見えていなかった手
その四日後、俺は諸侯との会合で官邸に詰めていた。
長い会合だった。
だが、無駄ではなかった。大半は前夜の筋書き通りに運び、残る議題も、少し圧をかければ落ちた。父ならもっと大きく笑って片づけただろう。俺はそういうやり方をしない。必要な分だけ押し、必要な分だけ退く。
帰りの馬車で、次の手順を組み直す。
祈祷師代理の席は手に入れた。
エリシアは補佐として聖域へ入った。
制度の中に、俺たちの距離は根を張った。
次は、その日々を当たり前にすることだ。
彼女が聖域へ通う。
俺がそばにいる。
誰も疑わない。
彼女自身も、余計な遠慮をしない。
そこまで整えば、ようやく少し息ができる。
左耳が、ここ数日妙に落ち着かない。
エリシアの演算が深い。長い。時々こちらへ伝わる熱が不規則に揺れる。
何かを考えているのだろう。
それは分かる。
何を、までは読めない。
新しい務めにずいぶん熱心だな。
そう片づけた。
馬車が公爵邸の敷地へ入る。父の書斎の窓に明かりが点いていた。
「来客か」
御者へ尋ねる。
「存じません」
「いい。確かめなくていい」
父の書斎に客があるのは珍しくない。
公爵家には、いつでも誰かが出入りしている。
今日だけを疑う理由は、どこにもない。
俺は馬車の窓越しに明かりを見ただけで、通り過ぎた。
彼女がその部屋にいたことを、俺は知らない。
*
その夜、公爵邸の書斎で何が話されていたのか。
翌朝、父がどんな顔で王城へ向かうのか。
王が、始祖の肖像画の前で何を許すのか。
俺は、何も知らない。
知らないまま、整えた道の真ん中で眠る。
その道の外側で、父と王とエリシアが、俺の知らない話を進めていた。
*
翌日の夜、アルスタ伯爵邸の前を通る道を選んだ。
選んだ、というほどでもない。
長く続ければ、道は勝手に足へ染みる。
彼女の部屋に明かりが点いていた。
遅い時間だ。
まだ起きている。
眉を寄せかけて、それから少し笑った。
新しい務めを得たばかりだ。聖域の記録か、術式の確認か。あの子なら、眠るより先に紙へ向かうだろう。
よくやっている、エリシア。
胸の奥に、静かな安堵が沈んだ。
彼女の一日が、手の届く場所にある。
彼女の仕事が、俺の隣へ続いている。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しい。
そう思うことは、たぶん少し重い。
だが、否定する気はなかった。
俺は彼女を守りたい。
同時に、彼女の今日を奪いたくない。
彼女が何に疲れ、何に笑い、何を美しいと思ったのか。知りたいと思う。けれど、それを俺のものにしてしまえば、彼女の一日ではなくなる。
だから、届く場所にいたい。
邪魔をしない場所で。
必要な時だけ手が届く場所で。
愛と呼ぶには、まだ早い。
献身と呼ぶには、少し苦い。
けれどそれが、あの夜から俺を動かしているものだった。
窓の明かりが揺れる。
机に向かう彼女の指先を思い浮かべた。細い指。紙の上で、何かをなぞる癖。深く考えると、唇がほんの少し開くこと。蜜豆を探す手が、時々、机の端で迷子になること。
数えきれないほど隣で見てきた光景だ。
だから、今夜の夜更かしも予想の範囲内だ。
馬車が動き出す。
明かりが遠ざかる。
俺は、その光が何を照らしているのかを知らなかった。
彼女が俺に告げずに描いている、一枚の設計図。
そこにどんな願いが折り込まれているのか、今夜の俺は知らない。
知れば、止める。
だから彼女は、言わない。
今夜、彼女は俺より先に答えを持っていた。
誰より近くに立つ理由を得たはずの俺が。
誰より近くで彼女を見てきたはずの俺が。
いちばん大事なところで、彼女の手の内を読めていない。
俺はまだ、自分の守りを疑ってもいない。




