創生の残光
俺は坩堝を指先でゆっくり回した。
「聖域のいちばん奥だよ」
声を少し落とした。
「始祖が、最後の結び目を繋ぎ留めた一点。世界の底に荒ぶる魔力を組み替えて、この国を人の住める比率に整えた。だが、その最後の一点だけは、完全には封じ込めきれなかった」
「綻びですか」
「そう。そこから、世界が創られたときのまま、まだ何の形も与えられていない魔力が滲み続けている」
テオドールが黙る。
「歴代の調律師が受け取ってきた痛みの正体だよ。誰も、それが何なのかは知らない。ただ痛い、とだけ言って受け取ってきた」
「義兄様も」
「俺も、その一人になった」
少し笑う。
「祈祷師代理として、聖域の務めの調律で滲みを受ける。この身に通して、帳消しにする。代々の調律師がそうしてきたのと同じだ」
「では、その務めで採れるのでは」
「採れない」
坩堝を回す指を止める。
「表面に滲んだ分を受けて、その場で術式へ流すだけだ。俺の身を通り抜けて、後に残るのは痛みだけ。掌には何も残らない」
「では、今この瞬間に手に入れる方法は」
「ほとんどない」
少し間を置いた。
「確実に取れるとしたら、ヴォイドだ」
テオドールの声が、低くなる。
「ヴォイド」
「あそこだけは、何にも変換されないまま、剥き出しの魔力が滲み続けている。誰も処理しない。誰も帳消しにできない。本物の、創生の残光だ」
「危険すぎます」
「だから今は、近づく正当な理由もない」
「理由があれば、行くんですね」
「正当な手順が整えばね」
答えると、テオドールは坩堝の底へ視線を落とした。
「姉様のためですか」
「そうだよ」
隠す理由はなかった。
この子にだけは、最初から通じている。
*
「採れたとして」
テオドールが、また静かな声を出した。
「その素の魔力を物質に変えるのは、別の難しさがありますか」
「ある」
俺は計算板を指先で叩いた。
「変換の演算負荷が桁違いになる。安定した魔力を使うより、荒いものを扱う方が制御は難しい。脳と魔核が追いつかなければ、術者の側が焼き切れる」
「義兄様が焼き切れますか」
「試したことがないから分からないよ」
「……嘘ですね」
一瞬、止まった。
テオドールは、静かにこちらを見ている。
「義兄様は、試した上で言っています」
「聡いね」
「義兄様が教えてくれたんです」
そう返されて、少しだけ笑った。
*
魔力灯の光が、ふと翳った。石の余力が尽きかけているのかもしれない。
テオドールが棚から替えの石を取り出し、静かに台座へ据えた。光が、またゆっくりと満ちる。
「義兄様」
「うん」
「何を作るか、もう決めていますか」
俺は計算板へ視線を落とした。
走り書きの数式が並んでいる。まだ完成していない。あとどのくらいの月日がかかるかは分からない。だが、必要なものが何かは、今夜はっきりした。
素の魔力。
正当な機会を、必ず探す。
「エリシアの味覚を戻すための手がかりだ」
そう言うと、テオドールは瞬きをしなかった。
「蜜豆ですか」
「それだけじゃない。茶も、菓子も、たぶん香りも少しずつ濁っている。彼女はまだ、品質の差として処理しているように見える」
昼のアウロラを思い出す。
苺の焼き菓子を口にした時、エリシアは一瞬だけ眉を寄せた。花の色や用水路の効率へすぐ意識を戻したから、本人はもう忘れているかもしれない。
けれど俺は、忘れられなかった。
「正常の形を写し、歪んだ分はこちらへ引き取る。今作ろうとしているのは、そのための計測と受け皿の核だ」
「姉様には」
「まだ言わない」
テオドールは何も言わず、理由を待っていた。
「治す道筋もないまま不調だけを告げれば、エリシアはきっと安心できない。作業を止めるか、あるいは自分の身体を使って、どこまで保つか確かめ始める。俺は、そこへ追い込みたくない」
「姉様なら、やりますね」
「たぶんね」
小さく息を吐いた。
「本当は、何も隠さずに済めばいい」
その言葉だけは、正直だった。
「でも、今はまだ準備が足りない。彼女に渡すなら、不安ではなく道筋にしたい。治せると言える形で、手を差し出したい」
テオドールはしばらく黙っていた。
やがて、静かに頷く。
「手伝います」
それだけだった。
短い返事に、余計な覚悟の色はない。ただもう次の手順を考え始めている横顔が、少しだけ姉に似ていた。
俺は坩堝を見た。
また、空だった。
けれど今夜の空は、ただの失敗ではない。
次に必要なものを、はっきり教えている。




