頬に残る熱
一人目。
エリシアの方へ、角度をつけて近づく青年がいた。噴水に見入る彼女の隙を測っているように見える。
婚約者がいると知っていても、話しかけるだけなら非礼ではない。俺も、その作法までは止めない。
ただ、彼女が今、会話の入口に立っていないようには見える。演算が小鳥に向いている。そこへ名乗りや賛辞を差し込まれれば、彼女はたぶん、律儀に応答しようとする。
そういう負荷は、今夜は要らない。
俺はタルコット男爵へ視線を向けた。向こうが自然に会話を継ぐ。人の流れが一つ増え、青年の経路がやわらかく変わる。
誰も妨害などしていない。
ただ、会場の流れが少しだけ整った。
二人目は、グラスを持っていた。
考えるより先に、水差しから注いだグラスをエリシアへ渡す。
彼女は受け取り、「ありがとうございます」と飲んだ。俺の渡すものを、彼女は一度も疑わない。その無造作な信頼が、少しくすぐったい。
それで済んだ。二人目は、置き場のないグラスを持ったまま、静かに別の輪へ移った。
誰の手が注いだか分からない杯を、彼女に持たせる気はない。
これは独占ではなく、警戒だ。少なくとも、そう言える範囲に収めた。
三人目は、正面に立った。
これは、避けるより受ける方が早い。
俺は微笑んだ。穏やかで、完璧な笑みで。
「スタールフ伯爵のご子息でしたね。少し、よろしいですか」
三分で足りた。
話したのは、家同士の古い縁と、近頃の投資話と、彼の父君がたいそう気にしている鉱山権の噂についてだ。脅してはいない。声も荒げていない。ただ、彼が今ここでアルスタ伯爵令嬢へ軽率に近づくことが、どれほど割に合わないかを、礼儀正しく思い出してもらっただけだ。
彼の顔色が変わったのは、俺のせいではない。
たぶん。
*
エリシアが、また噴水を見ていた。
眉が、わずかに寄っている。「計算が合わない」という顔に見える。
今夜、男との接点が少なすぎることに気づいたのかもしれない。自分が何かをしてしまっただろうか、と考えているのかもしれない。
——どちらも、俺に都合のいい読みも混じった、ただの推測だ。
ただ、もしそうなら悪いことをした。ほんの少しだけ、そう思う。
けれど、今夜の彼女に不要な接触を増やすことが正解だったとも思えない。
このあたりが、俺の限界だ。
守りたい。邪魔はしたくない。けれど、邪魔をしない守りだけで足りるとは、いつも言い切れない。
夜会が終わるまでの二時間、俺は一定の距離を保ち続けた。
彼女の視線が、何度かこちらへ戻ったように見えた。
意図してではないだろう。人混みでも白金の髪は見つけやすい。本人に聞けば、たぶんそう答える。
それでも、その視線が来るたび、腹の底が少し落ち着いた。
もし今夜、彼女が俺の不在を少しでも気にしてくれていたのなら。
そう考えてしまう程度には、俺は浮かれていた。
*
馬車に乗った。
向かいに、エリシアがちょこんと座っている。夜会のあいだ保ち続けた距離が、膝の触れそうな近さまで一息に縮まった。閉じた箱の中に、彼女の体温が伝わってくる。低い。よく演算した夜は、指先まで冷える。
「少しいいですか」
エリシアが巾着を取り出した。蜜豆だ。
一粒、口に入れる。
彼女の眉が、ほんの少し寄った。
今朝、茶を含んだ彼女も、一瞬だけカップの中へ目を落としていた。味を探し直す目だ。本人も気づいていないほどの、ほんの一拍の空白。
ここ数日の揺らぎと突き合わせれば、答えはほぼ出ている。
感覚器へ、濁りが届き始めている。
苦味は、その初期症状かもしれない。
彼女はまだ「豆の品質」だと思っている。訂正しなかった。
今は、まだその時ではない。
今ここで不調だけを告げても、彼女は安心しない。きっと自分の作業を止める。あるいは、テオドールの魔核整理を優先するために、どこまでなら動けるかを自分の身体で測り始める。
まず治す道筋を作る。
その上で、必要なことだけを、彼女が受け取れる形で伝える。
俺はそう決めていた。
「エリシア?」
眉がひそんだから、呼んだ。それだけだ。
「いいえ、何でもありません。このお店の豆、少し品質が変わったかもしれないと思っただけです」
違う、と言いかけて、止める。
彼女が、また豆を口に入れる。また、眉をひそめた。
その顔を見るのは、好きではない。
早く、なんとかしよう。
焦りではなく、段取りとしてそう思う。
そう思える程度には、俺は自分のやり方を信じている。
*
窓の外を見た。
エリシアの視線が、俺へ戻る。
指先が、俺の頬に触れた。
思考が、一拍、止まる。
「……熱があります。基準値を超えていると思います」
平静な声だ。彼女にとっては、医師が脈を取るのと同じ。確認行動。それだけのこと。
それだけのことだと、分かっている。
分かっているのに、彼女の指先が頬にある、ただそれだけで、頭の中が白くなる。
あの頃は、俺の手の方が彼女の熱を探していた。
今は、彼女が俺の熱に気づいている。
それだけで、息が詰まるほど救われた気がしてしまう。
「……少し、疲れただけだよ」
やっと出た声は、自分でも分かるほど低かった。
嘘ではない。少し疲れている。それだけではない、というだけだ。
エリシアはその低さを「問題ない、の省略形」と取って、手を引いた。また蜜豆を口に入れる。苦そうに、眉を寄せて。
彼女の指が離れた頬が、まだ熱を持っている。左耳の熱か、それとも触れられたせいか。
どちらでもいい。
窓の外を見た。夜の街道が流れていく。
エリシアは、この沈黙を普通の沈黙だと思っている。
それでいい。
今夜の俺には、それで十分だった。




