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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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名付けられた狂気

森で止めた男のことを、もう一度だけ思い返した。


結界の手前で、聖域の方角だけを見ていた目。あれが今日ひとつとは限らない。次が来れば、また俺が止める。彼女の知らないところで。


エリシアは振り返らない。


台から手が離れていない。作業は続いている。森で何があったかを知らないまま、彼女は最後の一手を置こうとしている。


    *


エリシアの背中は、台の光の中で真っ直ぐだった。


揺れない。傾かない。何が起きたか知らない。


俺がここで何をしたか、知らない。


知らないまま術式を続けている。


背後が安全かどうかを、今は考えていない。


安全だという前提で立っている。


俺がいるから、そうできているのだと思いたい。


その前提に気づいた瞬間、散っていたものがひとつに噛み合った。


この作業の正体。宰相がここにいる理由。あの男が今日この森へ忍び込んだ理由。父が要領を得ない指示で、今日俺を同行させた理由。


ようやく、ひとつの形になった。


エリシアは、聖域の理を書き換えている。


長いあいだ、誰も手をつけられなかったこの国の根幹を、たった一人で設計し、実行に移している。その書き換えは、誰かにとって救いであると同時に、今ある均衡を壊すものになる。だから止めようとする者が現れる。


現れた。


今日、この森で。


俺が来なければ、あの男は森を抜けていたかもしれない。


父がいる。宰相がいる。だが二人は、聖域の中だ。森の路までは手が回らない。


父は、最初からそこを俺に空けた。


俺が動くのを、見越して。


父は知っていた。だから俺を連れてきた。


そしてエリシアは、そのことを知らない。


俺がここにいる理由も、今日この森で起きたことも。


彼女は俺に背を向けて、俺を信じている。背後が安全だという前提で、命懸けの作業をしている。


なのに、計画は話さなかった。


俺の前に立ったとき、彼女は俺を入れなかった。


違う。


たぶん、信じているからこそ、話さなかった。


話せば俺が止めると信じていた。


止めた。間違いなく。


エリシアを、自身を削るような危険な作業に従事させられるはずがないと、俺は言っただろう。


俺が代わる。俺が引き受ける。俺が。


きっと、そう言った。


だから彼女は、俺を外した。


その正しさが、たまらなく苦しい。


俺を信じて背中を預ける。

俺を信じて計画を隠す。


二つの信頼が、同じ娘の中で並んでいる。


その矛盾ごと、エリシアだった。


外側の危険なら、止められる。


森の男も、社交界の棘も、国の都合も、俺は退ける手を持っている。


だが、彼女が自分を術式に置くことだけは、外からでは止められない。


俺は、彼女をただ守るべき内側に置いていた。


俺は彼女の信頼の内側にいる——それを疑う理由は、今朝まで、どこにもなかった。


信頼は、たぶん今も本物だ。だが今日、彼女が一人で立っていた場所は、その信頼の届く範囲より、さらに深かった。


守れているという自負が、音もなく崩れていく。俺が固めてきたのは、彼女の周りだけだ。


苦かった。


エリシアの性格は、知っているつもりだ。彼女は、世界のためという曖昧な大義だけで、自分を差し出す人間ではない。誰が救われ、何が変わるのか。結果の見えないもののために、むやみに身を削ることもしない。


けれど、手を伸ばせば確かに誰かを救えると分かった時は違う。

もし、あの頃と同じなら。目的を果たすのが困難であるほど、彼女は手段の中に自分を入れる。そうすることが最善だと判断すれば、俺さえ欺く。


では、これは——誰を守るための最善だ。


問いの先で、何かが一瞬だけ形になりかけて、崩れた。根拠がない。ないのに、胸の奥だけが妙に騒ぐ。


彼女は、俺の知らない場所で自分を削った。今の俺に掴めている事実は、それだけだ。


俺は、自分の驕りに震えていた。


怒りに似ている。恐怖に似ている。悲しみにも似ている。


だが、そのどれでも足りない。


もっと奥だ。もっと熱い。エリシアが死ぬ世界を、俺は許さない。


それだけは、もう譲れなかった。


    *


責任ではない。誓いでもない。

守りたい、だけでもない。


愛だ。


名前をつけた瞬間、逃げ場がなくなった。


俺のそれは、優しいだけのものではない。綺麗でもない。彼女を守りたい。生かしたい。痛みを引き取りたい。


そして、こちらを見てほしい。


俺を、ただ安全な壁としてではなく、一人の男として見てほしい。


その願いがある時点で、これは献身だけではない。


愛と呼ぶなら、狂気とも隣り合っている。


だからこそ、律する。


この傷も、欲も、彼女を怯えさせる形では渡さない。


もう、なかったことにはしない。


急に距離を詰めれば、エリシアは理由を探す。理由が見つからなければ棚に積み、また自分の心を後回しにする。


それでは意味がない。


彼女が理由を失わずにいられる速度で近づく。


けれど、曖昧には戻さない。


保護者の距離を、一人の男の距離へ変えていく。


今日から、少しずつ。


エリシア。


君が自分の身まで、誰かを守るための手段に数えるなら、俺はその前に立つ。君が願いの中に自分の幸せを数え忘れるなら、君自身も幸せになる側にいなければならないのだと、俺が思い出させる。


必要なら、俺の痛みも見せる。


君が自分を削れば、誰かが傷つくのだと。


その誰かの中に、俺がいるのだと。


俺の隣にいたいと、彼女自身の意思で願わせる。


    *


「……成功した」


エリシアの声がした。


台の光が、ゆっくりと鎮まっていく。


それから、エリシアが振り返った。


壁際の宰相。父の側近。俺。森で起きたことの気配は、この部屋にひとつも残っていない。


違和感だけは拾ったのだろう。


構図を確認して、彼女は言った。


「……何かありましたか」


声は、いつもと同じだった。完全に平静な声。


エリシアは今、何が起きたか知らない。


知らないままでいい。


「何もないよ」


俺は言った。


嘘だ。


だが、この場所ではそれが正しい答えだった。


ただ、顔までは完全に戻せなかった。


怖かったこと。怒っていること。安堵していること。


そして、そのどれとも違う熱。


一瞬だけ、残った。


エリシアが見た。分類できないものを見る目だった。


それでいい。今日の最初は、それでいい。


父が数歩進んで、無言でエリシアの手を確認した。冷えていないか。削られすぎていないか。父はいつも、ためらわずにそれをする。


少しだけ、羨ましかった。今は父の手でいい。


俺が同じように触れれば、たぶん違う意味になる。


違う意味に、してしまう。


「先に馬車へ」


父が言った。


エリシアが俺を一度見た。何かを確認しようとする目だったが、言葉にはならなかった。


それから、出ていく。足音が遠くなった。


父が、側近に短く目で指示した。森に残してきたものの、後始末だ。


部屋に、父と俺だけが残った。


「ヴァレリウス。エリシアと先に帰れ」


父が言った。


「後始末は、私が引き受ける」


短い命令だった。だが、そこには問いが一つもない。俺が彼女の傍を離れないことも、今この場で聞きたいことを呑み込んでいることも、父はもう読んでいる。


「父上」


呼ぶと、父は目だけで続きを促した。


「今夜、お手すきの時間をいただけますか。お話があります」


父は一瞬だけ俺を見た。


何を話すつもりか、その輪郭くらいは分かったのだろう。


「分かった。夜に時間を取る」


それで、十分だった。


今日の続きは、今夜する。


父と。

石と。

俺自身の、名付けたばかりの愛と、その奥でまだ疼いている傷と。


俺はそれだけを決めて、エリシアのいる馬車へ向かった。

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