最小限の一手
その日の夜、王宮敷地内の官舎で、宰相ジークベルト・フォン・シュトラーレンは一人、白紙の前に座っていた。
魔力灯の光が、机上に静かに落ちている。
揺れはない。この部屋の灯りは、揺れないよう調整してある。人が長く思考するための部屋だ。
今日目の当たりにした光景を、ジークベルトは何度も思い返していた。
術式台に触れた瞬間、聖域の空気が変わった。生光が部屋を満たし、刻光が金の糸を張り、造光の蒼が床を走る。そこまでは、儀式の定型だった。
その先が違った。
空間全体が一点へ収束した。
石が応え、建物が応え、数百年続いた無理な補正が、一人の少女の掌の中でほどけていった。
成功した。その事実に疑いはない。そして同時に、失敗した場合の規模も見えた。
あの光が行き場を失えば、聖域は消える。
聖域が消えれば、地方一帯の調律が崩れる。
地方一帯の調律が崩れれば、国はそこから裂ける。
恐怖、という言葉は私情のためにあると思っていた。
違った。
国が裂ける可能性は、冷たく、正確に怖い。
あの娘は、鍵だ。同時に、刃だ。
国を救う鍵にも、国を損なう刃にもなる。
しかも本人は、自分がどちらを握っているのか分かっていない。
「……成功した」
あの声を、ジークベルトは覚えている。
死の淵を歩いた者の声ではなかった。問題を解いた者の声だった。
だから、余計に危うい。
ジークベルトは、エリシア・フォン・アルスタという娘を知らない。
何を考え、どこで止まり、どこまで踏み込むのか。
読めない。読めないものを、国の心臓に近い場所へ無防備に置くことはできない。
あの力には、制止線が要る。できれば、国の目が届く場所に。
見届ける目、などという耳ざわりのいい言葉だけで、国は守れない。
ジークベルトは筆を取らなかった。
まだ早い。
もう一つ、確かめるべき相手がいる。
枢機卿イグナティウス。女神の狂信者。
聖域は、あの男にとって女神の御力そのものだ。その聖域に人の手が加えられたと知れば、あの男は必ず動く。
止めにかかる。手段を選ばずに。
枢機卿は、いずれ正面から向き合わなければならない相手だった。
信仰を掲げながら、国の判断を神の名で縛る。あの熱は、いつか必ず国の首を絞める。
ならば、動くなら今だ。
そして、ヴァレリウス。
あの公爵子息について、ジークベルトは多くを語らない。語る必要がない。
エリシアに関わるときのあの男だけは、読み違えない。何があっても、あの娘を死なせない。
それは情の話であり、同時に政治上の見込みでもある。
公爵家の嫡男。若くして祈祷師代理の座に就いた男。
そして、エリシア・フォン・アルスタの危機だけは、決して見過ごせない男。
枢機卿がどれだけ荒い手で出ても、ヴァレリウスがいれば、致命的な結末へ近づけさせない。
そこまで読んで、ようやく一手になる。
ようやく、ジークベルトは筆を取った。
書状は短くていい。短いほど、受け取る者は自分の信仰で空白を埋める。
自分の名前は、どこにも書かない。
宛先は、枢機卿の側近に近い人物の名。
内容は、事実だけだ。一点の嘘もない。
「神官補佐の一名が、王家の非公式な承認のもと、聖域の理の構造修正を実施した。地方聖域における修正は既に完了。中央聖域への適用も予定されている。神殿の関与は、現時点でない」
そこへ、神官補佐の名と、所属と、聖女一族という出自を添える。
これで充分だった。
枢機卿は動く。動かずには、いられない。
神の業を、神殿の承認もなく、民間人が書き換えている。
そう読む。そう読むように、書いた。
最小限の一手だ。
枢機卿が動けば、エリシア・フォン・アルスタの力に外からの制止線が引かれる。
誰も止め方を持たない力に、現実の抵抗がかかる。
枢機卿が手段を誤れば、王が承認した国家事業への干渉として、自ら首を差し出すことになる。
どれだけ荒く出ようと、ヴァレリウスがあの娘を死なせない。
国は損なわれず、才も失わない。
それが、ジークベルトの組んだ一手だった。
あの娘に含むところはない。才は、できれば生かしたい。だが才には、手順が要る。
国が一番だ。その次に、個人を尊重する。
順番を誤れば、温情はただの怠慢になる。
万一、何もかもが裏目に出たとしても。
ジークベルトはそこで筆を止めた。
最悪の場合も想定する。その一文は、書かない。書かなくても、自分は知っている。
望まない結末まで、想定から外しはしない。
それが国を預かる者の仕事だ。
封をする。
灯りを消す。
暗い書斎に、一人、残った。
悔いは役に立たない。必要なら、後で払う。
今は、一手を進める。
ただ、聖域が組み変わった瞬間の感触だけが、まだ手のひらから消えなかった。
*
翌日、俺は協議を終えて王都へ戻った。
父から、短い報告が届いていた。
「第一の聖域での作業は、成功した。エリシアは体調良好。次回の作業には、お前も同行してほしい」
それだけだった。
次回の作業には、お前も同行してほしい。その一文で、俺は少しだけ手を止めた。
今まで父は、こういうことを「同行してほしい」とは言わなかった。
必要なら、最初からそう配置する。
わざわざ言葉にするのは、父らしくない。
何か、あったか。そう思いかけて——やめた。
父の連絡の裏を読み始めれば、きりがない。それに、父は書いている。
第一の聖域での作業は、成功した。
エリシアは体調良好。
今は、その二行だけを受け取る。
エリシアは無事だ。
あの子は、俺が信じた配置の中で何かを成し遂げた。
俺には、まだその輪郭が見えない。見えないまま、彼女は無事だった。
昨日のあの熱が何だったのか。石がなぜ、あれほど灼けたのか。それも、分からないままだ。
ただ今は、石は静かだ。彼女の状態が落ち着いたことだけが、左耳から伝わってくる。
知りたい。
だが、無事だと書かれたものを疑い、今すぐ扉を叩けば、俺の恐怖を彼女へ渡すことになる。
それは守りではない。
だから、踏みとどまる。
その夜、テオドールから書状が届いた。
「義兄様。姉様が戻りました。手が、少し冷えていたそうです。夕食はちゃんと食べていました。義兄様の蜜豆の補充が、そろそろ要るかもしれません。——テオドール」
俺は、少し笑った。
蜜豆の、補充。
コートの内ポケットを確かめる。残りは、三粒だった。
明日、補充しよう。
それが、今日の俺にできることだ。
——彼女が昨日どこで、何と向き合い、どれほどのものを、たった一人で成し遂げたのか。
それを知る手段は、今の俺にはない。
左耳は静かで、報告には無事とある。
だから明日、蜜豆を補充する。
今夜は、それでいい。




