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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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頬に残る熱

一人目。


エリシアの方へ、角度をつけて近づく青年がいた。噴水に見入る彼女の隙を測っているように見える。


婚約者がいると知っていても、話しかけるだけなら非礼ではない。俺も、その作法までは止めない。


ただ、彼女が今、会話の入口に立っていないようには見える。演算が小鳥に向いている。そこへ名乗りや賛辞を差し込まれれば、彼女はたぶん、律儀に応答しようとする。


そういう負荷は、今夜は要らない。


俺はタルコット男爵へ視線を向けた。向こうが自然に会話を継ぐ。人の流れが一つ増え、青年の経路がやわらかく変わる。


誰も妨害などしていない。

ただ、会場の流れが少しだけ整った。


二人目は、グラスを持っていた。


考えるより先に、水差しから注いだグラスをエリシアへ渡す。


彼女は受け取り、「ありがとうございます」と飲んだ。俺の渡すものを、彼女は一度も疑わない。その無造作な信頼が、少しくすぐったい。


それで済んだ。二人目は、置き場のないグラスを持ったまま、静かに別の輪へ移った。


誰の手が注いだか分からない杯を、彼女に持たせる気はない。


これは独占ではなく、警戒だ。少なくとも、そう言える範囲に収めた。


三人目は、正面に立った。


これは、避けるより受ける方が早い。


俺は微笑んだ。穏やかで、完璧な笑みで。


「スタールフ伯爵のご子息でしたね。少し、よろしいですか」


三分で足りた。


話したのは、家同士の古い縁と、近頃の投資話と、彼の父君がたいそう気にしている鉱山権の噂についてだ。脅してはいない。声も荒げていない。ただ、彼が今ここでアルスタ伯爵令嬢へ軽率に近づくことが、どれほど割に合わないかを、礼儀正しく思い出してもらっただけだ。


彼の顔色が変わったのは、俺のせいではない。


たぶん。


    *


エリシアが、また噴水を見ていた。


眉が、わずかに寄っている。「計算が合わない」という顔に見える。


今夜、男との接点が少なすぎることに気づいたのかもしれない。自分が何かをしてしまっただろうか、と考えているのかもしれない。


——どちらも、俺に都合のいい読みも混じった、ただの推測だ。


ただ、もしそうなら悪いことをした。ほんの少しだけ、そう思う。


けれど、今夜の彼女に不要な接触を増やすことが正解だったとも思えない。


このあたりが、俺の限界だ。


守りたい。邪魔はしたくない。けれど、邪魔をしない守りだけで足りるとは、いつも言い切れない。


夜会が終わるまでの二時間、俺は一定の距離を保ち続けた。


彼女の視線が、何度かこちらへ戻ったように見えた。


意図してではないだろう。人混みでも白金の髪は見つけやすい。本人に聞けば、たぶんそう答える。


それでも、その視線が来るたび、腹の底が少し落ち着いた。


もし今夜、彼女が俺の不在を少しでも気にしてくれていたのなら。


そう考えてしまう程度には、俺は浮かれていた。


    *


馬車に乗った。


向かいに、エリシアがちょこんと座っている。夜会のあいだ保ち続けた距離が、膝の触れそうな近さまで一息に縮まった。閉じた箱の中に、彼女の体温が伝わってくる。低い。よく演算した夜は、指先まで冷える。


「少しいいですか」


エリシアが巾着を取り出した。蜜豆だ。


一粒、口に入れる。


彼女の眉が、ほんの少し寄った。


今朝、茶を含んだ彼女も、一瞬だけカップの中へ目を落としていた。味を探し直す目だ。本人も気づいていないほどの、ほんの一拍の空白。


ここ数日の揺らぎと突き合わせれば、答えはほぼ出ている。


感覚器へ、濁りが届き始めている。


苦味は、その初期症状かもしれない。


彼女はまだ「豆の品質」だと思っている。訂正しなかった。


今は、まだその時ではない。


今ここで不調だけを告げても、彼女は安心しない。きっと自分の作業を止める。あるいは、テオドールの魔核整理を優先するために、どこまでなら動けるかを自分の身体で測り始める。


まず治す道筋を作る。


その上で、必要なことだけを、彼女が受け取れる形で伝える。


俺はそう決めていた。


「エリシア?」


眉がひそんだから、呼んだ。それだけだ。


「いいえ、何でもありません。このお店の豆、少し品質が変わったかもしれないと思っただけです」


違う、と言いかけて、止める。


彼女が、また豆を口に入れる。また、眉をひそめた。


その顔を見るのは、好きではない。


早く、なんとかしよう。


焦りではなく、段取りとしてそう思う。


そう思える程度には、俺は自分のやり方を信じている。


    *


窓の外を見た。


エリシアの視線が、俺へ戻る。


指先が、俺の頬に触れた。


思考が、一拍、止まる。


「……熱があります。基準値を超えていると思います」


平静な声だ。彼女にとっては、医師が脈を取るのと同じ。確認行動。それだけのこと。


それだけのことだと、分かっている。


分かっているのに、彼女の指先が頬にある、ただそれだけで、頭の中が白くなる。


あの頃は、俺の手の方が彼女の熱を探していた。

今は、彼女が俺の熱に気づいている。


それだけで、息が詰まるほど救われた気がしてしまう。


「……少し、疲れただけだよ」


やっと出た声は、自分でも分かるほど低かった。


嘘ではない。少し疲れている。それだけではない、というだけだ。


エリシアはその低さを「問題ない、の省略形」と取って、手を引いた。また蜜豆を口に入れる。苦そうに、眉を寄せて。


彼女の指が離れた頬が、まだ熱を持っている。左耳の熱か、それとも触れられたせいか。


どちらでもいい。


窓の外を見た。夜の街道が流れていく。


エリシアは、この沈黙を普通の沈黙だと思っている。


それでいい。


今夜の俺には、それで十分だった。

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