彼女の世界の外側
アウロラの聖域での作業から、いくらも経っていない。
初夏が、盛りに差しかかっていた。
「今日はお前も来い」
父の言葉に、追加の説明はなかった。
俺はそれ以上を聞かなかった。
父が説明を省くときは、たいてい二種類だ。言う必要がないと判断しているときか、言えばこちらが動きを変えると知っているとき。
今回がどちらなのかは、まだ分からない。
ソリス聖域への移動は、刻の栞を経由した。この国の要所に点在する古代の転移門。聖域の理と同じ始祖の手による遺物で、遠距離をひと息に繋ぐ。転移の後は、現地で馬車に乗り換える。
父の手配で、俺の経路はエリシアとは別に設定されていた。
「彼女が聖域に入った後に続け。気づかれるな」
それだけが、父から俺に伝えられた指示だった。
理由は言わなかった。
俺も、聞かなかった。
表向きの聖堂を通り過ぎると、森が始まった。木々が馬車を囲んだ瞬間、初夏の光が薄くなる。葉の隙間から落ちる光だけが、路の上を細く照らしていた。
ほどなく結界の気配に触れた。方向感覚が、ほんの少し狂う。
森の奥へ進むほど、結界の気配が濃くなる。
エリシアは、別の馬車で先行しているはずだ。この森のどこかに、今、彼女がいる。
そう思うだけで、意識が左耳へ寄った。石は静かに凪いでいる。異常な熱はない。
森の半ば、結界の縞が空気をかすかに歪ませるあたりで、路の脇に動かないものがあった。
人だった。
巡礼の風体をしている。だが巡礼は、こんな立入禁止の森の奥までは来ない。来られない。結界が、部外者の足をここで止める。男はその見えない壁の手前で、聖域のある方角だけを見ていた。入れずにいる。入る口実を、探している。そういう立ち方だった。
腰の布の下に、線の硬いものがある。
考えるより先に、間合いを詰めていた。
声は出させなかった。手の中のものが、苔の上に落ちる。そのまま路の外へ運び、動けない状態にした。森の入口には、父の手の者が配置されている。じきに引き取るだろう。
(——だから父は、俺を別の経路で先に立たせた)
エリシアは、もう聖域の中だ。この男のことを知らない。知らないまま、台へ向かおうとしている。
馬車へ戻り、森をしばらく進んで最奥に到達する。聖域の石の扉が見えた。
扉を開けた瞬間、宰相の姿が目に入った。
一歩の半分だけ、足が止まる。
誰かに悟られる前に、次の一歩を踏み出した。
宰相がここにいる。
この作業の名目は、神官補佐の地方視察だ。公爵が同行し、神官補佐が実務調律を行う。それだけのはずだった。
宰相がわざわざ地方聖域まで足を運ぶ案件ではない。
つまり、この作業はそれだけではない。
そこまでは、すぐに分かった。
だが、その先がまだ見えない。
父は知っている。宰相も知っている。エリシアは、おそらく当然のように知っている。
俺だけが、知らされていない。
喉の奥に、薄い棘が残った。
*
エリシアが後方へ視線を向けた。
目が合う。
彼女の瞳に、一瞬だけ思考の影が差した。
俺がここにいる理由を測っているように見えた。第一の聖域の作業を、俺がどこまで知っているのか。父が話したのか。今、確かめるべきか。そんなところか。
けれど彼女は、すぐに視線を戻した。
今は作業が先。
そう判断したのだろう。
止めたい、と思った。
何を隠したのか、ここで聞きたい。今すぐ、彼女の前に立って、話してほしいと言いたい。
だが、ここで揺らしても彼女は崩れない。崩れないまま、もっと深く自分を閉じる。そういう人だ。こちらの心配に気づけば、その心配ごと自分の内側へ持っていこうとする。
だから俺は、いつもの声を選んだ。
「何か手伝えることは?」
できることがあるとは思っていない。
それでも彼女が「ある」と言えば、できることは何でもするつもりだった。
「いいえ。手順は、もう決まっていますから」
やはり、と胸の奥で何かが沈んだ。
決まっている。
俺を入れない形で。
「そう」
受け入れたわけではない。
今だけ、預けた。
エリシアの肩から、ほんの少し力が抜ける。
俺の声で安心したのならいい。
そう思ってしまう程度には、嬉しかった。
同じだけ、苦しかった。
「始めてください」と父が言った。
エリシアが術式台へ向かう。
その背中に、俺の視線が置かれる。
彼女は振り返らない。
それでも、術式台へ着くまで俺が動かないことを、たぶん背中で知っている。
長いあいだ、俺は彼女の横にいるつもりでいた。倒れそうなら手が届く距離。何かを見落としたなら、先に拾える距離。彼女が世界から外れかけても、せめて輪郭だけは掴んでいられる距離。
今日は違う。
今日、俺は初めて、彼女が世界へ手を伸ばす瞬間を背後から見る。
彼女の世界の外側から。
台に触れた瞬間、空気が変わった。
床から白が立ち上がる。金が走る。蒼が壁を這い上がる。
いつもの調律ではない。維持ではない。
エリシアは今、この聖域の構造そのものに触れている。
最初に変わったのは、光ではなかった。
彼女の顔だ。
息が詰まった。
知っている。その顔を、俺は知っている。
あの地下聖堂で、弟の暴走する魔核を自分の内側へ引き受けた夜。自分が生き物であることを、ほんの一瞬、どこかへ置いてきたような顔。
命の側から、自分を切り離す顔。
もう見ないで済むところまで来たと、思っていた。
あの夜は、彼女がまだ子どもだったからだと。自分の器の限界を知らず、弟を救う道だけを見ていたからだと。
そう思えていた。
なのに、今。彼女は、俺の目の前でその顔をしている。
第一の聖域でも、そうだったのか。
俺のいない場所で。俺の知らない場所で。
あの夜だけではなかったのか。
彼女は、今もなお、自分を術式に置けてしまうのか。
腹の底が冷える。
父に対しても。宰相に対しても。何も知らなかった自分に対しても。
左耳の熱を気にする余裕さえ、もうない。




