裏のない目 〜十年前〜
アルスタ伯爵邸は、ヴァレリウスの予想より、ずっと普通の邸だった。
公爵邸より二回り小さく、庭は整っているというより茂っていて、玄関で出迎えた使用人の数は、拍子抜けするほど少なかった。
「ようこそ、ヴァレリウス様」
出迎えたのは、黒髪の夫人だった。濃い紫の瞳が、静かにこちらを見る。切れ長の目もとの、気配の読めない人だった。アルスタ伯爵夫人セレーナ。腕の中に、黒髪の幼児が一人、きゃっきゃと機嫌よく暴れている。
「ゆっくりしていってね。うちは——静かにしてあげられない家だけれど」
その言葉の意味を、ヴァレリウスはまだ知らなかった。
「お招きにあずかり、光栄に存じます。アルスタ伯爵夫人にはご機嫌うるわしく——」
「ご飯は好き嫌い、ある?」
「……いえ。いただけるものは、何でも」
「そう。ならよかった」
挨拶の型が、二手目で崩された。夫人は微笑んで、それ以上の社交辞令を、きれいに全部省略した。
(……調子が、狂う)
ヴァレリウスは、笑顔を保ったまま、内心で身構え直した。
大丈夫だ。型が違うだけで、貴族は貴族。裏は、必ずある。探せばいい。いつも通りに。
*
裏は、見つからなかった。
三日、探して、見つからなかった。
まず、当主が話にならなかった。
アルスタ伯爵クレメンスは、朝、研究室に入ると、夕方まで出てこなかった。ヴァレリウスの「計測」は一日に二度。研究室に呼ばれ、腕を出し、銀の糸のようなものを巻かれ、伯爵が何かを呟きながら数字を書き留める。その間、会話らしい会話はない。
だからヴァレリウスは、計測の合間に、練習してきた通りにやってみた。
「伯爵のご研究は、国の宝と父も申しておりました。このような貴重なお時間を、僕のために割いていただけるとは」
砥がれた、八歳のものではない世辞だった。大人なら誰でも、まんざらでもない顔をする類の。
「うん」
伯爵は、顔も上げなかった。
「腕、もう少し上げて」
「……はい」
「昨日より波長の芯が細いな。よく眠れてない? まあいいや、その揺れごと編むから」
それだけだった。
世辞は、砂に吸われた水のように消えた。気を悪くした様子もない。喜んだ様子もない。ただ、届いていなかった。この男の耳は、護符に関係のある音しか拾わない。
次の計測で、ヴァレリウスは趣向を変えた。遠回しの、貴族的な牽制を試した。「王都の邸とは思えないほど、静かなお住まいですね。社交の賑わいから離れて、お退屈ではありませんか」——含みを三重に折り込んだ、八歳が言ってはいけない類の一言だった。
「退屈?」
伯爵は、初めて顔を上げた。心底、不思議そうな顔だった。
「するわけないでしょう。君の護符、面白いんだよ。同調層の遊びがね、昨日やっと三日分の揺れを吸えるようになって」
そこから小一時間、術式の話をされた。
嫌味は、届きすらしなかった。皮肉も、牽制も、探りも——この男には、何一つ、通用しなかった。裏を探ろうにも、表しかない。表も、九割が術式でできている。
客としてすら、扱われていない気がする。強いて言えば、測られる側。あるいは、面白い題材の付属品。
(……なんなんだ、この家は)
四日目の朝、ヴァレリウスは、笑顔を作るのを、少しだけ忘れた。
忘れても、誰も気にしなかった。
それが——妙に、楽だった。
*
五日目に、伯爵に呼ばれた。計測の時間ではなかった。
「ヴァレリウス君。頼みがある」
「はい。何なりと」
「娘のお守りをしてくれ」
「…………は?」
公爵子息に、子守を命じた人間は、この国の歴史上おそらくこの男だけである。
「エリシアがね、朝から研究室に来るんだ。質問を持って。一つ答えると十増える。あれを止めないと、君の護符が今日進まない」
「……あの、僕は」
「君のものを作るんだから、君が止めるのが当然でしょう」
理屈が、豪快に間違っている気がした。だが伯爵は「じゃ、頼んだ」と言って研究室の扉を閉めた。閉める寸前、中から「父様、昨日の続きです。第三式の左辺なんですけど」という声がして、扉がまた開き、銀髪の男が娘を廊下へ、そっと、しかし断固として押し出した。
扉の前に、女の子が残された。
紫がかった銀の髪。大きな、アメジストの瞳。年は、自分と同じくらい。
これが、エリシア・フォン・アルスタとの、最初の出会いだった。
彼女はヴァレリウスを見つめて、瞬きを二つした。
「だれ?」
「……ヴァレリウス・フォン・ラインハイトと申します。お父上に、護符の製作をお願いしている者です。以後、お見知りおきを」
型どおりの、完璧な挨拶と、完璧な微笑をつけた。
エリシアは、じっとその笑顔を見た。
「その笑いかた、疲れない?」
ヴァレリウスの完璧な微笑が、生まれて初めて、音を立てて固まった。
「……なんの、ことでしょう」
「んーと」彼女は少し首を傾げて、自分の胸のあたりを指でくるくる回した。「顔は笑ってるのに、こっちの音が、ぜんぜん笑ってない。ばらばらで、気持ちわるくない? 私はああいうの疲れると思う」
悪意は、なかった。
観察の報告だった。空が青い、と同じ調子で、お前の笑顔は嘘だ、と言われた。
頭に、かっと血が上った。
「——失礼ですが」
声が、素で出た。八歳の、剥き出しの声だった。
「初対面の相手に言うことでは、ないと思います」
「そう?」エリシアはきょとんとして、それから、ぱっと笑った。「今の声のほうが、音がそろってる。そっちのほうがいいよ」
そして、こちらの怒りを歯牙にもかけず、ぐい、と袖を引いた。
「ねえ、それより。父様のところに行けないなら、暇になった。あそぼう」
(————)
怒りの持って行き場が、消えた。
裏を探した。癖で、全力で探した。公爵子息に取り入る意図。父親に命じられた演技。何かの——
ない。
何もない。この目は、空と同じだ。全部が表で、表が全部だ。
(……なんなんだ、この家は!)
ヴァレリウスは、袖を引かれるまま、歩き出した。




