就任の論理
茶会から数日後。神殿の儀礼の間。
祈祷師代理への就任は、避けて通れない道だった。
本来なら俺の席ではなかった。そのことを俺は誰よりよく知っていた。
現任の上席神官には健康上の不安がある。次点は政治的に扱いづらい。その次は魔力の精度が要件に届かない。表向きには、それぞれにもっともな事情があった。
俺はただ、その事情が無理のない順番で表へ出るようにした。
「適任者がいないので、公爵家のヴァレリウスに」。そんな噂が流れる。誰の目にも違和感のない結論だったし、実際、俺以上に都合のいい者はいなかった。
前年の初冬の、あの夜。
テオドールが青い顔で俺を訪ねてきた。すべてはあの夜から動き始めた。エリシアの治療に近い場所へいること。彼女が聖域へ入る日、自然に同じ場へ立てること。神殿と公爵家の双方へ説明が立つこと。
必要な理由は、いくつもあった。
官吏が条文を読み、任命書が差し出される。恙なく式は流れていく。
その式に、エリシアが来ていた。
彼女が来たのは、テオドールが出るべきだと言ったからだ。テオドールがそう言ったのは、俺が彼へそう伝えたからだ。間に一人挟んだだけで、結論は変わらない。
彼女に見てほしかった。
この席に座る俺を。彼女の務めに近い場所へ移る俺を。
式の間、その横顔をちらりと盗み見た。
「申し訳ない」と、そう言いたげな顔に見えた。
そう読んだのは、俺の都合かもしれない。エリシアは、貧乏くじを引いた人間に申し訳ないと感じる。自分のせいでなくても、だ。
けれど今日に限っては、その奥に別の揺れがあるように見えた。
そうであってほしいと、思ってしまった。
廊下へ出た瞬間、窓から午後の光が差した。
その光を浴びて、彼女の視線が止まる。
左耳が、ほんの一拍だけ静かになった。脈が跳ねたのか、演算が止まったのか。理由までは分からない。
ただ、式のあと、彼女は確かに俺を見ていた。
その目の動きを見て、俺は胸の奥で何かをこらえた。
何をこらえたのかは、考えない。今はまだ、冷静でいるべき時期だ。そう、自分へ言い聞かせる。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
「……お仕事、大変になるのでは」
ちらりと彼女を見る。
「そうでもないよ」
穏やかな笑みを返す。
嘘ではない。
大変にしないために、この席へ座ったのだから。
今日から、彼女が聖域で働く日、俺が近くにいることは不自然ではなくなる。必要な日に手が届く。公の理由があれば、彼女も余計な負担として受け取らずに済む。
それで足りる。
エリシアはもう、十一の子供ではない。
あれから、あの夜と同じ類の危険はなかった。これからも少しの手助けをするだけで問題ない。
焦る理由は、何一つない。
左耳が、熱い。
この春になってから、その応えは少しずつ強くなっている。だが、まだ間に合う。
間に合わせる。
彼女を怯えさせず、彼女の仕事を折らず、彼女が彼女のままでいられる形で。
俺は、彼女にとっても、俺にとっても、理想的な道を選んだつもりだ。
*
帰りの馬車を、俺は別に仕立てさせた。
公爵令息と伯爵令嬢、それに彼女の弟。護衛の導線を引けば、分乗はごく自然な形になる。理由はいくらでも立つ。
立つのだが、本当のところは別だった。
今、あの狭い箱の中で彼女と向き合えば、少しばかり顔が保たない。
式のあと、エリシアは確かに俺を見ていた。祝辞を述べるためだけの視線ではなかった。申し訳なさ。困惑。そこまではいい。いつもの彼女なら予測できる感情だ。
けれど、その奥にもう一つ、不確かな揺れがあった。
それを見た時、俺は危うく笑いそうになった。嬉しいからではない。いや、嬉しくなかったと言えば嘘になる。ただ、それをそのまま顔に出すには、あまりにも早すぎた。
だから、離れる。
今日だけは、自分のために。
皮肉なものだ。近すぎて困るのは、いつも彼女の方だったはずなのに。
別の馬車に乗り込むと、扉が閉まり、車輪がゆっくり動き出した。向こうの馬車は少し前を行く。並走ではない。互いの窓は見えず、声も届かない。
それでも左耳は、途切れ途切れに彼女を伝えてくる。
脈と体温、演算のかすかな乱れ。
分かるのは、それだけだ。
何につまずいているのかまでは拾えない。だからここから先は、推測ですらない。俺に都合のいい、ただの願望だ。
もしそれが、俺が隣にいないことへの違和感なら。
もし彼女が、自分でも気づかないまま、ほんの少しだけ残念に思っているのなら。
まずい。
本当に、顔が保たない。
俺は目を閉じ、口元へ指を添えた。笑っていない。たぶん。少なくとも、今ここに彼女がいなくてよかったと思う程度には、冷静だった。
その日が来るまで、俺は待つ。
彼女がいつか、自分の心をその細い手で掬い上げる日まで。分類できないものを、不要なざらつきとして捨てず、これは何だろうと見つめる日まで。
ここまで待てた。
もう少し待てないはずがない。
そう結論づけて、俺は窓の外へ目を向けた。
左耳は、まだ熱を持っている。
向こうの馬車の中で、彼女の演算がまた一度、かすかに乱れた。
今度こそ、口元が緩んだ。




