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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
夏に来た春 -出会い編

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世界に一つだけの護符 〜十年前〜

「あそぶ」の中身を、ヴァレリウスは一応、予想した。


人形遊びか、ままごとか。活発そうだから、鬼ごっこか。どれでも合わせられる。子供の遊びに付き合う演技は、茶会で慣れている。


「本をいっしょに読もう」


「……本、ですか」


意外だったが、むしろ好都合だった。流行りの絵本の一冊も読み聞かせれば、午前が潰れる。


連れて行かれたのは、書庫だった。


そして、侍女が二人がかりで、慎重に、慎重に、一冊の本を運んできた。


分厚い木の表紙を革が覆い、角を金属の飾りが固め、重々しい留め具までついた——子供ほどの重さがありそうな巨大な書物だった。低い机に、ゆっくりと下ろされる。表紙の文字を見て、ヴァレリウスは目を見開いた。


魔術書だった。それも、一般に流通する類のものではない。専門性の高い、明らかに希少な——大人の、それも学者が読む本だった。


「んーと、今日は……」


エリシアは慣れた様子で侍女に頁を指定し、開かせた。


見開きに、計算と、魔術陣と、詰まった文章が、ぎっしりと並んでいた。


ヴァレリウスは、絶句した。


読める気がしなかった。八歳にして家庭教師たちを驚かせてきた自分が、だ。単語は拾える。だが、行と行の間で何が起きているのか、まるで分からない。


エリシアが、こちらを見た。


分からないことが、分かったらしい。


彼女は、ちょっとだけ嬉しそうな顔をして——それから、ゆっくり、優しい声になった。


「あのね。ここはね」


弟に説明するときの声だ、と後で知った。


「この式は、光をここで三つに分けてるの。分けっぱなしだと喧嘩するから、この陣がなかよくさせてる。なかよくさせる場所が、ここと、ここ。それでね——」


指が、頁の上を滑る。


意味の分からなかった記号の羅列が、指の通ったあとから、順番に、意味を持ち始めた。


分からないところを聞くと、質問した分の三倍が返ってきた。しかもその三倍が、全部つながっている。この子の頭の中では、この巨大な本が一枚の絵として見えているのだと、途中で分かった。


一枚めくる頃には、ヴァレリウスは机に身を乗り出していた。


二枚めくる頃には、質問が、演技ではなくなっていた。


三枚めくったところで、干渉光の説明を受けて——数年前に家庭教師が「そういうものだ」としか言えなかった疑問が、一瞬で解けた。


「——すごいね!」


声が、出た。


作った声ではなかった。腹の底から、勝手に飛び出した声だった。八歳の男の子の、ただの、本物の声だった。


エリシアは、目を丸くして、それから、ぱっと花が咲くように笑った。


「でしょう! この本、すごいの!」


(違う、すごいのは——)


言いかけて、やめた。かわりに、胸の奥で、何かが数年ぶりに浮き上がるのを感じていた。


心が、浮き立つ。


そういう言葉があることは、知っていた。自分に起きたのは、いつ以来か思い出せなかった。


同い年の——しかも女の子を、こんなふうに尊敬することになるなんて、考えたこともなかった。


    *


それからの一ヶ月を、ヴァレリウスは後年まで、鮮明に覚えていることになる。


朝、計測。それが終わると、書庫。巨大な本を一緒に読み、分からないと教えられ、たまに自分の知っている政治や歴史の話をすると、エリシアは「へえー!」と本気で感心した。感心されると、なぜか、蔵書の記述を三日分ぐらい余計に覚えたくなった。


午後は、庭で簡単な魔術の練習をした。エリシアの組む術式は、教本と違うのに教本より綺麗に光った。「なんで」と聞くと「そのほうが合理的だから」と言われ、どこがどう合理的かを、日暮れまで説明された。


たまに、三歳のテオドールが混ざった。


かくれんぼをすると、テオドールはいつも同じカーテンの裏に隠れて、足が完全に見えていた。エリシアが真剣な顔で「どこかなー」と探すので、ヴァレリウスも真剣な顔で探した。二人で作った光の術式を見せると、テオドールは目を真ん丸にして、きゃっきゃとはしゃぎ、光を掴もうとして転がった。


(……可愛いな)


素直に、そう思った。そう思える自分に、一番驚いた。


エリシアは、弟の世話を焼いた。焼き方が、少し変だった。「テオ、水分。はい」「テオ、そのはっぱは食べられない。栄養構成的に」——そして、その世話焼きは、なぜか当然のようにヴァレリウスにも適用された。


「ヴァレリウス、水分。はい」


「……ありがとう」


「顔が疲れてる。おやつにしよう」


弟の扱いと、公爵子息の扱いが、完全に同じだった。


無礼だと思うべきなのだろう。誰かが見たら、卒倒するかもしれない。


けれど、この家に来て学んだことが一つある。この子の世界には、家格の棚がない。あるのは「面白いか」「おなかが空いてるか」「元気か」の棚だけだ。その棚に、自分は入っている。


それは——悪くない場所だった。


夕食の席で、伯爵は時々、研究の話で突然立ち上がった。夫人が「あなた。座って、食べて」と静かに言うと、素直に座った。この家の力関係を、ヴァレリウスは三日で正確に把握していた。


一度だけ、夫人と二人になったことがある。


セレーナ夫人は、お茶を注ぎながら、ふと言った。


「気が休まらないんじゃない? うちは、騒がしくて」


「いえ」


即答してから、自分の即答に、自分で少し驚いた。


夫人は、濃い紫の目で、こちらを見た。全部知っている目だな、と思った。この人はたぶん、初日から全部見えている。こちらの笑顔の作りも、それが少しずつ剥がれてきていることも。


「そう」


それだけ言って、夫人は笑った。何も、言わなかった。


言わないでいてくれることが、この家の優しさの形なのだと、もう分かるようになっていた。


    *


一ヶ月が、経った。


「できた」


夕方の研究室で、伯爵が振り返った。目の下に隈があり、銀の髪は爆発していて、そして顔は、少年のように輝いていた。


机の上に、細い鎖が一本、置かれていた。


銀の糸を編んだような、頼りないほど華奢な鎖だった。


「首にかけて」


かけた。


鎖は、鎖骨の上で一度だけ淡く光り——すう、と、消えた。


「……え」


手で触れる。ある。確かに、ある。だが、見えない。鏡を見ても、映らない。


「君の波長に同調して、君の一部として振る舞う。だから、見えない。探れない。君自身を探るのと同じことになるからね。それでいて——刃と、毒と、害意の魔力は、君に届く前に、それが君の一部ではないと気づく」


伯爵は、疲れ切った顔で、にっと笑った。


「世界に一つだけの護符だ。よく似合う」


見えないものを「似合う」と言われたのは初めてだった。


でも、不思議と、その通りだと思った。


    *


完成したということは、帰るということだった。


ヴァレリウスは、その晩、客室の寝台で、天井を見ていた。


帰りたくなかった。


公爵邸が嫌なわけではない。父は良い父だ。使用人たちにも何の不満もない。今は来客も閉ざされて、静かに過ごせるはずだ。


ただ——この家が。この住人たちが。あまりにも、鮮烈だっただけだ。


裏のない目。届かない嫌味。砂に吸われた世辞。書庫の巨大な本。「すごいね!」と叫んだ自分の声。水分、はい。カーテンからはみ出た小さな足。


この一ヶ月で見たものを、あの静かな邸に持って帰って、それから——次にここへ来られるのは、いつだろう。


アルスタ家は、社交にほとんど出ない。現に自分は、八年生きて、先月までこの家の誰にも会ったことがなかった。次の機会は、一年後か。三年後か。その頃には、エリシアは自分を覚えているだろうか。


(…………)


胸の中が、暗くなった。暗くなる、ということは、明るかったのだ。この一ヶ月が。


翌朝、玄関で、一家が見送りに並んだ。


「ありがとうございました」


ヴァレリウスは、深く礼をした。型どおりの礼だったが、中身は、初めて型と同じだけあった。


エリシアは、こちらの内心の暗さになど、まるで気づいていなかった。


「じゃあ、こんどは私が遊びにいくね」


にこにこと、軽く、そう言った。


まるで、明日にでも来るような言い方だった。


ヴァレリウスは、一瞬、言葉に詰まった。


社交辞令だ、と翻訳しかけた癖が、動いた。「また今度」は、貴族の言葉で「さようなら」の意味だ。ここ数年で、骨まで染みた翻訳だった。


でも——この子に限って、それはない。


この子の言葉は、全部、見たままの意味だ。それを知るための一ヶ月だった。


だったら。


「今からでもいいよ」


気づけば、言っていた。大きく、笑顔を作って。半分冗談で、半分——いや、七割がた、本気だった。


「泊まる?」


「泊まる!」


即答だった。


エリシアはくるりと身を翻し、「荷造りしてくる!」と、廊下の奥へ走っていった。使用人たちが、わっと慌ただしく動き始めた。伯爵は「あ、じゃあ計測記録も持たせよう、公爵邸でも測れるし」と研究室へ消え、夫人だけが、その場に残って、静かに笑っていた。


「……にぎやかで、ごめんなさいね」


「いえ」


ヴァレリウスは、玄関ホールの騒ぎを眺めながら、答えた。


「僕、静かなのは、もう十分なので」


自分の口から出た言葉に、自分で少し驚いて——それから、夫人がとても優しく笑ったので、ヴァレリウスも、つられて笑った。


作っていない笑顔は、ずいぶん、久しぶりだった。

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