聞かない、という作法
あの就任式から、半月ほどが過ぎた。
春はまだ盛りで、王城の庭では遅咲きの花が、惜しげもなく咲いている。
王城の東翼は、政務の中枢から少し外れた陽当たりのいい一画だ。使われない控え室がいくつも並び、人の往来も少ない。エリシアが演算に潜るには、ちょうどいい静けさがある。
だから今日も、護衛という名目でここまで送ってきた。
名目だけではない。王城内であっても、人目の少ない場所へ伯爵令嬢を一人で歩かせる理由はないし、俺が隣にいる理由なら、いくらでも立つ。
それに今日は、朝から左耳が少し熱を持っていた。危険というほどではない。ただ、深く潜る日の熱だ。ならば行き帰りくらいはそばにいたほうがいい——そういう判断は、もう呼吸のように自然にできる。
その廊下で、エリシアと別れた。
「——この先の控え室で、書類の仕事があります。今日はここで」
扉の前で彼女はそう言った。いつもの、説明するような声だった。
「うん、わかった」
聞こうと思えば、いくらでも聞けた。どんな書類か。どれくらいかかるのか。終わったら呼んでくれるのか。
けれど彼女は、必要なことをもう告げている。ここから先は彼女の仕事の時間で、俺が細かく尋ねれば、彼女は律儀に答えてしまうだろう。それは彼女の集中を削る。
だから、聞かない。それも作法のうちだ。
扉が閉まる。
すぐそこにいることは分かっている。体温も、演算の浅い揺れも届いている。それでも扉一枚を隔てるだけで、空気が少し遠くなる。
その感覚に、我ながら笑いそうになった。大げさだ。ここは王城で、彼女は書類の仕事をしているだけで、控え室には侍女もいる。俺がこの扉の前に立ち続ける理由は、どこにもない。
しばらくしてから、自分の執務室へ足を向けた。
足取りは軽い。彼女が近くで仕事をしている——それだけのことで、王城の廊下というものは、ずいぶん歩きやすくなる。
*
王城に与えられた執務室は、地図と書類ばかりの簡素な部屋だ。窓の外に、さっき見た庭の花が小さく覗いている。
午前の執務は、いくつもの案件が同時に動いていた。北部の調律師の配置換え、沿岸防衛線の見直し、来月の儀式の出席者選定。それらを並べて捌きながら、時々、意識が控え室の方角へ戻る。
彼女の演算は安定していた。少し深いが、乱れてはいない。
「この配置は負担が偏る。第二区を拠点に組み直せ。予算は別経路で立てる」
「はい。確認ですが——」
「書類にしておけ。俺が見る」
案件が一つ片づく。次へ移る。
そこへ、テオドールの書状が届いた。
『義兄様。姉様は今朝も早起きでした。波長は安定していますが、いつもより少し深く潜りそうです。お気をつけください。』
一度読んで、畳んだ。
あの義弟が「義兄様」と書くのは、婚約が決まった年から変わらない。なぜそう呼ぶのか、訊いたことも正したこともない。正す理由が、思い当たらなかったからだ。
いつもより少し深く潜りそう——その一行に、何も感じなかったわけではない。だが、理由ならすぐに浮かぶ。今日の彼女は控え室で書類の仕事だ。込み入った中身なのだろう。あの子は、難しいものほど静かに深く潜る。
問題はない。
そう結んで、書状を内ポケットへ収めた。
胸の内が少し温かいのは、書状のせいだろう。朝の彼女を知らせてくる筆まめな義弟がいて、深く潜る前の静かな横顔が目に浮かぶ。俺の一日は、そういう小さな報せで組み上がっている。
*
しばらくして、左耳が低く熱を帯びた。
彼女が深く潜っている。分かるのは、それだけだ。今日はその沈み込みがずいぶん深い。よほど難しい書類なのだろう。
エリシアが書類の仕事をしていると言うなら、俺はそれを信じる。疑う理由が、どこにもない。
彼女が賢いことは、誰よりも知っているつもりだ。あの澄んだ目が、誰も見いだせなかった可能性を見つけることも。俺の届かない深さまで、一人で潜っていくことも。
それでも、順番というものは決まっている。危うい道なら先に俺が気づく。倒れそうなら先に手を伸ばす。彼女が何かを抱えるなら、せめて隣で見ている。世界はそういう順番で動いているし、これからも、そう動いていく。
——その時、彼女が控え室の机の前にいなかったことを、俺は知らない。
石が伝えてくれるのは、深さだけだ。
俺は次の書類へ目を戻した。




