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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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等価の理

春の宵だった。


その日の昼、エリシアをアウロラへ連れて行った。


刻の栞(ときのしおり)をくぐり、花の散る街路を歩き、苺の焼き菓子をひとつ食べた。彼女は花弁の発色を確かめ、用水路の術式を語り、焼き菓子の最初の一口目をどこにするか真剣に悩んでいた。


楽しそうだった。


たぶん、本人に聞けば「興味深かったです」と答えるのだろう。それでも俺には、十分だった。


彼女の世界に、苦味だけを増やしたくない。


今日みたいな小さな寄り道や、花の色や、温かい菓子の記憶も残っていてほしい。症状を告げる日が来るとしても、その前に、彼女がただ見上げられる空を少しでも増やしておきたかった。


公爵邸に戻ってから、夜を待った。


昼に渡したのは、彼女の中に長く残ってほしい優しい記憶だ。

夜に扱うのは、まだ俺の側で整えるべき問題だった。


    *


公爵邸の地下には、もう一つの部屋がある。


石積みの壁を一枚押すと現れる、書斎として使うには手狭で、物置と呼ぶには整いすぎた空間だ。棚には羊皮紙(ようひし)の束。机には使い込まれた計算板と、黒い石製の小さな坩堝(るつぼ)。魔力灯の光は弱く、天井まで届かない。


俺がこの部屋に初めて来たのは、五年前だった。


机の上に、古い文書を広げてある。


建国期の術式記録。出所も定かでない古い写本の、そのまた写しだ。「ファブリカの極致について」という項がある。三ページしかない。そのほとんどが、「現在失われた」「再現不可能とされる」という記述で埋まっている。


魔力の三原色——生命を動かす生光(せいこう)(アニマ)、時と空間を操る刻光(こくこう)(クロノス)、物質を形成する造光(ぞうこう)(ファブリカ)。


そして、絶対の法則が一つある。


魔法とは、無から有を生み出す行為ではない。


すでにあるエネルギーの形を、演算によって変換する行為だ。水が蒸気になっても、蒸気が氷になっても、その量は変わらない。何かを作るとき、等量の何かが別の形へ移る。


それが、世界の理(ことわり)だ。


ならば。


結晶を作るには、結晶になるだけの魔力が要る。


    *


扉が開いた。


「義兄様」


テオドールが入ってきた。


魔力灯の下で、机の上の坩堝を一瞥する。中は空だ。また失敗したことは、それだけで分かっただろう。


「何回目ですか、今日は」


「五回」


「また空ですね」


「難しいんだよ」


テオドールが椅子を引いて座った。計算板を覗き込み、数式の走り書きを読む。この子は、俺が書いたものをたいてい読める。読めない部分は「ここは何ですか」と聞く。答えると、次からは読める。


「素材の問題だと書いてありますね」


「そうだよ」


俺は坩堝を見た。


「大気中の魔力で足りると思っていた。だが、できたものは石にならない。格子が粗い。密度が足りない。光を通すと内側が濁る」


「なぜですか」


「この国の魔力は、ほとんどが一度体系を通っているからだ」


テオドールが、続きを待つ顔をした。


「王都も聖域も、始祖の調律体系の中にある。大地に滞留していた魔力を、人が生きられる比率へ組み替え、余剰を別のエネルギーへ変え続けている。刻の栞も、その余剰で動いている」


「つまり、今この部屋にある魔力は」


「変換後のものだ。安定していて扱いやすい。だが、結晶の核にするには薄い」


「溶かす前の原石が要る」


「そう」


俺は頷いた。


「まだ何にも変換されていない、素の魔力が要る」


テオドールが、少しだけ目を伏せた。


「それは、どこにありますか」


    *


魔核の正体は、正式には解明されていない。


だが有力な説はある。魔核とは、高濃度の素の魔力を器官として包み込んだものだ、というものだ。親から遺伝し、この国の体系が浄化した食物や水で育つ中で、少しずつ形成される。


人が死ぬと、一定期間後に魔核が崩壊する。

包まれていた素の魔力が、大気へ溢れ出す。

だから葬儀が要る。


死者の魔核が崩壊する前に、遺体を神殿や施設に運ぶ。神官が術式を組み、死者の魔力を始原の調律体系へ接続する。体系が、溢れ出す素の魔力を吸収し、無害なエネルギーへ変換する。


個人で埋葬したり、放置したりすることは、この国では重罪だ。


信仰の問題だけではない。

処理を誤れば、街が死地へ戻る。


「それが、神殿が六百年止まらない理由でもある」


俺が言うと、テオドールは自分の胸元へ手を当てた。


無意識の仕草だった。


「では、聖域には長い年月の積み重ねがあるんですか」


「ない」


テオドールが顔を上げる。


「葬儀で系(けい)に入った魔力は、その都度払い切られる。聖域も同じだ。毎年の儀式で、一年分の歪みを帳消しにする。残せば危険だからね」


「どこにも溜まらない」


「そう。素のままでは、どこにも残らない」


テオドールの指が、胸元から離れた。


「では、素の魔力は」


「滲み出している場所ならある」

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