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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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知らない扉

午後の会合が終わり、東翼の控え室へ向かった。


扉を、ノックする。


「——終わった?」


「はい」


扉が開いた。


エリシアが机に向かい、書類の最後の一行を確かめていた。


俺はまず机の上を見た。書類、インク、筆跡、確認欄。それから、彼女の顔を見る。そうすれば、だいたいの負荷は分かる。


今日のそれは、計算が答えへ届いたときの、あの満足を帯びた目——隣で何度も見てきた、完了の顔だった。


書類が終わったのだと、俺は読んだ。


その完了の顔が、何の完了を告げる顔なのか。


今日、扉の向こうで、彼女が誰と何を囲んでいたのか。


俺は、知らない。


机の端に茶器があった。触れると、すっかり冷えている。


「……冷えてる」


朝からずっと、口をつけていないのだろう。放ってはおけず、部屋の隅に控える侍女へ目をやった。


「新しいものをお願いできる?」


「かしこまりました」


それから、もう一度エリシアを見た。


「今日は顔色が少しマシだね」


「今朝より演算負荷が下がっています」


「それはよかった」


笑ったと思う。


彼女の負荷が下がる。たったそれだけで、俺の一日はずいぶん軽くなる。


廊下へ出る。


「ちゃんと歩けてた?」


「はい。今日は平らな床で転んでいません」


「うん。少なくとも、今は無事そうだ」


エリシアがこちらを見た。


「……見ていたのですか?」


「迎えに来た時に少しだけ。今日みたいな日は、念のためね」


彼女が答えやすいよう、いつもの調子で穏やかに答える。


エリシアがポケットから蜜豆を取り出して、一粒、口に入れた。


「……蜜豆、減ってない?」


彼女の足が、止まる。


「……数えていますか?」


「数えてはいないよ」


「なんとなくで分かる量ではないと思います」


「日々の積み重ねだよ」


さらりと返した。


エリシアが少し黙った。演算が一瞬だけ止まりかけたように見えた。


その意味までは、深く追わなかった。彼女が黙るのは珍しくないし、考え事の途中なのだろう。そう流して、隣を歩く。隣と言っても、いつもの距離は保ったままで。


胸の奥に、静かな充実があった。


満足と言えば生ぬるく、愛と呼ぶにはまだ早い。執着に近い熱も、確かにある。だがそれ以上に——彼女が生きている。ただそれだけの事実への、底のない安堵があった。


どう呼んでも構わない。


今日も彼女がいる。俺が守れていると信じられる場所に。


それだけで、俺の世界は正しい形をしている。


    *


帰りの馬車から、夜の王都を眺めた。今日の一日を頭の中で並べ直す。午前の執務、午後の会合。エリシアは控え室で書類を終えた。見えていた範囲では、何も乱れていなかった。


今日、彼女が歩いた道のりの一部は、俺の知らない場所を通っていた。

今日、彼女が交わした言葉の一部は、俺の聞いたことのない相手へ向けられていた。

今日の最後に彼女が口へ入れた蜜豆の甘さには、俺の知らない重さが混じっていた。


冷めた茶には気づいた。

蜜豆が減ったことにも気づいた。

顔色が少し戻ったことにも。


それなのに。


彼女がどの扉を開けたのかだけを、俺は知らない。


すぐそこにいた。


扉一枚の外にいた。


けれど今日、俺は誰より遠かった。

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