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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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誰も知らない代償

公邸の廊下を歩きながら、視界が白くなった。


応接室で石が灼けてから、奥歯を噛んで抑え込んでいた熱が、廊下の冷気に触れた瞬間、一気に噴き出した。


足が止まる。


扉枠に手をついた。


「……ヴァレリウス?」


エリシアの声がした。


近い。


「何でもないよ」


「顔色が」


「大丈夫だよ」


大丈夫ではない。


だが、ここで崩れるわけにはいかなかった。


動け。


内側にそう命じながら、扉枠から手を離した。視界がまだ白い。床の石材の継ぎ目が、焦点を結ばずに揺れている。


一歩でいい。


一歩踏み出せば、姿勢は戻せる。


そう思った瞬間、体が傾いた。


エリシアが一歩、踏み出してくる。


彼女の体が近くなった。


頬の温度が、左耳の近くに触れた。


熱が、彼女へ移る。


まずい。


直後に、彼女の指先が見える。


俺の左耳に向かっていた。


    *


思考より先に、手が動いていた。


彼女の手首を掴んでいた。


「今は触れないでくれるかな」


声は静かだった。


そうなるよう、押さえ込んだ。


荒げてはいけない。

怯えさせてはいけない。

理由を、そのまま悟らせてもいけない。


エリシアの表情が、止まった。


間に合った。


彼女の指先と、左耳の石のあいだ。髪一筋ほどの隙しかなかった。


あそこに触れられていたら、過負荷で灼けた石は壊れていたかもしれない。彼女の状態を知るための、小さな窓が消える。


けれど、本当に怖かったのはそれだけではない。


今のエリシアなら、至近で見ただけで気づく。


この赤い石が、ただの宝石ではないことに。


俺が長いあいだ、彼女が倒れる前に気づくための、小さな保険として身につけてきたものだと。


知れば、彼女はその意味まで引き受けようとする。


俺が払った痛みや、隠してきた時間や、今この耳に残る熱まで、自分の問題として数えはじめる。


それだけは、今渡したくなかった。


彼女の手首を掴んだまま、ようやく自分の失態を知る。


彼女が俺へ手を伸ばす可能性を、考えから落としていた。


痛みを押し殺すことに気を取られて、一番大事な相手が差し出す手を、読むのが遅れた。


その遅れが、ひどく苦かった。


「……熱があります。ピアスが」


声は、静かだった。


彼女はただ、俺の状態を見ている。


そのまっすぐさが、胸を刺した。


「気にしなくていいよ」


「でも」


「心配するほどのことではないから、大丈夫」


彼女の手首を放す。


細かった。

温かかった。


その手を、俺は今、止めた。


身を起こして、歩き始める。廊下の灯りが揺れている。


まだ立てる。


まだ膝は折れていない。


それでいい。


    *


馬車に乗り込んだ。


エリシアが向かいに座るのを確認してから、ようやく奥歯の力を抜いた。


左耳を指で押さえる。


熱い。


石が、まだ内側で疼いている。


さっき掴んだ彼女の手首の感触が、掌に残っていた。


あと半呼吸、遅れていたら。


何度も同じ場所へ思考が戻る。


触れられたいと願ったことなら、何度もある。


なのに今夜、触れられたら終わると思った。


自分でも、救いようがないと思う。


エリシアが何かを考えている顔をしていた。


今夜は少しだけ目が鋭い。ほんの少しだけ、俺のことを見ている。


答えに近づきかけているのかもしれない。


あるいは、ただ今日の論点を整理しているだけかもしれない。


分からない。


分からないままでいい。


今だけは、答えまで来ないでほしい。


馬車が動き始める。


俺は窓の外へ視線を向けた。


暗い街灯が、窓の向こうを流れた。


唇による情報転写が最適解——彼女自身の口から出た言葉が、まだ耳の奥に残っている。


正常な波長を、彼女の魔核へ写して、歪みを戻す。


そのために、深く届く接触が要る。


理論としては、分かる。


けれど、理論だけで扱えるものではない。


エリシアに触れるということは、彼女を治療の条件として扱うことではない。


彼女の自由も、同意も、驚きも、怖さも、その先に生まれる気持ちも、置き去りにしていいはずがない。


だから、まだ足りない。

手順が足りない。

理由が足りない。

彼女が自分を削らずに受け取れる形が、まだ足りない。


今日の結晶の感触が、指先に残っていた。


痛みの底で、俺の魔力は結晶になりかけた。あの一瞬、右手は確かに何かを見せた。


正常な状態では、おそらく届かない。


追い詰められ、灼かれ、壊れかけたところでようやく、俺の中の造光(ぞうこう)は形を持つ。


なら、覚えておく。


いつか、それが答えになるかもしれない。


馬車が揺れた。


向かいのエリシアは、まだ何かを考えている顔をしていた。


今日自分が語った理論と、それを引き出した宰相の意図を、たぶんまだ学術の棚に置こうとしている。


俺は窓の外を見たまま、低く呼んだ。


「エリシア」


彼女がこちらを見る。


「今夜は、何も考えずにゆっくり休んでほしい」


エリシアが少し止まった。


それから、「はい」とも「わかりました」とも言わずに、窓の外を見るのをやめた。膝の上で手を重ねて、目を閉じる。


言われた通りに、した。


その素直さまで、俺の胸を締めつける。


俺が先に答えを見つける。


君が、自分の身体を手段にする前に。


君が、大丈夫だと判断して差し出す前に。


君が自分を人間として数えられる形で、俺が答えにしてみせる。

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