完璧な嘘、という愛
バングルを仕上げるのに、三週間かかった。
正確には、腕輪そのものではない。嘘を仕上げるのに、三週間かかった。
銀の輪へ石を嵌めるだけなら、職人の仕事で足りる。難しかったのは、その奥だ。エリシアに何を返し、何を俺の側へ流すか。その匙加減を誤れば、彼女は気づく。エリシアは自分のことには鈍いが、理の歪みには誰より鋭い。
取りすぎれば、不自然な空白になる。残しすぎれば、救えない。俺が背負いすぎれば、いざという時に刃が鈍る。
だから線を探した。
彼女の目に色が戻るだけの量。蜜豆が甘いと分かるだけの量。けれど、俺が立っていられる量。彼女を守る腕も、判断も、声も、何ひとつ鈍らせないぎりぎりの場所。
針の穴へ糸を通すような作業だった。
最初の石は、読むだけだった。就任の頃からは、彼女の綻びを知らせては俺を焦がし、それでも痛みも苦みも引き取ってはくれなかった。
今日からは違う。
この腕輪を嵌めれば、彼女の世界にかかっていた霧の端を、俺の側へ引ける。彼女には、自分の魔核が少し落ち着いたように見えるはずだ。
そのための、完璧な嘘だ。
「来てほしい」と伝えたのは三日前だった。
理由は言わなかった。
エリシアは、理由を聞かなかった。
そういうところが、どうしようもなく好きだった。彼女は俺を信じている。疑いもなく、駆け引きもなく、ただ「ヴァレリウスが来てほしいと言ったから行く」と決める。その信頼を、本人はきっと合理的だと言う。
俺には、甘くて、苦い重さだった。
書斎へ入ってきた彼女が、窓の光に目を細めた。
眩しいのではない。見えづらいのだ。
毎日少しずつ、彼女の世界から色が抜けていく。本人は気のせいにして通り過ぎる。左耳の石は、その薄くなる輪郭を低い熱で知らせ続けていた。
もう、読むだけでは終わらせない。
引き出しから、小さな箱を取り出した。
*
箱を開けると、エリシアの目がわずかに明るくなった。
きれい、と顔に出ている。
一拍遅れて、彼女はちゃんと聞くべきだと思い直したように言った。
「何ですか、これ」
「魔核の安定に使える」
それだけを返した。
本当だ。ただし、本当の一部にすぎない。
「……はめてみてもいいですか」
「こちらへ」
手を差し出すと、彼女は何の疑いもなく手首を預けてくる。
相変わらず細い手首だった。
この手で聖域に触れ、世界を書き換えるくせに、手首だけはひどく頼りない。力を込めれば折れてしまいそうで、けれど実際には、俺よりよほど大きなものを支えている。
「きつかったら、言って」
声は柔らかくした。
いつもの婚約者の声。いつもの、何も知らないふりをする声。
バングルを持ち、留め具を合わせる。赤いしずくの石が、窓の光を受けて小さく灯った。俺が地下室で切り出した石だ。彼女の光衣から零れた欠片を、俺が盗み、俺が形にした。
それも言わない。
留め具を押し込んだ。
カチ、と鳴る。
次の瞬間、左耳の奥で火が開いた。
手首の石が応え、左耳の石が受ける。二つの道が一度に通じた一瞬だけ、重さが想定より大きく膨れた。
奥歯を噛む。
顔は動かさない。
初めの雪崩だけだ。すぐに収まる。収まらせる。
視線は、エリシアの顔から離さなかった。
彼女の目が変わる。
薄い膜が、少しだけ晴れる。紫の奥に光が戻ってくる。完全ではない。まだ霧は残っている。それでも、久しぶりに、そこに生き物の明るさがあった。
生きている目だ。
胸の底が、静かに震えた。
左耳では痛みが始まっている。低く、途切れず、これから毎日俺の中に居座る痛みだ。だが重さは読める。背負って歩ける。剣の振りも、判断も、笑みも、鈍らない。
なら、正しい。
俺はそう決めた。
*
茶を出すと、エリシアがいつものように巾着へ手を入れた。
蜜豆を一粒、口に入れる。
動きが止まった。
「……甘い」
小さな声だった。
もう一粒。
また、止まる。
三粒目。
彼女の眉が、困ったように寄る。おかしい、と考えている顔だ。ずっと苦かったものが甘い。その理由を探している。
効いている。
あの薄い苦みを払いのけようとする、微かな顔が消えている。彼女の舌は、蜜豆をただ甘いものとして受け取っている。
入れ替わるように、俺の舌の奥へ苦さが沈んだ。
彼女が今食べた蜜豆の味ではない。これから俺の中に居座る、低くにじむ苦みだ。試しに茶を含むと、香りの奥に、わずかな苦さが混じっていた。
なるほど。こういう味か。
笑いそうになった。嬉しかったのだと思う。
彼女から消えたものが、こちらへ来た。その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
エリシアが腕輪を見る。
赤いしずくの石が、静かに光っている。
*
エリシアが、俺を見た。
「ねえ、これ……副作用はないの?」
来ると分かっていた問いだった。
「ないよ」
迷いなく返した。
自分の世界が変わったなら、彼女はその理由を探す。腕輪を見る。俺を見る。そして、自分の外に、余計な歪みが出ていないかを気にする。
だから、間を置いてはいけない。嘘は、沈黙の隙間から崩れる。
左耳は熱い。舌の奥には苦みがある。手首から流れ込んだ歪みは、低い痛みになって俺の体に居場所を作り始めている。
その重さを、顔に出さない。
エリシアが俺を見る。
俺は微笑んでいる。いつもの俺だ。
彼女は小さく頷いた。
信じた。一片の曇りもなく。
「……ありがとうございます」
胸が痛んだ。
痛みの種類が、一つ増えただけだ。
「必要なものだから」
そう言って、少しだけ笑う。
「君は、放っておくと無理をするから」
これは本当だ。だから嘘が綺麗に隠れる。
エリシアの目の奥が、ふっと揺れた。たった一言が、彼女の中で何か大きなものに変わったように見えた。
こういうところだ。
本当の言葉を一つ混ぜれば、嘘は優しい形をする。
君が払わずに済んだ分を、俺が引き受ける。君が顧みない痛みを、俺が拾う。君が自分の痛みまで当然のように代償へ差し出すなら、俺もその式へ手を差し込む。君だけに払わせない。
最初から、そういう約束だった。
俺の中だけで交わした、約束だ。
*
エリシアが帰った。
書斎に残ったのは、低く、規則正しく脈のように続く痛みだけだった。左耳へ手をやると、石が熱い。熱いのに、どこか澄んでいた。
これでいい。
窓の外で、夕陽が落ちかけている。
腕輪の石も、左耳の石も、同じ色に灯っていたはずだ。エリシアが気づいたかどうかは分からない。気づいていても、今はまだ何も言わないだろう。
それでいい。
今はまだ。




