名付けられた狂気
森で止めた男のことを、もう一度だけ思い返した。
結界の手前で、聖域の方角だけを見ていた目。あれが今日ひとつとは限らない。次が来れば、また俺が止める。彼女の知らないところで。
エリシアは振り返らない。
台から手が離れていない。作業は続いている。森で何があったかを知らないまま、彼女は最後の一手を置こうとしている。
*
エリシアの背中は、台の光の中で真っ直ぐだった。
揺れない。傾かない。何が起きたか知らない。
俺がここで何をしたか、知らない。
知らないまま術式を続けている。
背後が安全かどうかを、今は考えていない。
安全だという前提で立っている。
俺がいるから、そうできているのだと思いたい。
その前提に気づいた瞬間、散っていたものがひとつに噛み合った。
この作業の正体。宰相がここにいる理由。あの男が今日この森へ忍び込んだ理由。父が要領を得ない指示で、今日俺を同行させた理由。
ようやく、ひとつの形になった。
エリシアは、聖域の理を書き換えている。
長いあいだ、誰も手をつけられなかったこの国の根幹を、たった一人で設計し、実行に移している。その書き換えは、誰かにとって救いであると同時に、今ある均衡を壊すものになる。だから止めようとする者が現れる。
現れた。
今日、この森で。
俺が来なければ、あの男は森を抜けていたかもしれない。
父がいる。宰相がいる。だが二人は、聖域の中だ。森の路までは手が回らない。
父は、最初からそこを俺に空けた。
俺が動くのを、見越して。
父は知っていた。だから俺を連れてきた。
そしてエリシアは、そのことを知らない。
俺がここにいる理由も、今日この森で起きたことも。
彼女は俺に背を向けて、俺を信じている。背後が安全だという前提で、命懸けの作業をしている。
なのに、計画は話さなかった。
俺の前に立ったとき、彼女は俺を入れなかった。
違う。
たぶん、信じているからこそ、話さなかった。
話せば俺が止めると信じていた。
止めた。間違いなく。
エリシアを、自身を削るような危険な作業に従事させられるはずがないと、俺は言っただろう。
俺が代わる。俺が引き受ける。俺が。
きっと、そう言った。
だから彼女は、俺を外した。
その正しさが、たまらなく苦しい。
俺を信じて背中を預ける。
俺を信じて計画を隠す。
二つの信頼が、同じ娘の中で並んでいる。
その矛盾ごと、エリシアだった。
外側の危険なら、止められる。
森の男も、社交界の棘も、国の都合も、俺は退ける手を持っている。
だが、彼女が自分を術式に置くことだけは、外からでは止められない。
俺は、彼女をただ守るべき内側に置いていた。
俺は彼女の信頼の内側にいる——それを疑う理由は、今朝まで、どこにもなかった。
信頼は、たぶん今も本物だ。だが今日、彼女が一人で立っていた場所は、その信頼の届く範囲より、さらに深かった。
守れているという自負が、音もなく崩れていく。俺が固めてきたのは、彼女の周りだけだ。
苦かった。
エリシアの性格は、知っているつもりだ。彼女は、世界のためという曖昧な大義だけで、自分を差し出す人間ではない。誰が救われ、何が変わるのか。結果の見えないもののために、むやみに身を削ることもしない。
けれど、手を伸ばせば確かに誰かを救えると分かった時は違う。
もし、あの頃と同じなら。目的を果たすのが困難であるほど、彼女は手段の中に自分を入れる。そうすることが最善だと判断すれば、俺さえ欺く。
では、これは——誰を守るための最善だ。
問いの先で、何かが一瞬だけ形になりかけて、崩れた。根拠がない。ないのに、胸の奥だけが妙に騒ぐ。
彼女は、俺の知らない場所で自分を削った。今の俺に掴めている事実は、それだけだ。
俺は、自分の驕りに震えていた。
怒りに似ている。恐怖に似ている。悲しみにも似ている。
だが、そのどれでも足りない。
もっと奥だ。もっと熱い。エリシアが死ぬ世界を、俺は許さない。
それだけは、もう譲れなかった。
*
責任ではない。誓いでもない。
守りたい、だけでもない。
愛だ。
名前をつけた瞬間、逃げ場がなくなった。
俺のそれは、優しいだけのものではない。綺麗でもない。彼女を守りたい。生かしたい。痛みを引き取りたい。
そして、こちらを見てほしい。
俺を、ただ安全な壁としてではなく、一人の男として見てほしい。
その願いがある時点で、これは献身だけではない。
愛と呼ぶなら、狂気とも隣り合っている。
だからこそ、律する。
この傷も、欲も、彼女を怯えさせる形では渡さない。
もう、なかったことにはしない。
急に距離を詰めれば、エリシアは理由を探す。理由が見つからなければ棚に積み、また自分の心を後回しにする。
それでは意味がない。
彼女が理由を失わずにいられる速度で近づく。
けれど、曖昧には戻さない。
保護者の距離を、一人の男の距離へ変えていく。
今日から、少しずつ。
エリシア。
君が自分の身まで、誰かを守るための手段に数えるなら、俺はその前に立つ。君が願いの中に自分の幸せを数え忘れるなら、君自身も幸せになる側にいなければならないのだと、俺が思い出させる。
必要なら、俺の痛みも見せる。
君が自分を削れば、誰かが傷つくのだと。
その誰かの中に、俺がいるのだと。
俺の隣にいたいと、彼女自身の意思で願わせる。
*
「……成功した」
エリシアの声がした。
台の光が、ゆっくりと鎮まっていく。
それから、エリシアが振り返った。
壁際の宰相。父の側近。俺。森で起きたことの気配は、この部屋にひとつも残っていない。
違和感だけは拾ったのだろう。
構図を確認して、彼女は言った。
「……何かありましたか」
声は、いつもと同じだった。完全に平静な声。
エリシアは今、何が起きたか知らない。
知らないままでいい。
「何もないよ」
俺は言った。
嘘だ。
だが、この場所ではそれが正しい答えだった。
ただ、顔までは完全に戻せなかった。
怖かったこと。怒っていること。安堵していること。
そして、そのどれとも違う熱。
一瞬だけ、残った。
エリシアが見た。分類できないものを見る目だった。
それでいい。今日の最初は、それでいい。
父が数歩進んで、無言でエリシアの手を確認した。冷えていないか。削られすぎていないか。父はいつも、ためらわずにそれをする。
少しだけ、羨ましかった。今は父の手でいい。
俺が同じように触れれば、たぶん違う意味になる。
違う意味に、してしまう。
「先に馬車へ」
父が言った。
エリシアが俺を一度見た。何かを確認しようとする目だったが、言葉にはならなかった。
それから、出ていく。足音が遠くなった。
父が、側近に短く目で指示した。森に残してきたものの、後始末だ。
部屋に、父と俺だけが残った。
「ヴァレリウス。エリシアと先に帰れ」
父が言った。
「後始末は、私が引き受ける」
短い命令だった。だが、そこには問いが一つもない。俺が彼女の傍を離れないことも、今この場で聞きたいことを呑み込んでいることも、父はもう読んでいる。
「父上」
呼ぶと、父は目だけで続きを促した。
「今夜、お手すきの時間をいただけますか。お話があります」
父は一瞬だけ俺を見た。
何を話すつもりか、その輪郭くらいは分かったのだろう。
「分かった。夜に時間を取る」
それで、十分だった。
今日の続きは、今夜する。
父と。
石と。
俺自身の、名付けたばかりの愛と、その奥でまだ疼いている傷と。
俺はそれだけを決めて、エリシアのいる馬車へ向かった。




