知らない扉
午後の会合が終わり、東翼の控え室へ向かった。
扉を、ノックする。
「——終わった?」
「はい」
扉が開いた。
エリシアが机に向かい、書類の最後の一行を確かめていた。
俺はまず机の上を見た。書類、インク、筆跡、確認欄。それから、彼女の顔を見る。そうすれば、だいたいの負荷は分かる。
今日のそれは、計算が答えへ届いたときの、あの満足を帯びた目——隣で何度も見てきた、完了の顔だった。
書類が終わったのだと、俺は読んだ。
その完了の顔が、何の完了を告げる顔なのか。
今日、扉の向こうで、彼女が誰と何を囲んでいたのか。
俺は、知らない。
机の端に茶器があった。触れると、すっかり冷えている。
「……冷えてる」
朝からずっと、口をつけていないのだろう。放ってはおけず、部屋の隅に控える侍女へ目をやった。
「新しいものをお願いできる?」
「かしこまりました」
それから、もう一度エリシアを見た。
「今日は顔色が少しマシだね」
「今朝より演算負荷が下がっています」
「それはよかった」
笑ったと思う。
彼女の負荷が下がる。たったそれだけで、俺の一日はずいぶん軽くなる。
廊下へ出る。
「ちゃんと歩けてた?」
「はい。今日は平らな床で転んでいません」
「うん。少なくとも、今は無事そうだ」
エリシアがこちらを見た。
「……見ていたのですか?」
「迎えに来た時に少しだけ。今日みたいな日は、念のためね」
彼女が答えやすいよう、いつもの調子で穏やかに答える。
エリシアがポケットから蜜豆を取り出して、一粒、口に入れた。
「……蜜豆、減ってない?」
彼女の足が、止まる。
「……数えていますか?」
「数えてはいないよ」
「なんとなくで分かる量ではないと思います」
「日々の積み重ねだよ」
さらりと返した。
エリシアが少し黙った。演算が一瞬だけ止まりかけたように見えた。
その意味までは、深く追わなかった。彼女が黙るのは珍しくないし、考え事の途中なのだろう。そう流して、隣を歩く。隣と言っても、いつもの距離は保ったままで。
胸の奥に、静かな充実があった。
満足と言えば生ぬるく、愛と呼ぶにはまだ早い。執着に近い熱も、確かにある。だがそれ以上に——彼女が生きている。ただそれだけの事実への、底のない安堵があった。
どう呼んでも構わない。
今日も彼女がいる。俺が守れていると信じられる場所に。
それだけで、俺の世界は正しい形をしている。
*
帰りの馬車から、夜の王都を眺めた。今日の一日を頭の中で並べ直す。午前の執務、午後の会合。エリシアは控え室で書類を終えた。見えていた範囲では、何も乱れていなかった。
今日、彼女が歩いた道のりの一部は、俺の知らない場所を通っていた。
今日、彼女が交わした言葉の一部は、俺の聞いたことのない相手へ向けられていた。
今日の最後に彼女が口へ入れた蜜豆の甘さには、俺の知らない重さが混じっていた。
冷めた茶には気づいた。
蜜豆が減ったことにも気づいた。
顔色が少し戻ったことにも。
それなのに。
彼女がどの扉を開けたのかだけを、俺は知らない。
すぐそこにいた。
扉一枚の外にいた。
けれど今日、俺は誰より遠かった。




