届かなかった熱
その日、俺は第一の聖域にいなかった。
初夏の、よく晴れた朝だった。
就任から、二月あまり。俺は王都の南西、調律師組合の協議室で、革張りの椅子に座っていた。
父からの連絡は、三日前に届いた。
「南西地区の調律師組合との協議に出てほしい。緊急の案件で、次期公爵が出ることに意味がある」と。
断る理由は、なかった。
エリシアは第一の聖域へ向かった。父が同行する。宰相も来る。神官補佐の公式視察、という名目で。
問題はない。
そう判断できる材料は揃っている。
父がいる。宰相がいる。彼女の作業を邪魔せず、必要なときには止められる大人が二人いる。
俺の手が届かない場所であっても、今日の配置は悪くない。
協議室で書類を広げながら、俺はその配置を信じることにした。
組合の代表が話している。俺は聞きながら、三手先の落としどころと、二手先の譲歩点を同時に組んだ。
こういう仕事は、嫌いではない。人が言葉の奥に何を隠しているか。権力の重さがどこへ傾いているか。笑顔の裏で、誰が何を守ろうとしているか。それを読むのは、静かな快さがある。
「——ヴァレリウス公子の見解を伺いたい」
「再配置案は第三案を採るべきだ。ただし、東端の補助路線を残すことを条件に。さもなければ、同じ問題が二年後に再発する」
部屋が、少し静かになった。
代表が「……はい」と言う。
会議の流れが変わる。俺は書類を一枚めくった。
その午後の、ある一瞬。
左耳の奥が、跳ねた。
これまで感じたことのない強さだった。
石が、灼ける。
宰相の公邸で灼けたときとは、違う。あのときは外から針を入れられたような熱だった。今は、深い演算の負荷が続いている。その重さを、小さな石が抱えきれずに軋んでいる。
俺は協議の途中で、一度だけ顔を上げた。
止まった。
(——聖域で、何かが起きているのか)
判断が、つかない。
彼女が尋常ではない集中に入っているのは分かる。だが「異常だ」と言い切るには、何かが足りない。足りないというより、判断するための情報が足りない。
輪郭が掴めない。石越しに届くのは、彼女の状態だけだ。
鼓動。
熱。
演算の細かな乱れ。
彼女が今どこで何をしているのか。誰がそばにいるのか。石は、そこまでは教えてくれない。
届かない。代われない。ただ、燃えて知らせるだけだ。
左耳が、熱い。
気づけば、椅子の肘を握っていた。立ち上がりかけて、理性がそれを抑えた。
(父がいる。宰相がいる。問題は、ない)
何度も、そう言い聞かせた。
今すぐここを発って刻の栞を使っても、あの聖域に着く頃には何もかも終わっている。俺にできることは、ここにはない。
だから、座っていた。
それでも左耳の熱は引かない。
彼女の負荷が深くなるほど、彼女を読むこの石も限界へ近づく。
離れていても、繋がっている。繋がっているのに、届かない。
それが、こんなにも苛立たしい。
「……続けてください」
協議の相手に向かって、そう言った。
左耳の熱が引くまで、俺は一度も席を立たなかった。
*
同じ午後、第一の聖域では、エリシアが術式台から手を離したところだった。
術式が完了したとき、ランドルフ・フォン・ラインハイトは動かなかった。
動けなかった、と言うべきかもしれない。
彼はよく笑う男だ。
声が大きく、器も大きい。宮廷の駆け引きの場にいても、どこか晴れた昼のような明るさを失わない。
だが、エリシアが術式を展開しているあいだ、ランドルフは一度も笑わなかった。
あの光。
あの音。
石が鳴く、あの低い震え。
数百年、誰も触れられなかった聖域の歪みが、一人の少女の掌の中でほどけていく。
魔力の運用なら、それなりに分かっている。
権力も、責任も、危険も、この年まで嫌というほど見てきた。
それでも今日の光景は、自分が初めて「魔力とは何か」を知った日のように感じた。
あの子は今、この石が何百年も強いられてきた無理を、一息に解いた。
しかも、静かな顔で。
まるで、少し難しい糸の結び目をほどいただけのように。
エリシアが手を離した。
「……成功した」
その声を聞いた瞬間、ランドルフはようやく動いた。
近づいて、彼女の手を取る。
冷たい。
ひどく冷たい。
この子は今、自分の体から何を持ち出したのか。どれだけ削ったのか。
聞いても、きっとまともな答えは返ってこない。
演算後は末梢に血が戻りにくいんです、とでも言うのだろう。
そういう娘だ。だから困る。だから、可愛い。
手を包んだまま、ランドルフは宰相の顔をひと目だけ見た。
ジークベルトは、もういつもの表情に戻っていた。穏やかな顔。何も揺れていない顔。
だが、戻る前の一秒があった。
ランドルフは、その一秒を見逃さなかった。
長い付き合いだ。あの男があの目をするときは、決まっている。
国のために必要なら、痛みの置き場所を決める目だ。
兵を送るとき。小さな町を切り捨てて、大きな橋を守るとき。
斥候の損耗を、許容範囲と判じるとき。
あの、冷えた目。
今、数えたな。
ランドルフは心の中でそう思った。
この子を、国の判断材料の中に入れた。
敵意ではない。憎悪でもない。
むしろ、ジークベルトはこの子を評価したのだろう。だからこそ怖い。
悪意なら、切ればいい。軽蔑なら、叩き潰せばいい。
だが国のための計算は、政治の男であるランドルフにも分かってしまう。
分かってしまうから、譲れない。エリシアの手は、まだ冷たかった。
ランドルフはその手を包んだまま、心の中だけで決めた。
次からは、ヴァレリウスを連れてくる。理由は言わない。ただ、連れてくる。
ヴァレリウスの隣にいるエリシアを、誰も「一人の犠牲」とは呼べない。
この子は、俺の息子の隣では、国の都合だけで名を変えられない。
それは息子の権利ではない。
この娘を数字へ戻させないための、いちばん強い楔だ。
エリシアの指が、一度、ポケットのあたりへ動いた。
菓子か。
ランドルフは少しだけ笑った。
今日これだけのことをやり遂げて、最初に思い出すのが甘いものか。
こういうときでも、この子は、この子だ。
「後で邸に寄れ」
エリシアが顔を上げる。
「甘いものを用意させる。蜜豆でも焼き菓子でも、好きなだけ食え」
「……ありがとうございます」
この子は今、自分が何を成し遂げたのか、おそらく理論どおりだったとしか思っていない。
それが、この子のすごいところで。
危ういところだ。
だから、俺が。
ランドルフはそう思って、続きは言葉にしなかった。




