を満たし、刻光(こくこう)の金が床を走り、造光(ぞうこう)の蒼が壁を這い上がる。アウロラとも、ソリスとも、規模が違う。光の密度が、まるで別物だった。


同時に、繋がりが深くなる。


数ヶ月、低く流れていただけの痛みが、一段跳ね上がった。彼女の演算が、全力で走り出している。その重さが、石の道を伝って俺の左腕へ雪崩れ込んでくる。


重い。


熱い。


息の底を、押し潰される。


これが、彼女が聖域の台に触れるたび、一人で抱えてきたものか。


ソリスでも、俺は光の外にいた。理解したつもりで、身体では知らなかった。


左腕で吠えるこの重さを、彼女は誰にも言わず、そのまま進んできた。


痛いとも。

重いとも。

ただの一度も。


エリシアの背中は、揺れない。傾かない。光の濁流の中で、ただ真っ直ぐに立っている。


その細い背中が、たまらなかった。


守りたい、という言葉では足りない。

分けてほしい、でも足りない。


彼女から俺の側へ引き受けられるものが一つ増えたことが、嬉しくて、腹立たしくて、どうしようもなかった。


    *


逆流が来たのは、第四結節を据える瞬間だった。


ふいに、左腕を何かが貫いた。熱ではない。押し返しだ。数百年根を張っていた歪みが、変化を拒んで撥ね返す。その反射が彼女の腕を打ち、石の道を伝って、まっすぐ俺へ来た。


息が詰まる。


声は出さない。


出してはいけない。


彼女の手は、まだ台に触れている。演算は続いている。今ここで俺が乱せば、すべてが崩れる。


肩に力が入った。


それだけだ。


一瞬だけ、許した。


痛みの向こうで、エリシアは手を離さない。光の中に立ち、歪みをほどき、ひとつずつ道を繋いでいく。


数秒。


耐えた。


痛みが引いていく。手首の熱が下がる。彼女の波長が整った。


据えたか。


繋がりが、一段ゆるむ。構造が定まった手応えが、石越しに届いた。


エリシアが、持ちこたえた。


光が、アメジストになる。


石の壁が鳴き始めた。ソリスの時より長い。四重の歪みが、一つずつ解けていく音だ。


やがて、静かになった。


「……成功した」


彼女の声がした。


腕の重さが、消えた。


    *


エリシアが振り返った。


その目が揺れている。何かを組み上げようとしている顔に見えた。


その目が、自分の左手首を見る。バングルを見る。


そして、俺の左耳を見た。


赤いしずくの石。


バングルと、対の石。


彼女の中で、線が繋がろうとしている。さっきの熱と、俺の肩と、二つの石を。演算の速さで、答えへ近づいていく。


止められない。


止める気も、なかった。


「……何かあった?」


いつもの声で、訊いた。


エリシアは、すぐには答えなかった。問いの形を探している。聞きたいことは決まっているのに、その言い方が見つからない。そういう間だった。


「その痛みは——」


一度言いさして、続けた。


「あなたに、行っていたんですか」

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