礼儀正しい牽制
王城の、大広間。春の宵。
無数の魔力灯とシャンデリアが、磨き上げた白大理石の床へ虹の帳を落としている。三原色がうっすら滲む、魔力灯の光。高い天井。列をなす石柱。閉じた扉の向こうから、弦の音と熱気と香が、もう溢れていた。
その扉の前に、エリシアと並んで立つ。
今夜の社交界は、どこを見ても似た型のドレスばかりだった。腰を限界まで締め上げ、胸元を大きく開く。成熟と権勢を誇る装い。自分の美しさも、家の力も、会場へ正しく届かせるための服だ。
悪いとは思わない。社交界には社交界の言葉がある。
ただ、エリシアがその言葉を選ばずに済んだことに、俺は少しだけ安堵していた。
彼女のドレスは、流行の真逆だ。胸下で切り替え、裾へ霧のように流れ落ちるエンパイア。月光の白から、淡い藤へ溶けていく。鎖骨だけを静かに覗かせ、星屑のような銀糸の刺繍。歩くたび、春の霧をまとっているように見えた。
演算に障らない。礼を失しない。誰にも余計な口実を与えない。
たぶん彼女の判断は、その三つだ。
それでいい。
彼女自身が望まない視線まで、礼装の名で背負う必要はない。美しさを見せることと、見られる負担を当然のように引き受けることは、同じではない。
俺は、黒に近い濃紺の燕尾。白いウェストコートに、白の蝶ネクタイ。胸元に、アレキサンドライトを一つ。
光を受けると、碧からアメジストへ変わる。
エリシアの、瞳と同じアメジストだ。
並んで立てば、気づく者は気づく。彼女が一人でこの場へ置かれているわけではないのだと。
無言の牽制だと言われれば、否定はできない。けれど、今夜の俺がしたいのは囲い込みではなかった。彼女が歩く場所から、踏まなくていい棘だけを払うことだ。
「入れる?」
少し身を屈めて、訊いた。声はいつも通りに整えたつもりだったが、自分の耳にはわずかに低く聞こえた。
「はい」
腕を差し出す。エリシアが手を添えた。白い手袋越しに、指先の温度が伝わる。低い。よく演算している夜だ。
その手が、ほんの一瞬、止まった。
俺の腕の熱に、気づいたのかもしれない。
「どうかした?」
「……いえ」
気のせいだと処理してくれたのなら、助かる。
扉が開いた。音が壁になって、押し返してくる。
*
エリシアが、目を閉じた。長い睫毛が、白い頬に影を落とす。
感覚器の選別が走る、この一瞬。余計な入力を乗せてはいけない。腕の温度も、体重の移動も、手袋越しの感触も、今の彼女には負荷になる。
名残惜しさを飲み込んで、腕を解いた。
本当は、解きたくない。
それでも、不安を理由に掴み続ければ、彼女の場所を狭めるだけだ。
腕を解き、けれど崩れればすぐ支えられる場所に残る。届くが、邪魔をしない。守れるが、囲い込まない。
今の俺に許されるのは、その距離だった。
彼女が、ゆっくり目を開けた。
人混みの中でも、彼女はすぐに見つかる。背が高いわけでも、声が大きいわけでもない。それでも俺の視線は、自然に彼女へ戻る。
いつのまにか染みついた癖だ。
危険を探すためだけではない。たぶん、彼女がそこにいることを、俺自身が何度も確かめたいのだと思う。
魔力灯の光が、彼女の髪を割った。
銀が、深い紫へ変わる。揺れるたび、また銀へ戻り、また紫へ沈む。桁違いの魔力が、あの髪の中で静かに呼吸している。
この国で、紫銀の髪の意味を知らぬ貴族はいない。高魔力の証。家の繁栄を夢見る者なら、思わず目を奪われる色だ。
その視線が、嫌だった。
ただし、嫌だから隠す、ではいけない。
エリシアは誰かの宝石ではない。俺の不安を鎮めるために、布で覆ってしまっていい人でもない。
彼女がこの会場を歩くなら、歩けばいい。見たいものを見て、考えたいことを考えればいい。俺はその横で、彼女の足元へ落ちる棘だけを拾う。
それでも、腹の底に熱は立つ。
綺麗な理屈だけで済むほど、俺は善人ではなかった。
*
彼女が中心へ歩き出す。俺は、彼女の呼吸を乱さず、何かあればすぐ割って入れる位置に身を置いた。
熱は、三日前から引かない。
左耳の石が、エリシアの魔核の歪みの兆しを捉え始めたせいだ。
いつもと違う揺らぎに身体が追いついていない。受け止めきれない分が、熱になって燻っている。
怖くないと言えば、嘘になる。
けれど、まだ道筋はある。症状は初期だ。治癒の段取りもつけられる。なら日常は変わらない。今までのように外からの危険と過度な負荷を避ければいい。
そう判断している。
だから今は、熱などない顔をする。
夜会は始まったばかりで、エリシアはまだ、この場を歩く必要がある。
*
斜め前から、ラウネ男爵夫人が近づいてくる。少し前から、その動きには気づいていた。
「個性的ですこと」
エリシアが「ありがとうございます」と返した。
間が、空く。
あの「ありがとうございます」が自動応答なのを、俺は知っている。今、彼女の演算は「個性的」という単語の分類で止まっている。止まったまま、次が出てこない。
一秒。二秒。
これ以上は、置いておけない。
「失礼」
それだけ言って、彼女の腕を取った。細い。いつものことなのに、その細さにだけは慣れない。
通り過ぎ際、夫人へ首だけを向けた。
「ラウネ男爵夫人。今夜のアルスタ伯爵令嬢のお召し物は、建国の式典に由来する伝統の型——女神アステリアも愛された意匠です」
穏やかに、上品に、完璧に礼儀正しく。
「祈りの場を思わせるその型を選ぶ方を、ご信心の深さと結びつけて考える方は多い。どうか、お忘れなく」
それだけ置いて、振り返らず歩く。
声は荒げない。夫人が次に同じ言葉を使いにくくなるよう、文脈を整えただけだ。
社交界では、刃を抜かずに切れるものがある。
できるなら、エリシアにはその刃を見せたくなかった。
*
「……あの方、口を開けたままでしたけど」
「大丈夫だよ」
「喉が乾いているのかもしれません。給仕を」
「放っておいていいよ」
エリシアが、ひとつ首を傾けた。「まあいいか」に着地した顔だ。
俺が「大丈夫だよ」と言えば、彼女はそれを採用する。理由を深く追わない。
ありがたいと思う。
そして、少しだけ苦くも思う。
その信頼に甘えすぎれば、俺は簡単に彼女の世界を狭められる。だから一つずつ、線を引き直す必要がある。
これは彼女のためか。
俺の不安のためか。
たぶん、両方だ。
両方だからこそ、最小限にしなければならない。
*
会場の中央に、噴水があった。
エリシアが、止まる。
縁に並んだ、白い陶器の小鳥を見ている。細い首が、右へわずかに傾いた。
胸の内で、溜め息に似たものが漏れた。
あの傾きは、彼女からすると「考えている途中」の自然な癖だ。本人は、たぶん何も意識していない。
だが小鳥と小首をかしげ合っているように見えるのだ。
たまらなく、可愛い。
こんな場所で、そんな顔をしないでくれと思う。思うだけで、動かない。
隠してしまいたい衝動はある。
けれど、それをした瞬間、俺は彼女を人間ではなく、自分の不安を鎮めるためのものとして扱うことになる。
だから動かない。
近くで、婦人たちが囁いている。
「入場ではあんなに見せつけておいて、今はあの距離でしょう? なのに殿方は誰一人近づけないなんて……見事な牽制だわ」
「公爵子息が、場を見ているもの」
「隙がないくらいに」
「腹立たしいわ、本当に」
見事な牽制。
正確だ。
腕を解いているのは、彼女の演算負荷を減らすためだ。だが、入場を見た全員の記憶に、あの場面は残っている。今この瞬間も、彼女の邪魔をしない距離を保ちながら、近づく視線だけを退けている。
独占欲がないとは言わない。
けれど、独占欲だけで動けば、俺は彼女の隣に立つ資格を失う。
だから、礼儀の形を取る。社交界の作法の中で済ませる。彼女が後で振り返っても、自分が何かを奪われたとは感じないように。
それが、今夜の俺にできる自制だった。




