夏に来た、春 〜十年前〜
公爵邸は、その日も静かだった。
妻が逝ってから、この邸はずっとこうだ。使用人たちは主を気遣って声を潜め、潜めた声が邸をさらに静かにし、静けさがまた声を潜めさせる。悲しみが、建物の形で固まったような場所に、ランドルフは毎日、書斎の灯りを一つだけ点けて座っていた。
息子が帰ってくる。
一ヶ月ぶりだ。手紙は数えるほどしか来なかったが、アルスタ伯爵からの計測報告の余白に、時々「元気です」と書き添えられていた。あの伯爵が報告の余白を使うのだから、よほどのことだ。
遠くで、馬車の音がした。
迎えに出ようと腰を浮かせて——手元の決裁が、あと一枚だけ残っていた。署名を終えてからでも間に合うだろう。ランドルフはペンを取り直した。
それが、玄関の騒動を見損ねた理由である。
——馬車から降り立った客は、二人だった。
一人は、ヴァレリウス。
もう一人は、紫銀の髪の、小さな女の子だった。
女の子は、玄関ホールに足を踏み入れるなり、ぴたりと止まった。アメジストの瞳が、まん丸に開いて、天井を、柱を、壁の装飾を、順番に映していく。
「——すごい」
そして、堰が切れた。
「この柱の彫刻、左右で葉っぱの数が違うのに、ぜんぶ足すと同じになってる! わざとですか? わざとですよね! あっちの魔力灯、台座の角度が計算されてる、光の影がぜんぶ壁の絵をよけて落ちるようになってて——ねえ、あれ作った人、天才では? あの階段の手すりの曲線も——」
早口の質問の奔流に、玄関の侍従たちが、あたふたと顔を見合わせた。誰も、この邸で「装飾のバランスが素晴らしい」と大声で騒いだ客を、見たことがなかったのだ。少なくとも、この数年は。
そこへ、若い執事がそつなく進み出た。
「お嬢様。まずは、旦那様にご挨拶を」
「そうだった」
女の子は、ぴたりと騒ぎをやめて、頷いた。
「公爵様は、どこですか」
「現在、書斎にいらっしゃいますので、応接間のほうへご案内——」
執事が言い終える前に、女の子は走り出していた。
「書斎、どっちですか!」
廊下の角で、振り向いて聞いた。若い侍従が、反射的に、手で方角を示してしまった。女の子は「ありがとう!」と言って、示された方角へ消えた。
程なく、足音も聞こえなくなった。
玄関ホールに、静けさが戻った。
ただしそれは、この数年邸を満たしていた静けさとは、違う種類の静けさだった。嵐が通り過ぎた後の、呆気にとられた、少し風通しのいい静けさだった。
その中で。
「……くく」
小さな音がした。
侍従たちが、一斉に、音の方を見た。
ヴァレリウスが、口元を押さえて、肩を震わせていた。
「く、くく……あはは」
押さえが、外れた。
「あははははは!」
八歳の男の子が、お腹を抱えて、声を上げて笑っていた。玄関ホールの真ん中で、涙目になって、息を切らして。
「だ、だめだ、執事の顔——案内より先に走るから——あはは!」
使用人としては、全力でお客様を追いかけるべき場面だった。
だが、誰も動けなかった。
若君の笑い声を、彼らは何年も聞いていなかった。奥様が伏せってから、ずっと。この玄関で、この邸で、誰かが声を上げて笑うことそのものが——何年ぶりか、思い出せなかった。
若い執事が、一番先に、目元を緩めた。
それを合図のように、侍従たちも、困ったように、でも堪えきれず、控えめに笑い出した。
「あの——若様、お客様は、お泊まりに?」
「うん。泊まるって」
「では、お部屋のご用意を! 寝具は——お食事は——厨房に伝えて——」
慌ただしさが、さざ波のように邸へ広がっていった。足早に行き交う靴音と衣擦れ。厨房から上がる声。リネン室の扉が忙しく開閉する音。
久しぶりの、常にない仕事だった。そして、誰の顔にも、苦痛の色はなかった。むしろ支度に回る足取りが、一人、また一人と、軽くなっていった。
邸が、目を覚ましつつあった。
*
その気配は、書斎にも薄く届いていた。
最後の署名を終えたとき、遠くから、笑い声が聞こえた気がした。子供の——声を上げて笑う声。
ランドルフはペンを持ったまま、少しの間、考えた。誰の声か、すぐには分からなかったのだ。
分からなかった自分に、一拍遅れて気づいた。
(——まさか)
確かめに立とうとしたところで、書斎の扉が叩かれた。
扉の前に控える、五十代の落ち着いた執事長が、来客を告げる。
「旦那様。アルスタ伯爵家の、エリシアお嬢様が、ご挨拶にお見えです」
(——息子より先に、客が来た)
思わず、口元が緩んだ。入りなさい、と応じる。
扉が開いて、紫銀の髪の女の子が入ってきた。
「公爵様にご挨拶に来ました。エリシアです」
はきはきとした、元気な声だった。礼はなかった。かわりに、まっすぐこちらへ歩いてくる。
ランドルフは、にこやかな笑顔を作って迎えた。息子が世話になった家の娘だ。丁重に、温かく迎えよう。疲れは、見せないように。悲しみは、いつも通り、笑顔の下に。
この一ヶ月——いや、この数年、そうやって全部の客を迎えてきた。造作もないことだった。
女の子は、その笑顔の前で、止まった。
じっと、見上げてきた。
アメジストの瞳が、まばたきもせず、こちらの顔を映している。値踏みではなかった。もっと素朴な、何かの音を聴くような目だった。
(……なんだろうな、この目は)
居心地の悪さとは、少し違った。ただ、この笑顔がこの子には効いていないらしい、ということだけが分かった。
やがて女の子は、何かを確かめ終えたように、小さく頷いた。
それから、おもむろに、ぽてぽてと椅子の横まで歩いてきて——
小さな手を、伸ばした。
公爵の頭に、である。
丁寧に、ゆっくり、撫で始めた。
「つらいね。よしよし」
ランドルフは、目を見開いた。
「無理しちゃだめだよ」
固まった。
書類が、指の間で、かすかに音を立てた。
つらい。
その言葉を、この数年、誰も自分に言わなかった。妻を亡くした公爵に、人々は「お力落としのないよう」と言った。「お察しします」と言った。誰もが型どおりに悼み、型どおりに慰め、その全部を、自分は型どおりの笑顔で受けた。受けられて、いた。
つらいね、と。
八つの子供に、まっすぐ、それだけを言われるまで。
視界が、にじんだ。
一粒だけ、落ちた。
止める間もなかった。三十三年生きて、人前で流した覚えのない涙が、たった一撫でで、落ちた。
(——いかん)
はっとして、慌てて、困ったように笑った。子供を、驚かせてしまった。現に女の子は、涙を見て、目をまん丸にしている。
ランドルフは、その小さな頭に手を伸ばして、撫で返した。
「……ありがとう」
声が、少しだけ掠れた。
女の子は、まだ丸い目でこちらを見ていたが——撫で返される間に、こちらの顔から何かが抜けたのが分かったらしい。ふにゃ、と満足そうに笑った。
さっきの、作った笑顔への反応とは、まるで違う顔だった。
(……そうか。この子は、聴こえるのか)
笑顔の、下の音が。
だから、効かなかったのだ。そして、だから——撫でたのだ。
「公爵様。お泊まりしてもいいですか」
「ああ」
即答していた。
「いくらでも、泊まりなさい」
*
その夜、ランドルフが居間へ下りていくと、異様な光景があった。
居間の絨毯の上に、邸中の置物が、ずらりと並べられていた。花瓶。彫像。燭台。異国の細工物。そのまわりに関連の書物まで積み上げられて、ちょっとした品評会の様相を呈している。
中央に、息子と、あの女の子がいた。
「この壺は東方の焼きだよ。釉薬の流れが——」
「流れは綺麗。でも置いてた場所が駄目。あの廊下は西日で、この釉薬は光に弱い。三十年で色が抜ける計算になる」
「え、そうなの? じゃあ北の廊下に——」
「北は湿度。こっちの棚が最適」
「なるほど……って、君、うちの廊下の日照をもう計算したの?」
「した」
「いつ?」
「歩きながら」
使用人たちが、遠巻きに、しかし明らかに楽しそうに、その品評会を見守っていた。執事長にいたっては、頼まれてもいないのに関連書物を書庫から追加で運んでいる。
ランドルフは、扉のところで、足を止めた。
息子が、生き生きと、しゃべっていた。
身振りをつけて、壺の由来を語り、言い負かされて悔しがり、反論を思いついて目を輝かせる。その顔のどこを探しても——先月まで、あの子の目の奥に沈殿していたものが、見当たらなかった。
失望の色が、消えていた。
人とはそういうものだ、と八歳で結論した子の、あの静かな諦めの色が——どこにも、なかった。
(…………)
こみ上げてくるものがあった。
ランドルフは、全力で、それを押しとどめた。ここで父親が泣いたら、品評会が止まる。それは、まずい。あの会は、何があっても止めてはいけない。
だから公爵は、深く一つ息を吸い、いつもの——いや、いつもより、ずっと軽い足取りで、絨毯の上の品評会へ歩き出した。
「ほう、盛り上がっているな。私も混ぜてもらおうか。ちなみにその壺は、私の祖父が競りで競り負けた相手から後日せしめた、いわくつきの——」
「公爵様、それより、この邸の柱の彫刻、わざとですよね? 葉っぱの数」
「気づいたか! そうだ、あれはな——」
夜が更けるまで、居間の灯りは点いていた。
笑い声が、時々、廊下まで転がった。使用人たちは、その声を聞くために、用もないのに居間の前を通った。
外は、夏の盛りだった。
けれど公爵邸は——久しぶりの、春を迎えていた。
*
後日談を、少しだけ。
エリシアはその後、三日泊まって、帰っていった。帰る日、ランドルフは半ば本気で、養女の可能性について検討を始めていたのだが、「テオが待ってるので」の一言で、あっさり振られた。
かわりに、行き来が始まった。
エリシアが公爵邸へ来る。ヴァレリウスが伯爵邸へ行く。月に一度が、半月に一度になり、やがて数え方に意味がなくなった。公爵邸の厨房は、いつからか、小さな客人の好物を常備するようになった。甘い豆の菓子を、彼女はことのほか気に入っていた。
護符は、今日も見えないまま、少年の首元にある。
刃と、毒と、害意から、彼を守るために。
けれどランドルフは、知っていた。
あの一ヶ月で息子が本当に手に入れた護符は、鎖のほうではない。
裏のない目が、この世にあると知ったこと。
作っていない笑顔の音を、聴いてくれる耳があると知ったこと。
それが、あの子の一番深いところを、これから先ずっと守るのだと——父親は、そう確信していた。
この春が、十年後にどんな花を咲かせるのかまでは、さすがの公爵も、まだ知らない。




