因果応報
公爵邸に戻った頃には、夜が庭へ降りていた。
エリシアを送り届け、自室の書斎に戻る。上着を脱ぐ前に、机の上へ羊皮紙の束を置いた。分厚い束だ。革紐で三つに分けてある。
南西地区の物流再編。
水路と馬車路の再調整。
ギルド利権の切り分け。
公爵家の収益を増やすため、俺が数か月かけて進めていた案件だった。
約束の時刻に、父が来た。
扉が閉まる。父は椅子へは向かわず、窓際に立った。俺も座らなかった。
「話を聞こう」
いつもの、器の大きな声だった。けれど目だけは公爵のものだ。今日の聖域で何が起きたか、俺が何を飲み込んだか、だいたい読んでいる。
俺は机の上の束を持ち上げた。
「まず、これを父上にお渡しします」
父が眉を上げる。
「……ずいぶん厚いな」
「南西地区の物流再編に関する計画書です。予算、反発する家名、懐柔できる商会、切り捨てるべき利権、初年度の損益まで入っています。実行すれば、公爵家の収益は二年で二割ほど増えるでしょう」
父は受け取った。
数枚めくる。その指が、途中で止まった。
「完璧だな」
「ええ」
「お前が自分でやるつもりだった案件じゃないのか」
「そのつもりでした」
「では、なぜ私の机へ来る」
俺は父を見た。
「明日から、私の予定を空ける必要があるからです」
父は黙った。
俺は続けた。
「神官補佐が聖域へ向かう日、地方視察へ出る日、王城に呼ばれる日。今後、それらと私の公務が重なった場合、私は神官補佐の同行を優先します」
「つまり、この仕事は私にやれと」
「公爵家の危機管理として、最も合理的です」
父の口元が、わずかに動いた。
笑いかけたのか、呆れかけたのかは分からない。
「危機管理か」
「はい」
「お前のいないところで、エリシアに何をさせた。次からは自分が背後に立つ。そういう意味に聞こえるが」
「父上がそうお取りになるなら」
「違うのか」
「私は、公爵家の益を最大限に考えております」
父はそこで、とうとう小さく笑った。
低く、短い笑いだった。
「礼儀正しく噛みつくようになったな」
「教えがよろしいので」
「その上、面倒な仕事を丸ごと親へ投げる」
「実務能力を疑ったことはありません」
「褒めているつもりか」
「事実です」
父が書類の束をもう一度見た。
その目には、厄介ごとを押し付けられた公爵の顔と、息子の成長を面白がる父親の顔が同時にあった。
俺は逃がさなかった。
「次からは、事前にお知らせください」
父の視線が戻る。
「彼女が何に触れるのか。何を背負うのか。誰が動く可能性があるのか。父上と宰相が何を読んでいるのか」
声は荒げなかった。
荒げれば、父は受け止める。
受け止められて、終わる。
だから、穏やかに刺す。
「俺は、彼女の背後に立ちます。立たせてください」
父はしばらく何も言わなかった。
夜の庭で、風が枝を鳴らす。
やがて父が、息を吐いた。
「ひとつ、先に聞け」
「はい」
「聖域の改修を最初に言い出したのは、エリシアだ」
呼吸が止まった。
父は静かに続けた。
「発端は、お前だ。お前を祈祷師代理という役目から逃がす道を探しているうちに、あの子は聖域の綻びへ辿り着いた。世界の理を整えれば、お前の道が開く。そう見た」
言葉が、すぐには形にならなかった。
エリシアが、俺のために。
王城にも、神殿にも、俺にも言わずに。
俺は彼女を守るために、彼女の症状を知らせなかった。治癒の段取りを整え、最後に説明すればいいと思っていた。
彼女は俺の道を開くために、聖域の改修を進めた。俺に止められると分かっていたから、言わなかった。
同じだった。
大切な相手に知られれば、無理をすることを止める。だから黙る。自分が少し無理をすれば済むなら、その方がいいと思う。
俺は、それをしていた。
エリシアも、それをしていた。
嬉しいはずだった。
彼女もまた、俺を、守るべき内側に置いていたのだと分かったから。
けれど同じだけ、苦かった。
俺を守るために、彼女はあの顔で世界へ触れた。
俺が彼女を守るために就いたはずの役目が、彼女に自分を削る理由を与えていた。
まさしく、因果応報だった。
「父上」
声は、思ったより静かだった。
「なぜ、今日まで」
「言えば、お前は止めた」
「止めました」
「今日、止めたか」
その問いだけは、まっすぐだった。
俺の喉の奥が、少しだけ詰まる。
止めたかった。
台から引き剥がしたかった。あんな顔で世界に触れるなと、言いたかった。君は道具ではないと、彼女の肩を掴んででも言いたかった。
だが、止めなかった。
エリシアの一手は、国にとって重かった。
彼女が選んだ一手を奪うことは、彼女を守ることではない。奪うべきは、その選択ではなく、背後に誰も立っていないという空白だ。
それでも。
背後に立つだけでは、たぶん足りない。
エリシアは、止められなかったから自分を削ったのではない。
最善だと思ったから、自分を式の中へ入れた。
なら、次も同じことをする。
俺が同じことをしている限り、彼女のことだけを責める資格もない。
「……止めませんでした」
父が頷いた。
「なら、いい」
「よくはありません」
「分かっている」
父は書類の束を抱え直した。
「次は外さん」
それだけだった。
俺も、それ以上は求めなかった。
「この案件は、精々身を粉にして働かせてもらうとしよう」
父が扉へ向かう。
「ありがとうございます」
「腹立たしいほど綺麗な礼だな」
「感謝しておりますので」
扉が閉まる直前、父の笑い声が少しだけ漏れた。
父が去る。
書斎に一人残る。
今日の抗議は、これでいい。
言わなければならない言葉が残るとすれば、それは父ではなく、エリシアへ向けるものだ。
自分を削れば、相手の心に痕が残る。俺はそれを分かった上でやっている。でもエリシアは恐らく分かっていない。
それに、いつか気づかせる。
ただ、まだ今ではない。
今の彼女には、聖域の改修を続けるための支えが要る。
だから今夜作る石は、まず彼女を楽にするものにする。
そして、必要な時まで気づかせない嘘にする。




