誰も知らない代償
公邸の廊下を歩きながら、視界が白くなった。
応接室で石が灼けてから、奥歯を噛んで抑え込んでいた熱が、廊下の冷気に触れた瞬間、一気に噴き出した。
足が止まる。
扉枠に手をついた。
「……ヴァレリウス?」
エリシアの声がした。
近い。
「何でもないよ」
「顔色が」
「大丈夫だよ」
大丈夫ではない。
だが、ここで崩れるわけにはいかなかった。
動け。
内側にそう命じながら、扉枠から手を離した。視界がまだ白い。床の石材の継ぎ目が、焦点を結ばずに揺れている。
一歩でいい。
一歩踏み出せば、姿勢は戻せる。
そう思った瞬間、体が傾いた。
エリシアが一歩、踏み出してくる。
彼女の体が近くなった。
頬の温度が、左耳の近くに触れた。
熱が、彼女へ移る。
まずい。
直後に、彼女の指先が見える。
俺の左耳に向かっていた。
*
思考より先に、手が動いていた。
彼女の手首を掴んでいた。
「今は触れないでくれるかな」
声は静かだった。
そうなるよう、押さえ込んだ。
荒げてはいけない。
怯えさせてはいけない。
理由を、そのまま悟らせてもいけない。
エリシアの表情が、止まった。
間に合った。
彼女の指先と、左耳の石のあいだ。髪一筋ほどの隙しかなかった。
あそこに触れられていたら、過負荷で灼けた石は壊れていたかもしれない。彼女の状態を知るための、小さな窓が消える。
けれど、本当に怖かったのはそれだけではない。
今のエリシアなら、至近で見ただけで気づく。
この赤い石が、ただの宝石ではないことに。
俺が長いあいだ、彼女が倒れる前に気づくための、小さな保険として身につけてきたものだと。
知れば、彼女はその意味まで引き受けようとする。
俺が払った痛みや、隠してきた時間や、今この耳に残る熱まで、自分の問題として数えはじめる。
それだけは、今渡したくなかった。
彼女の手首を掴んだまま、ようやく自分の失態を知る。
彼女が俺へ手を伸ばす可能性を、考えから落としていた。
痛みを押し殺すことに気を取られて、一番大事な相手が差し出す手を、読むのが遅れた。
その遅れが、ひどく苦かった。
「……熱があります。ピアスが」
声は、静かだった。
彼女はただ、俺の状態を見ている。
そのまっすぐさが、胸を刺した。
「気にしなくていいよ」
「でも」
「心配するほどのことではないから、大丈夫」
彼女の手首を放す。
細かった。
温かかった。
その手を、俺は今、止めた。
身を起こして、歩き始める。廊下の灯りが揺れている。
まだ立てる。
まだ膝は折れていない。
それでいい。
*
馬車に乗り込んだ。
エリシアが向かいに座るのを確認してから、ようやく奥歯の力を抜いた。
左耳を指で押さえる。
熱い。
石が、まだ内側で疼いている。
さっき掴んだ彼女の手首の感触が、掌に残っていた。
あと半呼吸、遅れていたら。
何度も同じ場所へ思考が戻る。
触れられたいと願ったことなら、何度もある。
なのに今夜、触れられたら終わると思った。
自分でも、救いようがないと思う。
エリシアが何かを考えている顔をしていた。
今夜は少しだけ目が鋭い。ほんの少しだけ、俺のことを見ている。
答えに近づきかけているのかもしれない。
あるいは、ただ今日の論点を整理しているだけかもしれない。
分からない。
分からないままでいい。
今だけは、答えまで来ないでほしい。
馬車が動き始める。
俺は窓の外へ視線を向けた。
暗い街灯が、窓の向こうを流れた。
唇による情報転写が最適解——彼女自身の口から出た言葉が、まだ耳の奥に残っている。
正常な波長を、彼女の魔核へ写して、歪みを戻す。
そのために、深く届く接触が要る。
理論としては、分かる。
けれど、理論だけで扱えるものではない。
エリシアに触れるということは、彼女を治療の条件として扱うことではない。
彼女の自由も、同意も、驚きも、怖さも、その先に生まれる気持ちも、置き去りにしていいはずがない。
だから、まだ足りない。
手順が足りない。
理由が足りない。
彼女が自分を削らずに受け取れる形が、まだ足りない。
今日の結晶の感触が、指先に残っていた。
痛みの底で、俺の魔力は結晶になりかけた。あの一瞬、右手は確かに何かを見せた。
正常な状態では、おそらく届かない。
追い詰められ、灼かれ、壊れかけたところでようやく、俺の中の造光は形を持つ。
なら、覚えておく。
いつか、それが答えになるかもしれない。
馬車が揺れた。
向かいのエリシアは、まだ何かを考えている顔をしていた。
今日自分が語った理論と、それを引き出した宰相の意図を、たぶんまだ学術の棚に置こうとしている。
俺は窓の外を見たまま、低く呼んだ。
「エリシア」
彼女がこちらを見る。
「今夜は、何も考えずにゆっくり休んでほしい」
エリシアが少し止まった。
それから、「はい」とも「わかりました」とも言わずに、窓の外を見るのをやめた。膝の上で手を重ねて、目を閉じる。
言われた通りに、した。
その素直さまで、俺の胸を締めつける。
俺が先に答えを見つける。
君が、自分の身体を手段にする前に。
君が、大丈夫だと判断して差し出す前に。
君が自分を人間として数えられる形で、俺が答えにしてみせる。




