等価の理
春の宵だった。
その日の昼、エリシアをアウロラへ連れて行った。
刻の栞をくぐり、花の散る街路を歩き、苺の焼き菓子をひとつ食べた。彼女は花弁の発色を確かめ、用水路の術式を語り、焼き菓子の最初の一口目をどこにするか真剣に悩んでいた。
楽しそうだった。
たぶん、本人に聞けば「興味深かったです」と答えるのだろう。それでも俺には、十分だった。
彼女の世界に、苦味だけを増やしたくない。
今日みたいな小さな寄り道や、花の色や、温かい菓子の記憶も残っていてほしい。症状を告げる日が来るとしても、その前に、彼女がただ見上げられる空を少しでも増やしておきたかった。
公爵邸に戻ってから、夜を待った。
昼に渡したのは、彼女の中に長く残ってほしい優しい記憶だ。
夜に扱うのは、まだ俺の側で整えるべき問題だった。
*
公爵邸の地下には、もう一つの部屋がある。
石積みの壁を一枚押すと現れる、書斎として使うには手狭で、物置と呼ぶには整いすぎた空間だ。棚には羊皮紙の束。机には使い込まれた計算板と、黒い石製の小さな坩堝。魔力灯の光は弱く、天井まで届かない。
俺がこの部屋に初めて来たのは、五年前だった。
机の上に、古い文書を広げてある。
建国期の術式記録。出所も定かでない古い写本の、そのまた写しだ。「ファブリカの極致について」という項がある。三ページしかない。そのほとんどが、「現在失われた」「再現不可能とされる」という記述で埋まっている。
魔力の三原色——生命を動かす生光(アニマ)、時と空間を操る刻光(クロノス)、物質を形成する造光(ファブリカ)。
そして、絶対の法則が一つある。
魔法とは、無から有を生み出す行為ではない。
すでにあるエネルギーの形を、演算によって変換する行為だ。水が蒸気になっても、蒸気が氷になっても、その量は変わらない。何かを作るとき、等量の何かが別の形へ移る。
それが、世界の理だ。
ならば。
結晶を作るには、結晶になるだけの魔力が要る。
*
扉が開いた。
「義兄様」
テオドールが入ってきた。
魔力灯の下で、机の上の坩堝を一瞥する。中は空だ。また失敗したことは、それだけで分かっただろう。
「何回目ですか、今日は」
「五回」
「また空ですね」
「難しいんだよ」
テオドールが椅子を引いて座った。計算板を覗き込み、数式の走り書きを読む。この子は、俺が書いたものをたいてい読める。読めない部分は「ここは何ですか」と聞く。答えると、次からは読める。
「素材の問題だと書いてありますね」
「そうだよ」
俺は坩堝を見た。
「大気中の魔力で足りると思っていた。だが、できたものは石にならない。格子が粗い。密度が足りない。光を通すと内側が濁る」
「なぜですか」
「この国の魔力は、ほとんどが一度体系を通っているからだ」
テオドールが、続きを待つ顔をした。
「王都も聖域も、始祖の調律体系の中にある。大地に滞留していた魔力を、人が生きられる比率へ組み替え、余剰を別のエネルギーへ変え続けている。刻の栞も、その余剰で動いている」
「つまり、今この部屋にある魔力は」
「変換後のものだ。安定していて扱いやすい。だが、結晶の核にするには薄い」
「溶かす前の原石が要る」
「そう」
俺は頷いた。
「まだ何にも変換されていない、素の魔力が要る」
テオドールが、少しだけ目を伏せた。
「それは、どこにありますか」
*
魔核の正体は、正式には解明されていない。
だが有力な説はある。魔核とは、高濃度の素の魔力を器官として包み込んだものだ、というものだ。親から遺伝し、この国の体系が浄化した食物や水で育つ中で、少しずつ形成される。
人が死ぬと、一定期間後に魔核が崩壊する。
包まれていた素の魔力が、大気へ溢れ出す。
だから葬儀が要る。
死者の魔核が崩壊する前に、遺体を神殿や施設に運ぶ。神官が術式を組み、死者の魔力を始原の調律体系へ接続する。体系が、溢れ出す素の魔力を吸収し、無害なエネルギーへ変換する。
個人で埋葬したり、放置したりすることは、この国では重罪だ。
信仰の問題だけではない。
処理を誤れば、街が死地へ戻る。
「それが、神殿が六百年止まらない理由でもある」
俺が言うと、テオドールは自分の胸元へ手を当てた。
無意識の仕草だった。
「では、聖域には長い年月の積み重ねがあるんですか」
「ない」
テオドールが顔を上げる。
「葬儀で系に入った魔力は、その都度払い切られる。聖域も同じだ。毎年の儀式で、一年分の歪みを帳消しにする。残せば危険だからね」
「どこにも溜まらない」
「そう。素のままでは、どこにも残らない」
テオドールの指が、胸元から離れた。
「では、素の魔力は」
「滲み出している場所ならある」




