↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

73/99

完璧な嘘、という愛

バングルを仕上げるのに、三週間かかった。


正確には、腕輪そのものではない。嘘を仕上げるのに、三週間かかった。


銀の輪へ石を嵌めるだけなら、職人の仕事で足りる。難しかったのは、その奥だ。エリシアに何を返し、何を俺の側へ流すか。その匙加減を誤れば、彼女は気づく。エリシアは自分のことには鈍いが、理の歪みには誰より鋭い。


取りすぎれば、不自然な空白になる。残しすぎれば、救えない。俺が背負いすぎれば、いざという時に刃が鈍る。


だから線を探した。


彼女の目に色が戻るだけの量。蜜豆が甘いと分かるだけの量。けれど、俺が立っていられる量。彼女を守る腕も、判断も、声も、何ひとつ鈍らせないぎりぎりの場所。


針の穴へ糸を通すような作業だった。


最初の石は、読むだけだった。就任の頃からは、彼女の綻びを知らせては俺を焦がし、それでも痛みも苦みも引き取ってはくれなかった。


今日からは違う。


この腕輪を嵌めれば、彼女の世界にかかっていた霧の端を、俺の側へ引ける。彼女には、自分の魔核が少し落ち着いたように見えるはずだ。


そのための、完璧な嘘だ。


「来てほしい」と伝えたのは三日前だった。


理由は言わなかった。


エリシアは、理由を聞かなかった。


そういうところが、どうしようもなく好きだった。彼女は俺を信じている。疑いもなく、駆け引きもなく、ただ「ヴァレリウスが来てほしいと言ったから行く」と決める。その信頼を、本人はきっと合理的だと言う。


俺には、甘くて、苦い重さだった。


書斎へ入ってきた彼女が、窓の光に目を細めた。


眩しいのではない。見えづらいのだ。


毎日少しずつ、彼女の世界から色が抜けていく。本人は気のせいにして通り過ぎる。左耳の石は、その薄くなる輪郭を低い熱で知らせ続けていた。


もう、読むだけでは終わらせない。


引き出しから、小さな箱を取り出した。


    *


箱を開けると、エリシアの目がわずかに明るくなった。


きれい、と顔に出ている。


一拍遅れて、彼女はちゃんと聞くべきだと思い直したように言った。


「何ですか、これ」


「魔核の安定に使える」


それだけを返した。


本当だ。ただし、本当の一部にすぎない。


「……はめてみてもいいですか」


「こちらへ」


手を差し出すと、彼女は何の疑いもなく手首を預けてくる。


相変わらず細い手首だった。


この手で聖域に触れ、世界を書き換えるくせに、手首だけはひどく頼りない。力を込めれば折れてしまいそうで、けれど実際には、俺よりよほど大きなものを支えている。


「きつかったら、言って」


声は柔らかくした。


いつもの婚約者の声。いつもの、何も知らないふりをする声。


バングルを持ち、留め具を合わせる。赤いしずくの石が、窓の光を受けて小さく灯った。俺が地下室で切り出した石だ。彼女の光衣(こうい)から零れた欠片を、俺が盗み、俺が形にした。


それも言わない。


留め具を押し込んだ。


カチ、と鳴る。


次の瞬間、左耳の奥で火が開いた。


手首の石が応え、左耳の石が受ける。二つの道が一度に通じた一瞬だけ、重さが想定より大きく膨れた。


奥歯を噛む。


顔は動かさない。


初めの雪崩だけだ。すぐに収まる。収まらせる。


視線は、エリシアの顔から離さなかった。


彼女の目が変わる。


薄い膜が、少しだけ晴れる。紫の奥に光が戻ってくる。完全ではない。まだ霧は残っている。それでも、久しぶりに、そこに生き物の明るさがあった。


生きている目だ。


胸の底が、静かに震えた。


左耳では痛みが始まっている。低く、途切れず、これから毎日俺の中に居座る痛みだ。だが重さは読める。背負って歩ける。剣の振りも、判断も、笑みも、鈍らない。


なら、正しい。


俺はそう決めた。


    *


茶を出すと、エリシアがいつものように巾着へ手を入れた。


蜜豆を一粒、口に入れる。


動きが止まった。


「……甘い」


小さな声だった。


もう一粒。


また、止まる。


三粒目。


彼女の眉が、困ったように寄る。おかしい、と考えている顔だ。ずっと苦かったものが甘い。その理由を探している。


効いている。


あの薄い苦みを払いのけようとする、微かな顔が消えている。彼女の舌は、蜜豆をただ甘いものとして受け取っている。


入れ替わるように、俺の舌の奥へ苦さが沈んだ。


彼女が今食べた蜜豆の味ではない。これから俺の中に居座る、低くにじむ苦みだ。試しに茶を含むと、香りの奥に、わずかな苦さが混じっていた。


なるほど。こういう味か。


笑いそうになった。嬉しかったのだと思う。


彼女から消えたものが、こちらへ来た。その事実が、どうしようもなく嬉しかった。


エリシアが腕輪を見る。


赤いしずくの石が、静かに光っている。


    *


エリシアが、俺を見た。


「ねえ、これ……副作用はないの?」


来ると分かっていた問いだった。


「ないよ」


迷いなく返した。


自分の世界が変わったなら、彼女はその理由を探す。腕輪を見る。俺を見る。そして、自分の外に、余計な歪みが出ていないかを気にする。


だから、間を置いてはいけない。嘘は、沈黙の隙間から崩れる。


左耳は熱い。舌の奥には苦みがある。手首から流れ込んだ歪みは、低い痛みになって俺の体に居場所を作り始めている。


その重さを、顔に出さない。


エリシアが俺を見る。


俺は微笑んでいる。いつもの俺だ。


彼女は小さく頷いた。


信じた。一片の曇りもなく。


「……ありがとうございます」


胸が痛んだ。


痛みの種類が、一つ増えただけだ。


「必要なものだから」


そう言って、少しだけ笑う。


「君は、放っておくと無理をするから」


これは本当だ。だから嘘が綺麗に隠れる。


エリシアの目の奥が、ふっと揺れた。たった一言が、彼女の中で何か大きなものに変わったように見えた。


こういうところだ。


本当の言葉を一つ混ぜれば、嘘は優しい形をする。


君が払わずに済んだ分を、俺が引き受ける。君が顧みない痛みを、俺が拾う。君が自分の痛みまで当然のように代償へ差し出すなら、俺もその式へ手を差し込む。君だけに払わせない。


最初から、そういう約束だった。


俺の中だけで交わした、約束だ。


    *


エリシアが帰った。


書斎に残ったのは、低く、規則正しく脈のように続く痛みだけだった。左耳へ手をやると、石が熱い。熱いのに、どこか澄んでいた。


これでいい。


窓の外で、夕陽が落ちかけている。


腕輪の石も、左耳の石も、同じ色に灯っていたはずだ。エリシアが気づいたかどうかは分からない。気づいていても、今はまだ何も言わないだろう。


それでいい。


今はまだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。