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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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因果応報

公爵邸に戻った頃には、夜が庭へ降りていた。


エリシアを送り届け、自室の書斎に戻る。上着を脱ぐ前に、机の上へ羊皮紙(ようひし)の束を置いた。分厚い束だ。革紐で三つに分けてある。


南西地区の物流再編。

水路と馬車路の再調整。

ギルド利権の切り分け。


公爵家の収益を増やすため、俺が数か月かけて進めていた案件だった。


約束の時刻に、父が来た。


扉が閉まる。父は椅子へは向かわず、窓際に立った。俺も座らなかった。


「話を聞こう」


いつもの、器の大きな声だった。けれど目だけは公爵のものだ。今日の聖域で何が起きたか、俺が何を飲み込んだか、だいたい読んでいる。


俺は机の上の束を持ち上げた。


「まず、これを父上にお渡しします」


父が眉を上げる。


「……ずいぶん厚いな」


「南西地区の物流再編に関する計画書です。予算、反発する家名、懐柔できる商会、切り捨てるべき利権、初年度の損益まで入っています。実行すれば、公爵家の収益は二年で二割ほど増えるでしょう」


父は受け取った。


数枚めくる。その指が、途中で止まった。


「完璧だな」


「ええ」


「お前が自分でやるつもりだった案件じゃないのか」


「そのつもりでした」


「では、なぜ私の机へ来る」


俺は父を見た。


「明日から、私の予定を空ける必要があるからです」


父は黙った。


俺は続けた。


「神官補佐が聖域へ向かう日、地方視察へ出る日、王城に呼ばれる日。今後、それらと私の公務が重なった場合、私は神官補佐の同行を優先します」


「つまり、この仕事は私にやれと」


「公爵家の危機管理として、最も合理的です」


父の口元が、わずかに動いた。


笑いかけたのか、呆れかけたのかは分からない。


「危機管理か」


「はい」


「お前のいないところで、エリシアに何をさせた。次からは自分が背後に立つ。そういう意味に聞こえるが」


「父上がそうお取りになるなら」


「違うのか」


「私は、公爵家の益を最大限に考えております」


父はそこで、とうとう小さく笑った。


低く、短い笑いだった。


「礼儀正しく噛みつくようになったな」


「教えがよろしいので」


「その上、面倒な仕事を丸ごと親へ投げる」


「実務能力を疑ったことはありません」


「褒めているつもりか」


「事実です」


父が書類の束をもう一度見た。


その目には、厄介ごとを押し付けられた公爵の顔と、息子の成長を面白がる父親の顔が同時にあった。


俺は逃がさなかった。


「次からは、事前にお知らせください」


父の視線が戻る。


「彼女が何に触れるのか。何を背負うのか。誰が動く可能性があるのか。父上と宰相が何を読んでいるのか」


声は荒げなかった。


荒げれば、父は受け止める。


受け止められて、終わる。


だから、穏やかに刺す。


「俺は、彼女の背後に立ちます。立たせてください」


父はしばらく何も言わなかった。


夜の庭で、風が枝を鳴らす。


やがて父が、息を吐いた。


「ひとつ、先に聞け」


「はい」


「聖域の改修を最初に言い出したのは、エリシアだ」


呼吸が止まった。


父は静かに続けた。


「発端は、お前だ。お前を祈祷師(きとうし)代理という役目から逃がす道を探しているうちに、あの子は聖域の綻びへ辿り着いた。世界の理(ことわり)を整えれば、お前の道が開く。そう見た」


言葉が、すぐには形にならなかった。


エリシアが、俺のために。


王城にも、神殿にも、俺にも言わずに。


俺は彼女を守るために、彼女の症状を知らせなかった。治癒の段取りを整え、最後に説明すればいいと思っていた。


彼女は俺の道を開くために、聖域の改修を進めた。俺に止められると分かっていたから、言わなかった。


同じだった。


大切な相手に知られれば、無理をすることを止める。だから黙る。自分が少し無理をすれば済むなら、その方がいいと思う。


俺は、それをしていた。

エリシアも、それをしていた。


嬉しいはずだった。


彼女もまた、俺を、守るべき内側に置いていたのだと分かったから。


けれど同じだけ、苦かった。


俺を守るために、彼女はあの顔で世界へ触れた。


俺が彼女を守るために就いたはずの役目が、彼女に自分を削る理由を与えていた。


まさしく、因果応報だった。


「父上」


声は、思ったより静かだった。


「なぜ、今日まで」


「言えば、お前は止めた」


「止めました」


「今日、止めたか」


その問いだけは、まっすぐだった。


俺の喉の奥が、少しだけ詰まる。


止めたかった。


台から引き剥がしたかった。あんな顔で世界に触れるなと、言いたかった。君は道具ではないと、彼女の肩を掴んででも言いたかった。


だが、止めなかった。


エリシアの一手は、国にとって重かった。


彼女が選んだ一手を奪うことは、彼女を守ることではない。奪うべきは、その選択ではなく、背後に誰も立っていないという空白だ。


それでも。


背後に立つだけでは、たぶん足りない。


エリシアは、止められなかったから自分を削ったのではない。


最善だと思ったから、自分を式の中へ入れた。


なら、次も同じことをする。


俺が同じことをしている限り、彼女のことだけを責める資格もない。


「……止めませんでした」


父が頷いた。


「なら、いい」


「よくはありません」


「分かっている」


父は書類の束を抱え直した。


「次は外さん」


それだけだった。


俺も、それ以上は求めなかった。


「この案件は、精々身を粉にして働かせてもらうとしよう」


父が扉へ向かう。


「ありがとうございます」


「腹立たしいほど綺麗な礼だな」


「感謝しておりますので」


扉が閉まる直前、父の笑い声が少しだけ漏れた。


父が去る。


書斎に一人残る。


今日の抗議は、これでいい。


言わなければならない言葉が残るとすれば、それは父ではなく、エリシアへ向けるものだ。


自分を削れば、相手の心に痕が残る。俺はそれを分かった上でやっている。でもエリシアは恐らく分かっていない。


それに、いつか気づかせる。


ただ、まだ今ではない。


今の彼女には、聖域の改修を続けるための支えが要る。


だから今夜作る石は、まず彼女を楽にするものにする。


そして、必要な時まで気づかせない嘘にする。

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