完璧な守り
就任の翌朝、テオドールが書斎へ入ってきた。
ノックは三回。間隔はいつも通り均等だ。取り決めたわけではない。あの子は昔から、扉を叩く音まで丁寧だった。
「義兄様」
姉の前で見せる、愛らしい弟の顔ではない。
俺の前にいるのは、エリシアの半身であり、あの夜を別の角度から知る少年だった。
ただし、その少年は、姉が自分を見落とす怖さを俺と同じだけ知っている。
「姉様が、昨夜から演算密度を上げています」
「そうだろうね」
「就任式で、何かが残りました」
残った。
いい言い方だと思った。
エリシアは感情を覚えると、まず片づけようとする。机の上に置き忘れた書類と同じ扱いで、分類し、理由を探し、解決条件を組む。けれど昨日の彼女は、それができていなかった。
白と金の正礼装。
祝辞。
一拍止まった演算。
俺を見る、あの目。
思い出しただけで、口元が緩みそうになる。
「放っておいていい。あれは彼女が自分で向き合うべきものだ」
「義兄様に関係する感情でも?」
「だからだよ」
俺が先に名をつけてしまえば、彼女は自分の手で掬い上げる機会を失う。
そういうところだけは、急いではいけない。
テオドールは黙った。納得したのか、呆れたのか。たぶん両方だ。
「とうとう、座りましたね」
「ああ」
「父上の席を空けてまで」
「クレメンス殿は、研究人生で最高の機会を得た。国にも益がある」
「表向きは」
前年の初冬、人波の引いた講堂の隅で、この子は同じ目をしていた。
父を旧都へ送ったのが誰か。
その結果、祈祷師代理の席が空いたこと。
その席に俺が座ること。
テオドールは分かっていた。
分かった上で、黙っていた。だから今さら暴く必要はない。俺たちは、同じ怖さの上に立っている。
「姉様を、ご自分の補佐に据えたのも」
「必要な日に、手が届く場所へ行くためだよ」
隠す気はなかった。
この子相手に取り繕っても、きっと見抜かれる。何より、テオドールもまた、姉の歩幅を奪いたいわけではない。姉が姉のまま、危ない場所へ行く時だけ、誰かの手が届いてほしいのだ。
テオドールは少しだけ目を伏せた。
「賢いとは思います」
「ありがとう」
「でも、義兄様」
顔を上げた灰紫の瞳が、静かに俺を射た。
「姉様の方が、義兄様より先の道にいた時は、どうするんですか」
一瞬、書斎が静かになった。
俺は笑った。
「誇らしいだろうね」
「それだけですか」
「……怖くもあるだろうね」
テオドールは、やっと少しだけ眉を下げた。
「義兄様は、そういうところが少し危ないです」
「君に言われるとは思わなかったな」
「僕も、自分で言いながら少し思いました」
その率直さに、思わず笑った。
テオドールは礼をして、書斎を出ていった。
扉が閉まる。
俺は椅子の背へ身を預けた。
ようやく、道が開いた。
長いあいだ、俺は近づきすぎず、離れすぎない間合いを守ってきた。細い境目を、ずっと歩いてきた。
今日からは違う。
制度の名で隣に立てる。
聖域の務めとして、誰にも咎められず、彼女の横へ行ける。
三か月かけて整えた道だ。
この守りで、足りる。計画通りに進んでいた。
*
初めての実務の調律儀式。
聖域の間は、いつもより少し明るく見えた。
理由は分かっている。
エリシアがいる。
神官補佐として、俺のすぐ傍に。
白い簡素な礼装をまとった彼女は、黒い石床の上でひどく静かだった。儀礼の場に置かれた花のようで、けれど花よりもずっと危うい。視線を向けすぎるな、と自分に命じる。今は術式を見る時間だ。
術式を開く。
黒い石床へ、三原色の光脈が根のように広がった。生光の白、刻光の金、造光の蒼。古い聖域が、目を覚ます。
同時に、身体の内側を細い痛みが走った。
滲み出る魔力を、この身に通す痛み。
代々の調律師が引き受けてきたもの。
今日からは、俺のものだ。
想定の内だった。
騒ぐほどではない。
それよりも、隣の気配が変わった。
エリシアの演算密度が跳ね上がる。
空気が、わずかに重くなる。彼女が深く潜るときの質感だ。何度も見てきた。紙の上で、廊下で、馬車の中で。
左耳が低く熱を持つ。
深い。
分かるのは、それだけだった。
かなり深い。
(エリシア)
呼びかけそうになって、やめた。
彼女の目が、聖域の光を追っていた。
怖いほど澄んだ目だった。だが、そこに苦痛はない。怯えもない。
ただ、見ている。
美しいものを見つけた子供みたいに。
難問の糸口を見つけた学者みたいに。
その顔を見て、俺は少し安心した。
彼女は賢い。
一度見れば、構造を読む。古い術式の癖も、光脈の流れも、俺より先に理解することがある。
だから、これは彼女の勤勉さだろう。
新しい務めへ、真面目に向き合っている。
儀式が終わる。
術式を収束させながら、横顔を盗み見る。
エリシアはまだ聖域を見ていた。
答えを見つけた。
声には出していない。だが、そういう顔だった。
問えば、答えただろうか。
いや。
たぶん答えない。
沈黙こそが気遣いだ。彼女の集中を乱さないための、正しい距離だ。
だから俺は、問わなかった。
俺は彼女を、守れる場所に置けている。
何一つ、見落としてなどいない。




