短い凪
就任して、ふた月。
春は、初夏のほうへ傾きはじめていた。
神殿西棟の執務室。午前の光が、高い窓から斜めに落ちる。午後には宰相の公邸へ行かなければならない。
その前の、短い凪だった。
机には写本が三冊。エリシアは開いた頁の余白を、自分の文字で埋めていく。
刻の栞の話だ。
先日、アウロラへ連れて行った、あの転移の門。あれ以来、彼女の思考はあの術式の折り目に引っかかったままらしい。
「——刻の栞って、距離を消しているわけじゃないんです」
机に身を乗り出して、エリシアが言う。
指先が、図の上で見えない紙でも畳むように動いた。
「時の記憶を、こう、折り重ねて……出発点と到着点を、同じ一枚に畳んでいる。だから一瞬で。でも、それだと折り目のところで、位相が——」
言葉が止まらない。
俺は頷く。
「うん」
「それで?」
「うん」
相槌は、たぶん一拍遅い。
図を追っていないわけではない。彼女が指す折り目の項も、位相のずれも、説明を聞けば十分に分かる。
ただ、図と同じくらい、彼女の顔を見ていた。
考えがほどけていくとき、エリシアの表情は少しだけ幼くなる。眉の力が抜け、瞳の奥に光が走る。唇は、追いつかない思考をそれでも懸命に言葉にしようとする。
世界のほとんどが見過ごす折り目の位相が、彼女の中では灯りをともしている。
その光を見ていると、時間が惜しいほど早く過ぎた。
「ここです、この折り目の項——」
エリシアが顔を上げた。
目が合う。
しまった、と思うより先に、口元が緩んでいた。
「続けて」
エリシアが、ほんの一瞬だけ首をかしげる。
図ではなく自分の顔を見ていたことを、不思議がっているのだろう。けれど、答えは出ないまま、また術式へ戻っていく。
あとで考えよう、という顔だ。
それでいい。
理由は、今ここで出さなくていい。
しばらく聞いていた。
彼女の声を、彼女の思考の速さを、紙の上に走る指先を。
頃合いを見て、口を挟む。
「エリシア」
「はい」
「昼食はもう取った?」
「取りました」
「何を?」
エリシアの口が、開いたまま止まる。
食べていない。
たぶん本人も、今それに気づいた。
「忘れていたね」
そうなると思っていた。
だから机の端には、もう包みを置いてある。彼女が刻の栞を語りはじめた頃に、書類の邪魔にならず、手を伸ばせば届く場所へ寄せておいた。
集中を折りたいわけではない。
ただ、身体だけは置き去りにしてほしくない。
「先に半分でも食べて。午後に宰相のところへ行くから」
エリシアが包みを見た。
それから、俺を見る。
「……ありがとうございます」
ひとくち齧って、美味しい、という顔をする。それから黙って食べはじめる。
俺は椅子に座りなおした。
彼女が考えたいものを、安心して考えられるようにする。
食事も、書類も、時間も、扉の外で待つ面倒も。彼女の思考が気持ちよく走るための道を整えることが、いつのまにか俺の日常になっていた。
彼女が半分まで食べた頃、俺は口を開いた。
「それで。折り目の項の話だったかな」
エリシアが瞬きをした。
「聞いていたんですか」
「聞いていたよ」
「途中から、昼食の話でした」
「その前までは」
本当に聞いていた。
彼女の声なら、術式の話だろうと拾える。ただ、拾いながら、顔も見ていただけだ。
その二つは、俺の中では矛盾しない。
エリシアは少し考えて、それから納得したらしい。本当に聞いていたらしい、という顔で、また写本へ目を落とす。
午前の光が、彼女の髪に触れている。
この穏やかな時間を、できるだけ崩したくなかった。
けれど午後は来る。
宰相ジークベルト卿の公邸へ行く時間が。




