影は、俺が踏む
銀の腕輪を渡してから、数日が過ぎた。
エリシアには、何も起きていない日々に見えているはずだった。それでいい。何も起きていないように見せるために、俺がいる。
その数日のあいだに、彼女へ近づこうとした影を、いくつも人知れず払っていた。刃はいつも、彼女の視界の外から来る。廊下の角、馬車の先、群衆の切れ目。彼女の意識が届かない場所ばかりを選んで、ひどく律儀に。
なら、俺が先に拾えばいい。
今日の俺の仕事は、城の図書室の廊下を歩くことだった。
中ではエリシアが文献に埋もれている。第三の聖域の設計だ。集中に入った彼女は、もう時間も方角も意識の外へ追いやっている。自分がどれだけ危うい場所にいるかなど、きっと考えてもいない。
廊下には、常に人が行き交っていた。使用人、官吏、伝令。見慣れた水脈だ。そこに混じらない動きは、自然と目につく。
一つ、流れに逆らう動きがあった。
図書室の方へ歩いていく。だが、そちらに用のある人間の足ではない。目的地を見ている目と、目的地の手前を計っている目は違う。護る側に長くいれば、嫌でも覚える。
廊下の折れ目で、その男を止めた。
言葉は要らなかった。
腰の革帯の下に固いものがある。抜き取る。声を上げられる前に、抵抗できない形へ崩す。手際だけは、我ながら冷たい。
冷たくなければ、間に合わない。
ほどなく父の手の者が、音もなく男を引き取っていった。表沙汰にはできない。聖域の祈祷師を狙う刃が城内を歩いていたなどと、国が認めるわけにはいかないからだ。
だから、なかったことにする。
彼女が顔を上げたとき、いつもの午後だけが残っていればいい。
図書室へ戻った。
扉を開けると、エリシアは文献の中にいた。演算の深みにいる横顔。俺が席を外していたことなど、気に留めていないようだった。
悔しいほど、綺麗な集中だった。
「終わった?」
「はい。もう少しあります」
「続けていいよ」
それだけ言った。
君を狙う手が、今し方そこにあった。
そう言えば、彼女はきっと理由を探す。自分の何が敵意を招いたのか。どこで手順を誤ったのか。最後には、自分の存在まで原因の側へ置く。
そこへは行かせたくない。
今の彼女には、文献の静けさだけがあればいい。
*
その夜も、彼女は文献から離れようとしなかった。
「今日は終わり」
「まだ終わっていません」
顔を上げずに返ってくる。ペン先は止まらない。第四層のどこかに、まだ彼女だけが見ている道があるのだろう。
「終わり」
もう一度言って、席のそばまで近づいた。
声を届かせるためが半分。彼女が無理なくこちらを見られる位置に立つためが半分。
「あと三十分」
「駄目」
「二十分」
「駄目」
「十分」
「それは交渉じゃないよ」
「五分」
「エリシア」
名前を呼ぶ。
短く。冷たくならないように。ただ、動かないように。
それで、ようやく彼女は筆を置いた。
止めて初めて、自分の指先が冷えていることに気づいたのだろう。エリシアは両手で指先を包み、少しだけ温めた。窓の外は暗い。机の上には、開いた文献が何冊も重なっている。
根を詰めれば、明日に響く。
世界の歪みにはあれほど鋭いくせに、自分の体の冷えひとつ、最後まで後回しにする。危なっかしくて、目を離せない。
「根を詰めると、明日に響くよ」
そう言って、彼女の前の文献を閉じた。
どの本がどこにあったかは、一緒に戻せる程度には目に入っている。背表紙の傷、栞の位置、彼女が積んだ順番。彼女が演算のために後回しにしたものを、少しだけ拾っておく。
棚へ戻すあいだ、エリシアの視線が一度だけこちらへ来た。
いつから見ていたのか。
そう考えた顔だった。
答えは言わない。
言わなくても、たぶん彼女の中に一つ残る。
後で考えるものが。
*
数日後、市街への公務があった。
いつもの東通りは使わなかった。
あの道はまっすぐで、静かで、人気がない。最短だが、だからこそ刃を振るう側には誂え向きだ。証人もなく、退き道も多い。
南通りを選んだ。
少し遠回りにはなるが、商店が軒を連ね、人と荷車が絶えない。雑踏の中では、刃は振れない。振れば、必ず誰かの目に映る。
「今日は南通りで行く」
「少し遠いですが」
「大丈夫だよ」
俺が大丈夫だと言えば、彼女は頷く。
理由は問わない。その信頼に、今日もまた嘘で応える。
馬車を降りるとき、いつもより半歩だけ早く手を出した。彼女は当然のようにその手を取る。手袋越しの体温。細い指。何も知らずに預けられる重さ。
離すのを、一拍だけ遅らせた。
エリシアは手元を見ただけで、何も言わなかった。
気づいたとしても、まだ名前はつけないだろう。
なら、それでいい。
人混みの中では、隣を歩いた。護衛として自然な位置だ。婚約者としても、不自然ではない。肩が触れるほど近くはない。けれど、彼女がふと顔を上げたとき、俺が視界の端ではなく隣にいる距離だった。
彼女の歩幅に合わせる。
違和感になるか。
日常に溶けるか。
その境目を選んで、歩く。
南通りの半ばで、エリシアが蜜豆の店の前に立ち止まった。
「少しだけ、いいですか」
「……いいよ」
彼女が店の中に入る。その背を見送って、俺は後方へ意識を流した。
二人。
東通りが使えないと見て、慌てて回り込んできたらしい。連携は仕込まれている。だが雑踏に紛れる訓練が足りない。素人ではないが、一流でもない。
誰かが、金をかけてこれを寄越している。
エリシアが店主と話している間に、父の手の者へ渡した。
一人は路地の陰へ。もう一人は、少し先へ誘ってから。雑踏は、最良の幕だ。彼女の午後に血の匂いを持ち込まない。
エリシアが扉の向こうから出てきたとき、俺は何事もなかった場所に立っていた。
「いつもより余分に買えました」
声が弾んでいる。袋が重そうだった。
それが、妙に可笑しかった。
脅威を遠ざけたことより、一袋増えた蜜豆の方が、彼女の今日を少し明るくする。なら、その方がいい。そういう日を、俺は彼女に残したい。
「よかったね」
そう答えながら、視線だけを通りの奥へ流した。
彼女がふと、俺の方を見た。
「何か見ましたか」
「……なんでもないよ」
短く返す。
なんでもない。
君が甘い蜜豆を一袋多く抱えている。今日は、それで充分だ。
帰りの馬車で、エリシアが蜜豆を一粒口に入れた。
「甘い」
それだけ言って、満足そうに袋を閉じた。
その甘さの分だけ、苦さは俺の側にある。
バングルが正しく働いている証だ。
だから、何度でも言ってくれていい。
*
数日後、彼女の引き出しが空になる頃合いを見計らって、小さな包みを用意した。
蜜豆を切らしたときのエリシアは、声より先に少しだけ顔へ出る。
本人は気づいていない。眉の動きも、口元のわずかな沈み方も、すぐに平らへ戻そうとする癖も。長くそばにいれば、そのくらいは目に入る。
執務室で、彼女がいつもの引き出しを開けた。
空だと分かった瞬間、動きがほんのわずかに止まる。
表情がほんの少し落ちて、それから帰りに買う算段へ移ったように見えた。
机の上に、包みを置いた。
「なくなったんだろう?」
「……なぜ分かるんですか」
「顔」
即答すると、エリシアが包みと俺を見比べた。
「顔で分かるものですか」
「分かるよ」
少し笑う。
その程度のことは、分かる。
好きなものが切れた瞬間の小さな落胆も、それを大したことではないと片づける癖も、甘いものが戻ってきてから少しだけ世界を信じ直したような顔をすることも。
そのくらいは、分かる。
エリシアは一粒食べた。
甘い、と声には出さなかった。
けれど、顔に出ていた。
それで充分だった。




