罪なら、後で払う
それに気づいたのは、作業が深く沈みはじめた頃だった。
エリシアの足元で、春が狂った。
靴の縁に付いていた泥の中から、細い緑が伸びる。最初は砂埃と区別がつかなかった。だが、ひと呼吸で根が石畳の隙間に食い込み、茎が立ち、葉が開いた。
小さな白い花が咲く。
ひと呼吸の間に咲き、次の瞬間にはしぼんだ。茶色くなり、縮み、灰になった。
音もなく。跡形もなく。
もう一か所、エリシアのスカートの裾に絡まっていた草の種が、同じように芽吹き、咲き、灰になる。
生まれて、咲いて、死んだ。
それは、彼女の体の周囲だけで起きていた。
部屋の反対側には、何も起きていない。
目を上げる。
空間には、三色の光が満ちていた。白。金。蒼。それらが無数の光脈となり、部屋そのものを巨大な立体星図へ変えている。
その奥で、ひどく滲んでいる箇所があった。
理の結び目。
完全に封じ込める機能を持たない仮の繋ぎ目。歴代の調律師を苛んできた痛みの正体が、そこから滲んでいる。
その結び目へ、エリシアが手を伸ばす。
彼女の頭上に、淡く複雑な光の陣が天蓋の様に広がっていた。これは、恐らく光衣だ。彼女自身の魔核を包む光衣を、空間に顕現したもの。
俺の目でも、全体を掴むのがやっとだった。異常なほど精緻で、異常なほど静かだ。
滲んだ結び目が、その光衣へ引き寄せられていく。ほどけた光の糸に、極小の陣が噛み合い、新しい被膜として編み込まれていく。
切断された神経を一本ずつ繋ぐような作業だった。
美しい。
だが、人に求めていい作業ではない。
手が動きかけた。
止めろ。内側で、声がした。
だが、台から彼女の手が離れれば、術式は崩れる。
彼女ごと。
動けない。
その事実が、奥歯に響いた。
なぜ、耐えられる。
答えはすぐに来た。
テオドールだ。
テオドールの魔核は、三色の均衡を失っていた。生光も、刻光も、造光も、互いに干渉し合い、暴れていた。その混乱を、エリシアは自分の内側に引き受けた。
自分の光衣で、長く弟の三色を抑え、整え、並べ続けた。
弟を生かすために引き受け、制御し続けた日々が、世界を繋ぎ直すための膜になっていた。
彼女の優しさが。あの夜の、あまりに無防備な献身が。今、世界の綻びを受け止める形を、彼女の身体に覚えさせてしまっている。
吐き気に似た冷えが、喉元まで上がった。
*
同時に、別の光が見えた。
エリシアの光衣から、ほんの薄く、何かが零れている。
未分化の、剥き出しの魔力。まだ何にも変換されていない、創生の残光。
探していたものだった。
ヴォイドまで行かなければ届かないと思っていた。誰の手にも触れられない世界の底にしか、残っていないと思っていた。
それが今、彼女のすぐ足元に零れている。
彼女が自分を削って開いた光衣から、薄く落ちている。
必要だ。そう理解してしまった。
その瞬間、自分がひどく嫌になった。
彼女が自身を削っている最中に、その欠片を見て、俺は救う手段を考えている。
それでも。これがあれば、変えられる。
瞬時の迷いを払い、手を伸ばす。
遠い日に作った左耳の石は、読むだけだった。彼女の綻びを知らせ、燃え、俺を焦がすだけで、何ひとつ引き取ってはくれなかった。痛みを見ていた。苦みを見ていた。失われていくものを、ただ見ていた。
だがこれなら。
彼女の光衣を通って零れたこの欠片なら、彼女の波長と噛み合う石を作れる。失われていく感覚の一部を、こちらで受けるための石に届く。いつか根まで戻す日まで、進んでいく病のことに、彼女が心を割かずに済む。
盗みだ。そう思った。
許可を取る暇はない。取れば、彼女はおそらく、自分の体の欠片を材料にすることを大したことではないと言う。
それだけは、聞きたくなかった。
罪なら、後で払う。
今は拾う。
魔力の出力を最小まで絞る。意識の外側だけを薄く伸ばし、石畳の端に零れた光へ、影のように細い糸を届かせた。
触れた。
火が走る。
糸を伝って、剥き出しの魔力の欠片が、懐の封じ瓶へ流れ込む。地下室で失敗を重ねたあの夜から、いつか素の魔力に出会う日のために持ち歩いてきた、小指ほどの小さな器だ。
熱い。
瓶を挟んだ布越しにも分かる。あの地下室の坩堝で、何年かけても再現できなかった熱だ。
量を限界まで絞る。隔離する。封じ込める。
採れた。
息を吐くことすら、忘れていた。
ヴォイドまで行かずとも、彼女のすぐ傍に、それは零れていた。
今夜、地下室へ持ち帰る。
これで、やっと。
読むだけの石ではなく、引き取る石に届く。




