観察の年季
それから数日後。神殿西棟、彼女の執務室。
朝から左耳の熱が引かなかった。深い演算の底に長くいる時の、細いざらつきが続いていた。
声をかければ反応はする。だが、そのたびに演算の水面へ波を立てることになる。ならば、声をかけずに済む場所にいればいい。だから、部屋の隅に立ってしばらく見守ることにした。
紙から、インク壺へ。
インク壺から、紙へ。
そして、また。
右手の動きは、しばらく正確だった。その拍が、ふいに崩れる。指先がインク壺へ伸びる角度が違った。
机の横へ滑り込む。インク壺をそっと攫い、代わりに蜜豆を二粒、手のひらへ置いた。
彼女の指がそれを包む。ゆっくりと顔が上がり、灯りを弾くアメジストが俺を映した。
「……インクを飲むところでした」
「見ていたよ」
「いつから?」
「少し前から」
実際には、彼女の手元が危うくなった少し前からだ。
けれど、それを細かく言う必要はない。必要なのは、彼女が恥じない程度の事実と、次に手を伸ばせる甘いものだ。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
エリシアは蜜豆を口へ運び、噛んで、ほんの少し笑んだ。甘かったらしい。それからまた演算へ戻りかけて、小首をかしげる。何か釈然としない、という顔で。
たぶん、俺がいつからいたのかを考えている。
そうだと、少し嬉しい。
残りの蜜豆を、小皿ごと机の端へ寄せた。彼女の邪魔にならず、手を伸ばせば届く場所へ。
左耳が、かすかに熱を帯びた。彼女がまた深く潜ったのだろう。
そう思った瞬間、彼女がまた蜜豆へ手を伸ばした。
俺は何も言わずに、ただ小さく笑った。
*
数日後。春はもう盛りだった。
王城の庭では、恒例の茶会が開かれていた。咲き揃った花が園を埋め、風がその匂いを運んでくる。楽団の調べ、グラスの触れ合う音、人々の笑い声。華やかで、明るく、誰もが美しい一日だと疑わない。
彼女には、毎年ここがいちばん重い。
エリシアは完璧な淑女として立っていた。背筋も、グラスを持つ角度も、視線の高さも、非の打ち所がない。外から見れば、だ。その内側でどれだけ必死に情報を仕分け、会話を処理し、場にふさわしい表情を組み立てているか、知っている者は少ない。
香水が近づいた。
扇を手にした婦人が一人。スタールフ夫人。社交界にいくらでもいる種類の女だ。柔らかい笑みの裏で値踏みをして、婚約者持ちのエリシアへ小さな棘を撒きに来る。
大した棘ではない。
けれど、彼女が自分では気づきにくい種類の棘は、早めに払ったほうがいい。
そう間合いを計った、その時だった。
「わあ、姉様!」
声が、俺より早く飛んだ。
テオドールだ。エリシアの左腕を両手で掴み、目を輝かせて、婦人の存在などまるで視界に入っていないという顔をしている。
「昨日の僕の質問を、まだ覚えていてくださったんですね! お茶会でまで僕の勉強のために復習してくださるなんて——姉様は本当に、世界一の弟想いです!」
婦人の扇が止まった。
……末恐ろしい義弟だ。
その完成度に、感心より先に少しだけ笑いそうになった。エリシアの変人めいた振る舞いを、ひと息で姉弟愛の美談へ塗り替えた。そして婦人を、その美談に水を差す無粋な女の側へ、静かに追い込んだ。きらめく目も、弾む声も、少年らしい無邪気さも、演技の継ぎ目がどこにもない。
見覚えがある。
同じものを、俺は八つの歳に鏡の中で覚えた。
しかも、俺より先に腕を取るとは。
相手は十三の子供だ。分かっている。分かってはいるのだが、少しだけ面白くない。
「全くだね、テオドール君」
胸の内は微塵も出さず、穏やかに引き取る。
「私まで、君の熱心な家庭教師に嫉妬してしまいそうだ。——スタールフ夫人。このご令嬢はこういう方でして。弟君への愛情は、場を選ばないのですよ」
劣勢を悟った婦人の扇が翻る。退き際の動きだ。会話は別の流れへ逃げていった。
テオドールが、俺を一瞬だけ見た。
上出来だ、とでも言いたいのか。
薄く笑っているようにも、いないようにも見える。十三の子供の表情をこれほど読めないと感じたのは、初めてだった。
通りすがりに目についた焼き菓子の皿を一つ、エリシアの前へそっと差し出す。
「休憩」
「……私、疲れて見えましたか」
「少しだけ」
「表情制御は、正常だったはずですが」
「君は疲れると、説明が長くなる」
さらりと言ってやる。
テオドールが真顔で頷いた。
「それに、人のいない方へ寄ります」
「歩幅も浅くなる」
俺が継ぐと、テオドールがすかさず締めにかかる。
「甘いものを、探し始めます」
二対一だった。
「……観察精度が、高すぎませんか」
「長年見ているからね」
そう言って笑う。本当のことだ。幼馴染というのは、それだけで観察の年季が入る。テオドールも、別の形でそうしてきたのだろう。
それは少しだけ癪で、同じくらい心強かった。
廊下へ出てから、エリシアが聞いてきた。
「あの方は、私の説明では不足でしたか」
「過不足の問題ではないかな」
「……ヴァレリウスは社交が上手い」
「上手いわけじゃないよ。必要だからやっているだけだ」
彼女は首をかしげた。わからなかったらしい。
エリシアが必要としている。だから俺がやる。それが、俺にとっての必要なことだ。
いつから彼女が俺の真ん中になったのかは、考えないことにしている。
それとは別に、義弟が俺より先に動いた件も、考えない。考える必要はない。
ただ、末恐ろしい子供だ。




