痛みの上に咲く
数日後。
テオドールから短い報せが届いた。
『姉様が野外で演算の検証に行きました。お一人です』
あの弟は、危うい線だけを正確に知らせてくる。
理由は、たぶん分かる。
エリシアは俺に遠慮しているのだろう。バングルを嵌めたまま演算するところを、俺に見られたくない——そんなところか。本人にもまだ言葉になっていないだろうが、何かが変わったことを感じている。
その変化に俺が関わっていることも、彼女なりに察しているのかもしれない。
報せを畳んで、立ち上がった。
行くことにした。
ただし、邪魔はしない。
彼女が安全に検証を終えるまで、見届ける。
*
王都の外れ、神殿が管理する草地の演習場だった。人里から離れた隔離区で、今日は人影がない。
着いたとき、エリシアはもう術を走らせていた。
俺は演習場の端に立ち、声をかけずに待った。彼女の集中を乱さない位置を選ぶ。
終わるまで、見守ればいい。
最初は単純な波だった。
空間へ一本、光が走る。耐えられる。左耳が低く熱を持つ程度だ。
次の段で、密度が上がった。
三色が分かれ、互いに干渉しながら経路を探し始める。これまで感覚のずれに奪われていた余力が、演算へ戻っている。
重さが跳ねた。
奥歯を噛む。
表情は変えない。
体も動かさない。
今は、彼女の集中の中へ入ってはいけない。
*
彼女が三本の波を格子へ編み始めた瞬間、左耳の石が限界を叩いた。
数千の針が、内側から頭蓋へ刺さる。
息を吸う。
吐く。
動くな。
体へ命じる。
それでも、見ていた。
宙に編まれた光の格子が、陽を受けて色を持つ。三色の交わる点が輝き、その内側にさらに小さな格子が生まれていく。フラクタル。彼女の魔力が自然に描いた自己相似の構造が、風もないのにゆっくりと回っている。
綺麗だ。
胸の内だけで言葉が落ちた。
痛みの上に、彼女の数式が咲いている。
それだけで、立っていられる。
*
エリシアが、ふと動きを止めた。
恐らく俺に気づいた。
石が拾った熱か、場の気配か。理由までは分からない。
「——見てください、ヴァレリウス!」
声が跳ねる。
俺は端を離れた。
一歩ずつ彼女へ歩く。穏やかに。急がず。最初からそこにいたような顔で。
「隠しきれなかったね」
言い訳はしない。
エリシアが少し固まる。
「……いつから」
「格子になる前から」
「……ずっとそこにいたんですか」
「うん」
彼女は何か言いかけて、やめた。
叱る言葉より先に、見てほしいものがあるのだろう。
「……見えていましたか。フラクタルが」
ああ。
分かっている。
この光景を、真っ先に俺へ見せたいと思ったのなら。
そう考えてしまった瞬間、痛みの奥が熱くなった。
「うん」
短く答える。
左耳はまだ熱い。数千の針は、まだそこにある。
「……どうでしたか」
格子を見る。
それから、エリシアを見る。
「綺麗だね」
声が、わずかにかすれた。
ずっと胸の奥に置いていた言葉だ。痛みが、最後の鍵を外したのだと思う。
エリシアが少し止まる。
何かが引っかかったように、エリシアは一度だけ瞬きをした。
それから、答えを保留するように格子へ目を戻した。
それでいい。
今の彼女には、まだ分からなくていい。
格子が、また一つ回る。
針が、また刺さる。
それでも見ていた。
エリシアの声が、生き生きと弾んでいる。
幼い頃の彼女には、こんな明るさがあった。けれど、魔核移譲の夜からこちらで、こんなふうに弾む声を聞いた覚えはなかった。
この明るさを、長いあいだ見たかった。
痛みを奥歯で噛み殺して、俺は彼女を見ていた。
彼女の魔力が、正しく回っている。
その証が今、俺の左半身を貫いている。
このために、バングルを作った。
痛みを引き受けるためだけではない。
彼女がこんな声で、自分の光を見上げるために。
今は、それで十分だった。




