初心な動揺
帰路は、森の底から始まった。
ソリス聖域の石扉を離れると、外の空気はすでに夕方の匂いを帯びていた。森の入口に、帰りの馬車が待っている。エリシアは先に乗せられていた。
少し遅れて、俺は馬車に乗り込んだ。
向かいの席に腰を下ろし、いつもの顔を作る。少なくとも、彼女の目に映る範囲では。
扉が閉まり、馬車が動き出す。
車輪が湿った土を噛むたび、森の影が窓の縁で揺れた。来た時よりも森は深い。西へ傾いた光は枝葉に細かく裂かれ、金の粉のように路へ落ちてはすぐ消える。
馬車の内側は薄暗い。
しばらく、車輪の音だけがあった。
向かいの席で、エリシアが蜜豆を食べている。一粒ずつ。小さな袋から取り出し、口に含み、また少し考える。その仕草だけが、この密やかな箱の中で妙に近い。
彼女は今日、世界を少し変えた。
その手で、聖域の理へ触れた。三色の濁流を己の光衣に通し、最後まで台から手を離さなかった。——来る道に刃が潜んでいたことも、知らないまま。
なのに今は、いつものように蜜豆を食べている。
何もなかった顔で。
胸の奥が、鈍く鳴った。
怒りではない。安堵だけでもない。名をつけたばかりの熱が、暗い馬車の中で静かに息をしている。
俺は彼女の顔を見た。
唇の色が薄い。目元は静かだが、肌の白さがいつもより一枚冷えている。疲れている。本人は、たぶんそう思っていない。
「……少し、顔色が悪い」
「いつも通りです」
即答だった。
予想通りの答えでもあった。
「そう」
それだけ言って、黙った。
いつも通りではない。だが、ここで重ねて聞けば、彼女は自分の疲れより先に俺の心配まで背負おうとする。だから、飲み込む。
数秒後、俺は手を伸ばした。
エリシアのコートの衿元が、ほんの少し開いていた。
口実としては十分だった。
「少し、開いていた」
声は、いつもの声にした。穏やかで、何も含ませない声。
指先で衿の端を取る。布は冷えている。だが、その奥にある首筋は生きていた。白い肌のすぐ下で、細い脈が打っている。
触れたのは一瞬だ。
衿を直す動作に紛れ込ませた、ごく薄い写し。首筋の拍動。肌の温度。呼吸の間隔。読み取るべきものは、確かに読めた。
だが、それだけではなかった。
触れたかった。
その事実が、指先に残った。
エリシアが俺を見る。紫の瞳が、俺の手元を見て、それから自分の衿に触れた。
「……ありがとうございます」
疑わない。
戸惑いもしない。
俺が彼女の衿を直すことは、彼女にとってまだ「いつものこと」の範囲にある。
今は、それでいい。
今は。
俺は手を引いた。もう少し遅ければ、彼女が理由を探す。もう少し長ければ、俺の方が理由を失う。
けれど、いちばん深い場所には、それでは届かない。
生光の、さらに奥。
彼女の核の根に近いところ。
そこへ触れる道は、一つしかない。
唇だ。
知らなかったわけではない。
去年の初冬、テオドールがそれを告げた日から、彼女を根から戻すには最後に唇を重ねるほかないと知っていた。そう知ったうえで、俺がやると決めた。
あのときの俺にとって、それは術式の条件だった。残酷だが必要で、避けられない手段。そう割り切れば、自分の内側を覗かずに済んだ。
だが自分の気持ちをはっきりさせた今は違う。
唇、と思った瞬間、首筋に触れたばかりの熱が戻ってくる。彼女の唇に、自分の唇を重ねる。ただそれだけの形が、術式ではなくなる。必要だからではない。救うためだけでもない。そこに、もっと身勝手な熱が混じる。
落ち着けと、内側で命じた。
従わなかったのは、感情の方だった。
完璧な貴公子であるはずの男が、向かいで蜜豆を食べ終えた令嬢の唇を、見ないようにするだけで一拍を失う。
窓の外へ視線を逃がした。
森の影が途切れる。
不意に、光が馬車の中へ流れ込んだ。
高台の森を抜けると、ソリスの神殿街が眼下に開けていた。丘の斜面に沿って、白い屋根と淡い石壁が夕陽を受けている。その向こうには牧草地が続き、風が草の面を撫でるたび、遠い場所から金の波が寄せてくる。
さっきまでの森の暗さが、嘘のようだった。
エリシアも窓の外を見ていた。
蜜豆の袋は、もう閉じられている。横顔は静かで、今日起きたことの半分も知らない。森で止めた男のことも、父が俺を盤上に置いたことも、俺が彼女の光衣から零れた欠片を盗んだことも。
いずれ、話さなければならないことはある。
だが、この馬車の中で彼女に背負わせるものではない。
向かいの席にエリシアがいて、夕暮れを見ている。その首筋には、さっき指に残った脈が、何事もなかったように続いている。
その静けさを守るには、見ているだけでは足りなかった。
今夜、石を作る。




