世界に一つだけの護符 〜十年前〜
「あそぶ」の中身を、ヴァレリウスは一応、予想した。
人形遊びか、ままごとか。活発そうだから、鬼ごっこか。どれでも合わせられる。子供の遊びに付き合う演技は、茶会で慣れている。
「本をいっしょに読もう」
「……本、ですか」
意外だったが、むしろ好都合だった。流行りの絵本の一冊も読み聞かせれば、午前が潰れる。
連れて行かれたのは、書庫だった。
そして、侍女が二人がかりで、慎重に、慎重に、一冊の本を運んできた。
分厚い木の表紙を革が覆い、角を金属の飾りが固め、重々しい留め具までついた——子供ほどの重さがありそうな巨大な書物だった。低い机に、ゆっくりと下ろされる。表紙の文字を見て、ヴァレリウスは目を見開いた。
魔術書だった。それも、一般に流通する類のものではない。専門性の高い、明らかに希少な——大人の、それも学者が読む本だった。
「んーと、今日は……」
エリシアは慣れた様子で侍女に頁を指定し、開かせた。
見開きに、計算と、魔術陣と、詰まった文章が、ぎっしりと並んでいた。
ヴァレリウスは、絶句した。
読める気がしなかった。八歳にして家庭教師たちを驚かせてきた自分が、だ。単語は拾える。だが、行と行の間で何が起きているのか、まるで分からない。
エリシアが、こちらを見た。
分からないことが、分かったらしい。
彼女は、ちょっとだけ嬉しそうな顔をして——それから、ゆっくり、優しい声になった。
「あのね。ここはね」
弟に説明するときの声だ、と後で知った。
「この式は、光をここで三つに分けてるの。分けっぱなしだと喧嘩するから、この陣がなかよくさせてる。なかよくさせる場所が、ここと、ここ。それでね——」
指が、頁の上を滑る。
意味の分からなかった記号の羅列が、指の通ったあとから、順番に、意味を持ち始めた。
分からないところを聞くと、質問した分の三倍が返ってきた。しかもその三倍が、全部つながっている。この子の頭の中では、この巨大な本が一枚の絵として見えているのだと、途中で分かった。
一枚めくる頃には、ヴァレリウスは机に身を乗り出していた。
二枚めくる頃には、質問が、演技ではなくなっていた。
三枚めくったところで、干渉光の説明を受けて——数年前に家庭教師が「そういうものだ」としか言えなかった疑問が、一瞬で解けた。
「——すごいね!」
声が、出た。
作った声ではなかった。腹の底から、勝手に飛び出した声だった。八歳の男の子の、ただの、本物の声だった。
エリシアは、目を丸くして、それから、ぱっと花が咲くように笑った。
「でしょう! この本、すごいの!」
(違う、すごいのは——)
言いかけて、やめた。かわりに、胸の奥で、何かが数年ぶりに浮き上がるのを感じていた。
心が、浮き立つ。
そういう言葉があることは、知っていた。自分に起きたのは、いつ以来か思い出せなかった。
同い年の——しかも女の子を、こんなふうに尊敬することになるなんて、考えたこともなかった。
*
それからの一ヶ月を、ヴァレリウスは後年まで、鮮明に覚えていることになる。
朝、計測。それが終わると、書庫。巨大な本を一緒に読み、分からないと教えられ、たまに自分の知っている政治や歴史の話をすると、エリシアは「へえー!」と本気で感心した。感心されると、なぜか、蔵書の記述を三日分ぐらい余計に覚えたくなった。
午後は、庭で簡単な魔術の練習をした。エリシアの組む術式は、教本と違うのに教本より綺麗に光った。「なんで」と聞くと「そのほうが合理的だから」と言われ、どこがどう合理的かを、日暮れまで説明された。
たまに、三歳のテオドールが混ざった。
かくれんぼをすると、テオドールはいつも同じカーテンの裏に隠れて、足が完全に見えていた。エリシアが真剣な顔で「どこかなー」と探すので、ヴァレリウスも真剣な顔で探した。二人で作った光の術式を見せると、テオドールは目を真ん丸にして、きゃっきゃとはしゃぎ、光を掴もうとして転がった。
(……可愛いな)
素直に、そう思った。そう思える自分に、一番驚いた。
エリシアは、弟の世話を焼いた。焼き方が、少し変だった。「テオ、水分。はい」「テオ、そのはっぱは食べられない。栄養構成的に」——そして、その世話焼きは、なぜか当然のようにヴァレリウスにも適用された。
「ヴァレリウス、水分。はい」
「……ありがとう」
「顔が疲れてる。おやつにしよう」
弟の扱いと、公爵子息の扱いが、完全に同じだった。
無礼だと思うべきなのだろう。誰かが見たら、卒倒するかもしれない。
けれど、この家に来て学んだことが一つある。この子の世界には、家格の棚がない。あるのは「面白いか」「おなかが空いてるか」「元気か」の棚だけだ。その棚に、自分は入っている。
それは——悪くない場所だった。
夕食の席で、伯爵は時々、研究の話で突然立ち上がった。夫人が「あなた。座って、食べて」と静かに言うと、素直に座った。この家の力関係を、ヴァレリウスは三日で正確に把握していた。
一度だけ、夫人と二人になったことがある。
セレーナ夫人は、お茶を注ぎながら、ふと言った。
「気が休まらないんじゃない? うちは、騒がしくて」
「いえ」
即答してから、自分の即答に、自分で少し驚いた。
夫人は、濃い紫の目で、こちらを見た。全部知っている目だな、と思った。この人はたぶん、初日から全部見えている。こちらの笑顔の作りも、それが少しずつ剥がれてきていることも。
「そう」
それだけ言って、夫人は笑った。何も、言わなかった。
言わないでいてくれることが、この家の優しさの形なのだと、もう分かるようになっていた。
*
一ヶ月が、経った。
「できた」
夕方の研究室で、伯爵が振り返った。目の下に隈があり、銀の髪は爆発していて、そして顔は、少年のように輝いていた。
机の上に、細い鎖が一本、置かれていた。
銀の糸を編んだような、頼りないほど華奢な鎖だった。
「首にかけて」
かけた。
鎖は、鎖骨の上で一度だけ淡く光り——すう、と、消えた。
「……え」
手で触れる。ある。確かに、ある。だが、見えない。鏡を見ても、映らない。
「君の波長に同調して、君の一部として振る舞う。だから、見えない。探れない。君自身を探るのと同じことになるからね。それでいて——刃と、毒と、害意の魔力は、君に届く前に、それが君の一部ではないと気づく」
伯爵は、疲れ切った顔で、にっと笑った。
「世界に一つだけの護符だ。よく似合う」
見えないものを「似合う」と言われたのは初めてだった。
でも、不思議と、その通りだと思った。
*
完成したということは、帰るということだった。
ヴァレリウスは、その晩、客室の寝台で、天井を見ていた。
帰りたくなかった。
公爵邸が嫌なわけではない。父は良い父だ。使用人たちにも何の不満もない。今は来客も閉ざされて、静かに過ごせるはずだ。
ただ——この家が。この住人たちが。あまりにも、鮮烈だっただけだ。
裏のない目。届かない嫌味。砂に吸われた世辞。書庫の巨大な本。「すごいね!」と叫んだ自分の声。水分、はい。カーテンからはみ出た小さな足。
この一ヶ月で見たものを、あの静かな邸に持って帰って、それから——次にここへ来られるのは、いつだろう。
アルスタ家は、社交にほとんど出ない。現に自分は、八年生きて、先月までこの家の誰にも会ったことがなかった。次の機会は、一年後か。三年後か。その頃には、エリシアは自分を覚えているだろうか。
(…………)
胸の中が、暗くなった。暗くなる、ということは、明るかったのだ。この一ヶ月が。
翌朝、玄関で、一家が見送りに並んだ。
「ありがとうございました」
ヴァレリウスは、深く礼をした。型どおりの礼だったが、中身は、初めて型と同じだけあった。
エリシアは、こちらの内心の暗さになど、まるで気づいていなかった。
「じゃあ、こんどは私が遊びにいくね」
にこにこと、軽く、そう言った。
まるで、明日にでも来るような言い方だった。
ヴァレリウスは、一瞬、言葉に詰まった。
社交辞令だ、と翻訳しかけた癖が、動いた。「また今度」は、貴族の言葉で「さようなら」の意味だ。ここ数年で、骨まで染みた翻訳だった。
でも——この子に限って、それはない。
この子の言葉は、全部、見たままの意味だ。それを知るための一ヶ月だった。
だったら。
「今からでもいいよ」
気づけば、言っていた。大きく、笑顔を作って。半分冗談で、半分——いや、七割がた、本気だった。
「泊まる?」
「泊まる!」
即答だった。
エリシアはくるりと身を翻し、「荷造りしてくる!」と、廊下の奥へ走っていった。使用人たちが、わっと慌ただしく動き始めた。伯爵は「あ、じゃあ計測記録も持たせよう、公爵邸でも測れるし」と研究室へ消え、夫人だけが、その場に残って、静かに笑っていた。
「……にぎやかで、ごめんなさいね」
「いえ」
ヴァレリウスは、玄関ホールの騒ぎを眺めながら、答えた。
「僕、静かなのは、もう十分なので」
自分の口から出た言葉に、自分で少し驚いて——それから、夫人がとても優しく笑ったので、ヴァレリウスも、つられて笑った。
作っていない笑顔は、ずいぶん、久しぶりだった。




