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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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届かなかった熱

その日、俺は第一の聖域にいなかった。


初夏の、よく晴れた朝だった。


就任から、二月あまり。俺は王都の南西、調律師組合の協議室で、革張りの椅子に座っていた。


父からの連絡は、三日前に届いた。


「南西地区の調律師組合との協議に出てほしい。緊急の案件で、次期公爵が出ることに意味がある」と。


断る理由は、なかった。


エリシアは第一の聖域へ向かった。父が同行する。宰相も来る。神官補佐の公式視察、という名目で。


問題はない。


そう判断できる材料は揃っている。


父がいる。宰相がいる。彼女の作業を邪魔せず、必要なときには止められる大人が二人いる。


俺の手が届かない場所であっても、今日の配置は悪くない。


協議室で書類を広げながら、俺はその配置を信じることにした。


組合の代表が話している。俺は聞きながら、三手先の落としどころと、二手先の譲歩点を同時に組んだ。


こういう仕事は、嫌いではない。人が言葉の奥に何を隠しているか。権力の重さがどこへ傾いているか。笑顔の裏で、誰が何を守ろうとしているか。それを読むのは、静かな快さがある。


「——ヴァレリウス公子の見解を伺いたい」


「再配置案は第三案を採るべきだ。ただし、東端の補助路線を残すことを条件に。さもなければ、同じ問題が二年後に再発する」


部屋が、少し静かになった。


代表が「……はい」と言う。


会議の流れが変わる。俺は書類を一枚めくった。


その午後の、ある一瞬。


左耳の奥が、跳ねた。


これまで感じたことのない強さだった。


石が、灼ける。


宰相の公邸で灼けたときとは、違う。あのときは外から針を入れられたような熱だった。今は、深い演算の負荷が続いている。その重さを、小さな石が抱えきれずに軋んでいる。


俺は協議の途中で、一度だけ顔を上げた。


止まった。


(——聖域で、何かが起きているのか)


判断が、つかない。


彼女が尋常ではない集中に入っているのは分かる。だが「異常だ」と言い切るには、何かが足りない。足りないというより、判断するための情報が足りない。


輪郭が掴めない。石越しに届くのは、彼女の状態だけだ。


鼓動。

熱。

演算の細かな乱れ。


彼女が今どこで何をしているのか。誰がそばにいるのか。石は、そこまでは教えてくれない。


届かない。代われない。ただ、燃えて知らせるだけだ。


左耳が、熱い。


気づけば、椅子の肘を握っていた。立ち上がりかけて、理性がそれを抑えた。


(父がいる。宰相がいる。問題は、ない)


何度も、そう言い聞かせた。


今すぐここを発って刻の栞(ときのしおり)を使っても、あの聖域に着く頃には何もかも終わっている。俺にできることは、ここにはない。


だから、座っていた。


それでも左耳の熱は引かない。


彼女の負荷が深くなるほど、彼女を読むこの石も限界へ近づく。


離れていても、繋がっている。繋がっているのに、届かない。


それが、こんなにも苛立たしい。


「……続けてください」


協議の相手に向かって、そう言った。


左耳の熱が引くまで、俺は一度も席を立たなかった。


    *


同じ午後、第一の聖域では、エリシアが術式台から手を離したところだった。


術式が完了したとき、ランドルフ・フォン・ラインハイトは動かなかった。


動けなかった、と言うべきかもしれない。


彼はよく笑う男だ。


声が大きく、器も大きい。宮廷の駆け引きの場にいても、どこか晴れた昼のような明るさを失わない。


だが、エリシアが術式を展開しているあいだ、ランドルフは一度も笑わなかった。


あの光。

あの音。

石が鳴く、あの低い震え。


数百年、誰も触れられなかった聖域の歪みが、一人の少女の掌の中でほどけていく。


魔力の運用なら、それなりに分かっている。


権力も、責任も、危険も、この年まで嫌というほど見てきた。


それでも今日の光景は、自分が初めて「魔力とは何か」を知った日のように感じた。


あの子は今、この石が何百年も強いられてきた無理を、一息に解いた。


しかも、静かな顔で。


まるで、少し難しい糸の結び目をほどいただけのように。


エリシアが手を離した。


「……成功した」


その声を聞いた瞬間、ランドルフはようやく動いた。


近づいて、彼女の手を取る。


冷たい。


ひどく冷たい。


この子は今、自分の体から何を持ち出したのか。どれだけ削ったのか。


聞いても、きっとまともな答えは返ってこない。


演算後は末梢に血が戻りにくいんです、とでも言うのだろう。


そういう娘だ。だから困る。だから、可愛い。


手を包んだまま、ランドルフは宰相の顔をひと目だけ見た。


ジークベルトは、もういつもの表情に戻っていた。穏やかな顔。何も揺れていない顔。


だが、戻る前の一秒があった。


ランドルフは、その一秒を見逃さなかった。


長い付き合いだ。あの男があの目をするときは、決まっている。


国のために必要なら、痛みの置き場所を決める目だ。


兵を送るとき。小さな町を切り捨てて、大きな橋を守るとき。


斥候の損耗を、許容範囲と判じるとき。


あの、冷えた目。


今、数えたな。


ランドルフは心の中でそう思った。


この子を、国の判断材料の中に入れた。


敵意ではない。憎悪でもない。


むしろ、ジークベルトはこの子を評価したのだろう。だからこそ怖い。


悪意なら、切ればいい。軽蔑なら、叩き潰せばいい。


だが国のための計算は、政治の男であるランドルフにも分かってしまう。


分かってしまうから、譲れない。エリシアの手は、まだ冷たかった。


ランドルフはその手を包んだまま、心の中だけで決めた。


次からは、ヴァレリウスを連れてくる。理由は言わない。ただ、連れてくる。


ヴァレリウスの隣にいるエリシアを、誰も「一人の犠牲」とは呼べない。


この子は、俺の息子の隣では、国の都合だけで名を変えられない。


それは息子の権利ではない。


この娘を数字へ戻させないための、いちばん強い楔だ。


エリシアの指が、一度、ポケットのあたりへ動いた。


菓子か。


ランドルフは少しだけ笑った。


今日これだけのことをやり遂げて、最初に思い出すのが甘いものか。


こういうときでも、この子は、この子だ。


「後で邸に寄れ」


エリシアが顔を上げる。


「甘いものを用意させる。蜜豆でも焼き菓子でも、好きなだけ食え」


「……ありがとうございます」


この子は今、自分が何を成し遂げたのか、おそらく理論どおりだったとしか思っていない。


それが、この子のすごいところで。


危ういところだ。


だから、俺が。


ランドルフはそう思って、続きは言葉にしなかった。

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