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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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短い凪

就任して、ふた月。


春は、初夏のほうへ傾きはじめていた。


神殿西棟の執務室。午前の光が、高い窓から斜めに落ちる。午後には宰相の公邸へ行かなければならない。


その前の、短い凪だった。


机には写本が三冊。エリシアは開いた頁の余白を、自分の文字で埋めていく。


刻の栞(ときのしおり)の話だ。


先日、アウロラへ連れて行った、あの転移の門。あれ以来、彼女の思考はあの術式の折り目に引っかかったままらしい。


「——刻の栞って、距離を消しているわけじゃないんです」


机に身を乗り出して、エリシアが言う。


指先が、図の上で見えない紙でも畳むように動いた。


「時の記憶を、こう、折り重ねて……出発点と到着点を、同じ一枚に畳んでいる。だから一瞬で。でも、それだと折り目のところで、位相が——」


言葉が止まらない。


俺は頷く。


「うん」


「それで?」


「うん」


相槌は、たぶん一拍遅い。


図を追っていないわけではない。彼女が指す折り目の項も、位相のずれも、説明を聞けば十分に分かる。


ただ、図と同じくらい、彼女の顔を見ていた。


考えがほどけていくとき、エリシアの表情は少しだけ幼くなる。眉の力が抜け、瞳の奥に光が走る。唇は、追いつかない思考をそれでも懸命に言葉にしようとする。


世界のほとんどが見過ごす折り目の位相が、彼女の中では灯りをともしている。


その光を見ていると、時間が惜しいほど早く過ぎた。


「ここです、この折り目の項——」


エリシアが顔を上げた。


目が合う。


しまった、と思うより先に、口元が緩んでいた。


「続けて」


エリシアが、ほんの一瞬だけ首をかしげる。


図ではなく自分の顔を見ていたことを、不思議がっているのだろう。けれど、答えは出ないまま、また術式へ戻っていく。


あとで考えよう、という顔だ。


それでいい。


理由は、今ここで出さなくていい。


しばらく聞いていた。


彼女の声を、彼女の思考の速さを、紙の上に走る指先を。


頃合いを見て、口を挟む。


「エリシア」


「はい」


「昼食はもう取った?」


「取りました」


「何を?」


エリシアの口が、開いたまま止まる。


食べていない。


たぶん本人も、今それに気づいた。


「忘れていたね」


そうなると思っていた。


だから机の端には、もう包みを置いてある。彼女が刻の栞を語りはじめた頃に、書類の邪魔にならず、手を伸ばせば届く場所へ寄せておいた。


集中を折りたいわけではない。


ただ、身体だけは置き去りにしてほしくない。


「先に半分でも食べて。午後に宰相のところへ行くから」


エリシアが包みを見た。


それから、俺を見る。


「……ありがとうございます」


ひとくち齧って、美味しい、という顔をする。それから黙って食べはじめる。


俺は椅子に座りなおした。


彼女が考えたいものを、安心して考えられるようにする。


食事も、書類も、時間も、扉の外で待つ面倒も。彼女の思考が気持ちよく走るための道を整えることが、いつのまにか俺の日常になっていた。


彼女が半分まで食べた頃、俺は口を開いた。


「それで。折り目の項の話だったかな」


エリシアが瞬きをした。


「聞いていたんですか」


「聞いていたよ」


「途中から、昼食の話でした」


「その前までは」


本当に聞いていた。


彼女の声なら、術式の話だろうと拾える。ただ、拾いながら、顔も見ていただけだ。


その二つは、俺の中では矛盾しない。


エリシアは少し考えて、それから納得したらしい。本当に聞いていたらしい、という顔で、また写本へ目を落とす。


午前の光が、彼女の髪に触れている。


この穏やかな時間を、できるだけ崩したくなかった。


けれど午後は来る。


宰相ジークベルト卿の公邸へ行く時間が。

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