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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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礼儀正しい牽制

王城の、大広間。春の宵。


無数の魔力灯とシャンデリアが、磨き上げた白大理石の床へ虹の帳を落としている。三原色がうっすら滲む、魔力灯の光。高い天井。列をなす石柱。閉じた扉の向こうから、弦の音と熱気と香が、もう溢れていた。


その扉の前に、エリシアと並んで立つ。


今夜の社交界は、どこを見ても似た型のドレスばかりだった。腰を限界まで締め上げ、胸元を大きく開く。成熟と権勢を誇る装い。自分の美しさも、家の力も、会場へ正しく届かせるための服だ。


悪いとは思わない。社交界には社交界の言葉がある。


ただ、エリシアがその言葉を選ばずに済んだことに、俺は少しだけ安堵していた。


彼女のドレスは、流行の真逆だ。胸下で切り替え、裾へ霧のように流れ落ちるエンパイア。月光の白から、淡い藤へ溶けていく。鎖骨だけを静かに覗かせ、星屑のような銀糸の刺繍。歩くたび、春の霧をまとっているように見えた。


演算に障らない。礼を失しない。誰にも余計な口実を与えない。


たぶん彼女の判断は、その三つだ。


それでいい。


彼女自身が望まない視線まで、礼装の名で背負う必要はない。美しさを見せることと、見られる負担を当然のように引き受けることは、同じではない。


俺は、黒に近い濃紺の燕尾。白いウェストコートに、白の蝶ネクタイ。胸元に、アレキサンドライトを一つ。


光を受けると、碧からアメジストへ変わる。


エリシアの、瞳と同じアメジストだ。


並んで立てば、気づく者は気づく。彼女が一人でこの場へ置かれているわけではないのだと。


無言の牽制だと言われれば、否定はできない。けれど、今夜の俺がしたいのは囲い込みではなかった。彼女が歩く場所から、踏まなくていい棘だけを払うことだ。


「入れる?」


少し身を屈めて、訊いた。声はいつも通りに整えたつもりだったが、自分の耳にはわずかに低く聞こえた。


「はい」


腕を差し出す。エリシアが手を添えた。白い手袋越しに、指先の温度が伝わる。低い。よく演算している夜だ。


その手が、ほんの一瞬、止まった。


俺の腕の熱に、気づいたのかもしれない。


「どうかした?」


「……いえ」


気のせいだと処理してくれたのなら、助かる。


扉が開いた。音が壁になって、押し返してくる。


    *


エリシアが、目を閉じた。長い睫毛が、白い頬に影を落とす。


感覚器の選別が走る、この一瞬。余計な入力を乗せてはいけない。腕の温度も、体重の移動も、手袋越しの感触も、今の彼女には負荷になる。


名残惜しさを飲み込んで、腕を解いた。


本当は、解きたくない。


それでも、不安を理由に掴み続ければ、彼女の場所を狭めるだけだ。


腕を解き、けれど崩れればすぐ支えられる場所に残る。届くが、邪魔をしない。守れるが、囲い込まない。


今の俺に許されるのは、その距離だった。


彼女が、ゆっくり目を開けた。


人混みの中でも、彼女はすぐに見つかる。背が高いわけでも、声が大きいわけでもない。それでも俺の視線は、自然に彼女へ戻る。


いつのまにか染みついた癖だ。


危険を探すためだけではない。たぶん、彼女がそこにいることを、俺自身が何度も確かめたいのだと思う。


魔力灯の光が、彼女の髪を割った。


銀が、深い紫へ変わる。揺れるたび、また銀へ戻り、また紫へ沈む。桁違いの魔力が、あの髪の中で静かに呼吸している。


この国で、紫銀の髪の意味を知らぬ貴族はいない。高魔力の証。家の繁栄を夢見る者なら、思わず目を奪われる色だ。


その視線が、嫌だった。


ただし、嫌だから隠す、ではいけない。


エリシアは誰かの宝石ではない。俺の不安を鎮めるために、布で覆ってしまっていい人でもない。


彼女がこの会場を歩くなら、歩けばいい。見たいものを見て、考えたいことを考えればいい。俺はその横で、彼女の足元へ落ちる棘だけを拾う。


それでも、腹の底に熱は立つ。


綺麗な理屈だけで済むほど、俺は善人ではなかった。


    *


彼女が中心へ歩き出す。俺は、彼女の呼吸を乱さず、何かあればすぐ割って入れる位置に身を置いた。


熱は、三日前から引かない。


左耳の石が、エリシアの魔核の歪みの兆しを捉え始めたせいだ。


いつもと違う揺らぎに身体が追いついていない。受け止めきれない分が、熱になって燻っている。


怖くないと言えば、嘘になる。


けれど、まだ道筋はある。症状は初期だ。治癒の段取りもつけられる。なら日常は変わらない。今までのように外からの危険と過度な負荷を避ければいい。


そう判断している。


だから今は、熱などない顔をする。


夜会は始まったばかりで、エリシアはまだ、この場を歩く必要がある。


    *


斜め前から、ラウネ男爵夫人が近づいてくる。少し前から、その動きには気づいていた。


「個性的ですこと」


エリシアが「ありがとうございます」と返した。


間が、空く。


あの「ありがとうございます」が自動応答なのを、俺は知っている。今、彼女の演算は「個性的」という単語の分類で止まっている。止まったまま、次が出てこない。


一秒。二秒。


これ以上は、置いておけない。


「失礼」


それだけ言って、彼女の腕を取った。細い。いつものことなのに、その細さにだけは慣れない。


通り過ぎ際、夫人へ首だけを向けた。


「ラウネ男爵夫人。今夜のアルスタ伯爵令嬢のお召し物は、建国の式典に由来する伝統の型——女神アステリアも愛された意匠です」


穏やかに、上品に、完璧に礼儀正しく。


「祈りの場を思わせるその型を選ぶ方を、ご信心の深さと結びつけて考える方は多い。どうか、お忘れなく」


それだけ置いて、振り返らず歩く。


声は荒げない。夫人が次に同じ言葉を使いにくくなるよう、文脈を整えただけだ。


社交界では、刃を抜かずに切れるものがある。


できるなら、エリシアにはその刃を見せたくなかった。


    *


「……あの方、口を開けたままでしたけど」


「大丈夫だよ」


「喉が乾いているのかもしれません。給仕を」


「放っておいていいよ」


エリシアが、ひとつ首を傾けた。「まあいいか」に着地した顔だ。


俺が「大丈夫だよ」と言えば、彼女はそれを採用する。理由を深く追わない。


ありがたいと思う。


そして、少しだけ苦くも思う。


その信頼に甘えすぎれば、俺は簡単に彼女の世界を狭められる。だから一つずつ、線を引き直す必要がある。


これは彼女のためか。

俺の不安のためか。


たぶん、両方だ。


両方だからこそ、最小限にしなければならない。


    *


会場の中央に、噴水があった。


エリシアが、止まる。


縁に並んだ、白い陶器の小鳥を見ている。細い首が、右へわずかに傾いた。


胸の内で、溜め息に似たものが漏れた。


あの傾きは、彼女からすると「考えている途中」の自然な癖だ。本人は、たぶん何も意識していない。


だが小鳥と小首をかしげ合っているように見えるのだ。


たまらなく、可愛い。


こんな場所で、そんな顔をしないでくれと思う。思うだけで、動かない。


隠してしまいたい衝動はある。


けれど、それをした瞬間、俺は彼女を人間ではなく、自分の不安を鎮めるためのものとして扱うことになる。


だから動かない。


近くで、婦人たちが囁いている。


「入場ではあんなに見せつけておいて、今はあの距離でしょう? なのに殿方は誰一人近づけないなんて……見事な牽制だわ」


「公爵子息が、場を見ているもの」


「隙がないくらいに」


「腹立たしいわ、本当に」


見事な牽制。


正確だ。


腕を解いているのは、彼女の演算負荷を減らすためだ。だが、入場を見た全員の記憶に、あの場面は残っている。今この瞬間も、彼女の邪魔をしない距離を保ちながら、近づく視線だけを退けている。


独占欲がないとは言わない。


けれど、独占欲だけで動けば、俺は彼女の隣に立つ資格を失う。


だから、礼儀の形を取る。社交界の作法の中で済ませる。彼女が後で振り返っても、自分が何かを奪われたとは感じないように。


それが、今夜の俺にできる自制だった。

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