影の七年 〜ヴァレリウス視点開始〜
朝、目が覚めると、まず左耳へ指を添える。
石は、今日も凪いでいた。薄い体温ほどの熱。彼女はよく眠れたらしい。
それだけ確かめて、俺は自分の一日を始める。この所作が身についてから、どれだけ経つだろう。
魔核移譲の夜から、七年。
最初の一年、俺はたぶん正気ではなかった。
彼女が眠っているだけで、息を確かめた。
立ち上がろうとするだけで、手を伸ばした。
顔色が少し薄いだけで、胸の奥が冷えた。
二か月、エリシアはほとんど寝台から起き上がれなかった。それから一年近く、歩くことをもう一度覚え直した。十一の少女が弟を救うために自分の器を差し出した。世界の音が増えた身体で、もう一度、自分の足を探していた。
そのそばで俺にできたことは、あまり多くなかった。
珍しい花を一輪持っていく。
面白い鉱石を一つだけ見せる。
彼女が世界の内側へ沈みすぎないように、外側に細い糸を結ぶ。
彼女が寝台から起き上がれるようになって、半年ほどが過ぎた頃、俺は左耳に赤い石を穿った。
拾えるのは、体温、脈、演算の深さ、魔力の流れ。その輪郭だけだ。
それでも当時の俺には、何もないよりはずっとよかった。
怖かったのだ。
彼女がまた、何のためらいもなく自分を使ってしまうことが。
けれど、時間は彼女を少しずつ日常へ戻した。
エリシアは歩けるようになった。笑うようになった。菓子を選び、茶を飲み、難しい式に没頭し、時々こちらの声に首をかしげるようになった。
それでも俺の目には、彼女はまだ、支えの要る病み上がりの人だった。
歩けるようになっても、あの夜に差し出したものが、全部戻ったわけではない。世界の音が増えたままの身体で、彼女は今日も、息の続かない深さまで平気で式へ潜る。
支えなければ、と思う。守らなければ、と。それは誓いというより、あの一年の続きだった。
左耳の石も、長いあいだ凪いでいた。
凪の中にも、日ごとの違いはある。寝不足の日の薄い熱。深い演算に潜った時の細いざらつき。社交で疲れた後の、わずかに速い脈。
そんな日々を重ねれば、それらは危機ではなく、彼女という人の呼吸に近いものになった。
だから俺も、恐怖を少しずつ別の形へ変えた。
先に椅子を引く。
人の多い廊下を避ける。
考え込みすぎた日には、蜜豆を渡す。
社交の場では、余計な棘が彼女へ届く前に笑って受け流す。
彼女が何も気にせず、自分のままでいられるように。
そのくらいのことは、もう呼吸のようにできた。
前年の初冬、凪いでいた石に、少し違う荒れが混じった。
魔核肥大症の兆し。
怖くなかったと言えば嘘になる。けれど、あの夜の絶望とは違った。あの時のエリシアは、まだ自分の器の限界を知らない子供だった。弟を救うために何が必要かだけを見て、自分がどれほど削れるかを知らなかった。
今の彼女は違う。
あれから、あの類の危険はなかった。だから今回も、同じやり方でいい。外側の危険を遠ざけ、治癒の段取りを整え、最後に必要なことだけを説明する。理が通れば、エリシアは受け入れる。
難しい病だ。けれど、治らない病ではない。
俺は、彼女の内側にいる。
それを疑う理由は、どこにもない。
*
距離には、作法がある。
近すぎれば、彼女の思考を乱す。遠すぎれば、倒れる彼女に手が届かない。その曖昧な線は、いつのまにか身についていた。
何もない日は、俺は俺の務めに戻る。彼女には彼女の歩く速度がある。それをいつも塞いでしまえば、守るのではなく邪魔になる。
今日、そばにいたのは理由があった。
朝から左耳が、薄く熱を持っていた。危険というほどではない。ただ、過度の演算をした日の熱に似ていた。
だから今日は、彼女の斜め後ろを歩いている。
廊下の石畳は平らだった。けれど、エリシアの意識はもう半分ほど演算へ持っていかれている。肩の動きが一拍遅れ、左足だけが世界からわずかに置いていかれる。
躓くほどではない。
普通の者なら、何も気づかず通り過ぎる程度の乱れだ。
けれど、隣を歩くうちに覚えた。
こういう日は、手が届く場所にいたほうがいい。
考えるより先に足が動いていた。半歩だけ踏み込み、腰へ手を添える。一点だけ。彼女の重心が戻る。すぐに手を引く。
何も起きなかった顔で。
「……ありがとうございます」
「踏み段があるわけじゃないよ」
「平らな床で転ぶのは、私の位置情報が更新されていないせいです」
「知っているよ」
即答すると、彼女が小さく瞬きをした。
知っている。彼女が演算で空間の認識をずらすことも、深く潜るほど左足が遅れることも、重心が右へ逃げることも。
何度も隣を歩き、何度も何も起きなかったことにして、少しずつ覚えた。
「今朝は、少し重そうだね」
声はいつもの調子にした。彼女が答えやすいように、ただ軽く置く。
「……北部三区の再検算をしていました」
「かなり念入りに?」
「なぜ分かったんですか」
「君は考えすぎると、歩幅が浅くなる」
エリシアが黙る。
その沈黙に、少しだけ笑いそうになった。困っているのだろう。自分の癖を言い当てられると、彼女はまず理屈を探す。けれど、理屈だけでは片づかない親しさもある。
時間を重ねるというのは、そういうことだった。
「今日は私がいるから、壁にはぶつからないでね」
「……私はそんなに壁へ衝突していますか」
「昨日は二回」
「記憶にありません」
「そうだろうと思っていたよ」
困ったように笑ってみせる。
彼女が覚えていないなら、それでいい。エリシアが考え続けたいなら、俺はその間、壁や段差の方を少し避けておけばいい。そういう役目は、嫌いではなかった。
左耳が、低く熱を持った。
分からなくていい。
もっと知りたいと思う日はある。けれど、限りなく知ろうとすれば、彼女の心に勝手に踏み込むことになる。
手が届く場所にいる。
邪魔をしない。
今の俺には、それで十分だった。




