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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
ヴァレリウス編

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完璧な守り

就任の翌朝、テオドールが書斎へ入ってきた。


ノックは三回。間隔はいつも通り均等だ。取り決めたわけではない。あの子は昔から、扉を叩く音まで丁寧だった。


「義兄様」


姉の前で見せる、愛らしい弟の顔ではない。


俺の前にいるのは、エリシアの半身であり、あの夜を別の角度から知る少年だった。


ただし、その少年は、姉が自分を見落とす怖さを俺と同じだけ知っている。


「姉様が、昨夜から演算密度を上げています」


「そうだろうね」


「就任式で、何かが残りました」


残った。


いい言い方だと思った。


エリシアは感情を覚えると、まず片づけようとする。机の上に置き忘れた書類と同じ扱いで、分類し、理由を探し、解決条件を組む。けれど昨日の彼女は、それができていなかった。


白と金の正礼装。

祝辞。

一拍止まった演算。

俺を見る、あの目。


思い出しただけで、口元が緩みそうになる。


「放っておいていい。あれは彼女が自分で向き合うべきものだ」


「義兄様に関係する感情でも?」


「だからだよ」


俺が先に名をつけてしまえば、彼女は自分の手で掬い上げる機会を失う。


そういうところだけは、急いではいけない。


テオドールは黙った。納得したのか、呆れたのか。たぶん両方だ。


「とうとう、座りましたね」


「ああ」


「父上の席を空けてまで」


「クレメンス殿は、研究人生で最高の機会を得た。国にも益がある」


「表向きは」


前年の初冬、人波の引いた講堂の隅で、この子は同じ目をしていた。


父を旧都へ送ったのが誰か。

その結果、祈祷師(きとうし)代理の席が空いたこと。

その席に俺が座ること。


テオドールは分かっていた。


分かった上で、黙っていた。だから今さら暴く必要はない。俺たちは、同じ怖さの上に立っている。


「姉様を、ご自分の補佐に据えたのも」


「必要な日に、手が届く場所へ行くためだよ」


隠す気はなかった。


この子相手に取り繕っても、きっと見抜かれる。何より、テオドールもまた、姉の歩幅を奪いたいわけではない。姉が姉のまま、危ない場所へ行く時だけ、誰かの手が届いてほしいのだ。


テオドールは少しだけ目を伏せた。


「賢いとは思います」


「ありがとう」


「でも、義兄様」


顔を上げた灰紫の瞳が、静かに俺を射た。


「姉様の方が、義兄様より先の道にいた時は、どうするんですか」


一瞬、書斎が静かになった。


俺は笑った。


「誇らしいだろうね」


「それだけですか」


「……怖くもあるだろうね」


テオドールは、やっと少しだけ眉を下げた。


「義兄様は、そういうところが少し危ないです」


「君に言われるとは思わなかったな」


「僕も、自分で言いながら少し思いました」


その率直さに、思わず笑った。


テオドールは礼をして、書斎を出ていった。


扉が閉まる。


俺は椅子の背へ身を預けた。


ようやく、道が開いた。


長いあいだ、俺は近づきすぎず、離れすぎない間合いを守ってきた。細い境目を、ずっと歩いてきた。


今日からは違う。


制度の名で隣に立てる。


聖域の務めとして、誰にも咎められず、彼女の横へ行ける。


三か月かけて整えた道だ。


この守りで、足りる。計画通りに進んでいた。


    *


初めての実務の調律儀式。


聖域の間は、いつもより少し明るく見えた。


理由は分かっている。


エリシアがいる。


神官補佐として、俺のすぐ傍に。


白い簡素な礼装をまとった彼女は、黒い石床の上でひどく静かだった。儀礼の場に置かれた花のようで、けれど花よりもずっと危うい。視線を向けすぎるな、と自分に命じる。今は術式を見る時間だ。


術式を開く。


黒い石床へ、三原色の光脈が根のように広がった。生光(せいこう)の白、刻光(こくこう)の金、造光(ぞうこう)の蒼。古い聖域が、目を覚ます。


同時に、身体の内側を細い痛みが走った。


滲み出る魔力を、この身に通す痛み。

代々の調律師が引き受けてきたもの。


今日からは、俺のものだ。


想定の内だった。


騒ぐほどではない。


それよりも、隣の気配が変わった。


エリシアの演算密度が跳ね上がる。


空気が、わずかに重くなる。彼女が深く潜るときの質感だ。何度も見てきた。紙の上で、廊下で、馬車の中で。


左耳が低く熱を持つ。


深い。


分かるのは、それだけだった。


かなり深い。


(エリシア)


呼びかけそうになって、やめた。


彼女の目が、聖域の光を追っていた。


怖いほど澄んだ目だった。だが、そこに苦痛はない。怯えもない。


ただ、見ている。


美しいものを見つけた子供みたいに。

難問の糸口を見つけた学者みたいに。


その顔を見て、俺は少し安心した。


彼女は賢い。


一度見れば、構造を読む。古い術式の癖も、光脈の流れも、俺より先に理解することがある。


だから、これは彼女の勤勉さだろう。


新しい務めへ、真面目に向き合っている。


儀式が終わる。


術式を収束させながら、横顔を盗み見る。


エリシアはまだ聖域を見ていた。


答えを見つけた。


声には出していない。だが、そういう顔だった。


問えば、答えただろうか。


いや。


たぶん答えない。


沈黙こそが気遣いだ。彼女の集中を乱さないための、正しい距離だ。


だから俺は、問わなかった。


俺は彼女を、守れる場所に置けている。


何一つ、見落としてなどいない。

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