彼女を測る男
宰相ジークベルト卿は、国全体を一枚の盤として眺める男だ。
それが俺の第一評価で、この十年、大きく外れたことはない。
冷静な笑顔と落ち着いた声。常に、最小の手数で最大の効果を取る目。
敵ではない。
味方でもない。
国の損得だけで盤を見る、中立の軍師だ。
「お越しいただきありがとうございます、エリシア伯爵令嬢」
応接室に入った瞬間、ジークベルトの目はエリシアだけを見た。
俺は最初から、添え物扱いだ。
構わない。
そう扱わせるために、公爵家嫡男の顔でここに来た。
国を一枚の盤で見るこの男が、一介の祈祷師補佐を、わざわざ自分の目で確かめようとしている。
理由は読めている。
少なくとも、今日この場で捌くべき手は見えていた。
宰相は掴んでいる。エリシアが、人並みではない魔核を抱えていること。それが安定したものでないこと。
病んだ核を抱えたまま神殿の務めに就き、国の祭礼の近くにいる。その危うさを確かめ、必要なら王宮の医師団につなげる。
その程度の面談だと、俺は踏んでいた。
その読みなら捌ける。
交渉で済む。礼儀で受け、理で返し、彼女に不要な負担を残さず帰ればいい。
そのくらいの余裕は、ある。
頭を下げる。
「本日はお時間をいただきありがとうございます、ジークベルト卿」
穏やかに言って、笑む。
これが俺の顔だ。こういう場所では。
隣のエリシアは、入室してすぐ室内の調度品を眺め始めていた。
頼む。
今日だけでいい。
普通にしていてくれ。
願いは、たぶん無駄だ。
*
菓子が出た。
砂糖漬けの果実、白い寒天。そして、琥珀色の塩蜜豆に似た菓子。
俺は宰相の目を見た。
彼は微笑んでいる。
偶然と言うには、少し整いすぎていた。
エリシアはためらいなくその菓子を口に入れた。
一瞬だけ、眉が動く。
ほんの微かな変化だ。
左耳の石が、低く熱を帯びた。
石が知らせるのは、体温の揺れと、魔核の浅い乱れだけだ。味がどう歪んだのか、彼女が何を考えたのかまでは分からない。
それでも、菓子を口にした直後の小さな反応と重なれば、見当はつく。
また、あの苦味だ。
宰相は微笑んでいた。
確認した、という顔で。
茶も出された。俺は、口をつけない。
この部屋で寛ぐわけにはいかない。
彼女を測る男を、こちらも測り返す。
それだけが、今ここで俺に許された手だった。
エリシアの視線が、一度だけこちらへ流れた。冷めるのに、とでも言いたげに。
気づかなくていい。
まだ、ここは俺が受ける。
*
「令嬢は魔核演算の研究をされていると伺っています」
雑談のような声で、宰相が話を始めた。
来る。
エリシアはすぐに目を輝かせて答え始めた。
それが一番、苦しかった。
彼女は問いの重さに気づかない。気づかないまま、自分の身体に近い話を、正確に、流暢に、学術の棚から取り出していく。
「最近、始祖期の論文を読み返しておりましてね。“魔核の異常状態”で稼働を継続した術者についての記録が、断片的に残っていた。非常に興味深い」
宰相は急かさない。
遮らない。
ただ、続きを待つ。
うまい聞き方だ。
彼女が一番、抗いにくい聞き方でもある。
「魔核肥大症ですね」
エリシアが即座に答える。
俺は微笑んだままでいた。
表情を変えるわけにはいかない。
ジークベルト卿。
あなたは、ある程度まで知っている。地下聖堂で彼女が何をしたか。俺たちの生活を変えた夜に、何が起きたか。
ただし、どこまで知っているのかは分からない。
だから、まだ手札は見せない。
エリシアは気づかずに答えている。彼女が他人事のように語っている病が、もう自分の舌の上から始まっているとは思っていない。
「では、そのような魔核を——外部から安定化する方法については?」
宰相が話を誘導していく。
その一手前から、終着点が見えはじめていた。
「理論上は、情報転写が最適です」
エリシアは即答した。
「異常を来した魔核の波長情報を、外部魔核情報で補助する必要があります。ですが、生光領域の情報は距離減衰が大きいので——近接接触が要る」
「近接、ですか」
「はい」
彼女の指先が、カップを回す。
「生光領域の情報は距離減衰が大きいので、最も効率が良いのは接触です」
一拍、置いた。
「特に粘膜接触」
呼吸が、胸の内側で止まりかけた。
「呼気の距離でも可能ですが、古代術式では唇による情報転写が最適解として記録されています。接触面積と情報密度の関係から見ても、合理的です」
「なるほど」
宰相が、ゆっくりと頷いた。
「とても興味深い理論だ」
言い終えたとき、彼の視線が一度だけ、俺を向いた。
ほんの一瞬。
置いたな。
牽制でも、挑発でもない。
この男はただ、引き出した情報を淡々と並べただけだ。
病んだ核を抱えた娘を、国がどう測り、どう扱うか。その手がかりの一つが、たった今、彼女自身の口から零れた。
宰相はそれを、顔色ひとつ変えずに置いた。
それだけのことだった。
だが、その「それだけ」が、俺の中では別の形を取りはじめていた。
唇、という言葉だけが、妙に生々しく残る。
治療の条件だ。
そう切り分ければいい。
けれど、エリシアが口にすると、ただの条件では済まない。
彼女は自分を救うための鍵を、自分の口で、他人の前に差し出した。
本人だけが、その意味を知らない。
あまりにも、彼女らしかった。
彼女はまだ学術的な回答を続けようとしていた。
俺は名前だけを呼ぶ。
「エリシア」
彼女が口を閉じた。
*
「エリシア令嬢の魔核について——王宮医師団による、正式な記録が必要かと存じます。伯爵家として、ご対応いただけますか」
礼儀正しく、完璧に政治的な一手だった。
拒めば、後ろめたいことがあると見られる。受ければ、エリシアの状態が公式に記録され、俺たちの手を離れた言葉で扱われる。
医師の記録は、治療のために必要になることがある。
それは分かっている。
だが今、この場で作られる記録は、彼女のためだけには使われない。
危うい魔核を抱えた令嬢。
祭礼に関わる不安要素。
国が把握すべき特異例。
そういう名前を与えられた瞬間、エリシアはまた少し、人間としての輪郭から遠ざけられる。
それだけは、受け入れられなかった。
「少々、お待ちを」
俺は遮った。
声の温度は変えない。ただ、魔力の圧を室内へ薄く広げる。
宰相がそれに応じた。
感度がいい。
見えない重さが二つ、互いを押し合い始める。
そのとき、ジークベルトの魔力が細い針のようにエリシアへ向いた。
測定だ。
彼女の現在の魔核状態を、直接確かめようとしている。
左耳の石が、灼けた。
宰相の魔力がエリシアの魔核へ触れようとした瞬間、石へ流れ込む揺れが一気に膨れ上がった。
石が知らせるのは、彼女の状態の揺らぎだけだ。
だが今は、その揺らぎが多すぎた。長く凪いでいた赤い石の内側で、歪みの輪郭だけが一斉に燃えた。
左耳から頭蓋の内側へ、焼けた鉄を押し込まれたような熱が走る。
表情は変えなかった。
息を、一度だけ止めた。
右手の指先に、何かが走る。
感覚ではない。
見えた。
人差し指の爪の縁に、薄く透明な結晶の欠片が一瞬だけ生じて、消えた。
制御できなかった。
こんなことは初めてだった。
宰相の目が、かすかに細くなる。
「……珍しい反応ですね」
俺は答えなかった。
魔力を引いた。宰相も引く。
「本日はここまでにしましょう」
彼は穏やかに微笑んだ。




