笑顔の鎧 〜十年前〜
白い石造りの本邸に、翼のように延びる回廊。手入れの行き届いた庭園が、それらを広く取り巻いている。門から玄関まで、馬車道が長い弧を描く——王都の誰もが知る、ラインハイト公爵邸である。
季節は、春の盛りだった。庭のどこを切り取っても、花の色があった。
けれどその年、邸の中まで春が届くことは、なかった。
葬儀から十日が過ぎても、弔問客は絶えなかった。
ラインハイト公爵ランドルフは、その一人一人に、完璧な礼で応えた。
「このたびは、心中お察しいたします」
「恐れ入ります」
「奥方様は、それはもうお美しい方で」
「恐れ入ります」
言葉は正しかった。作法も正しかった。ただ、悔やみの言葉を口にするその目が、ちらちらと動くのだ。喪服の公爵の顔色を測り、邸の調度を値踏みし、そして——応接間の隅で静かに座っている、八歳の跡取り息子へ。
一人息子。母を亡くしたばかりの、公爵家のたった一人の跡継ぎ。
その値打ちを、彼らは悔やみの言葉と同じ口で、計算していた。
ランドルフは、笑顔のまま、それを全部受け止めた。
妻は、体の弱い人だった。
ヴァレリウスが五つになる頃には、社交の場に立てなくなった。寝台で過ごす日が増え、それでも息子が部屋に来ると、必ず起き上がって髪を撫でた。声の細い、けれど芯のところで決して折れない人だった。ランドルフは、彼女を心から愛していた。
妻が表に出なくなった頃から、群がる者が増えた。
公爵夫人の席は、実質的に空いている——そう見なした家々が、娘を、妹を、姪を、あの手この手で送り込んでくる。夜会で、狩りで、署名一つの面会で。悔やみと売り込みを同じ息で言える者たちが、こんなにもいるのかと、ランドルフは学んだ。
笑顔で受け、笑顔で流し、笑顔で断る。
公爵とは、そういう仕事だ。できると思っていたし、実際できていた。
一番堪えたのは、自分のことではなかった。
ヴァレリウスの周りにも、同じ手が伸びていることだった。
子供の茶会で、性別を問わず「仲良くなりたい」と近づいてくる子供たち。その背後で扇の陰から成果を確かめる親たち。子供の友情にすら、家格と利得の糸がついてくる。
ヴァレリウスは、聡い子だった。
聡いから——気づいてしまった。
差し出される笑顔の裏を。「友達になろう」の後ろにある大人の顔を。無邪気に信じて、裏を知って、静かに傷ついて。それを何度か繰り返したあと、あの子は、傷つくことをやめた。
正確には——先に裏を探すことを、覚えた。
八歳になった頃には、完成していた。誰にでも礼儀正しく、誰にでも微笑み、誰の言葉も鵜呑みにせず、本音は一枚も見せない。大人たちは「なんとご立派な若君か」と褒めそやした。
立派な貴族が、そこにいた。
八歳の子供は、どこにもいなかった。
そして、妻が逝った。
悲しむ時間は、与えられなかった。
喪が明けてもいないうちに、後妻の打診が来た。一通ではない。仲介者を立て、遠回しに、あるいは驚くほど直截に。「公爵家には女主人が必要でございましょう」「若君にも、母君が」——妻の墓の土も乾かぬうちに。
ランドルフは、それも笑顔で受けた。受けて、流して、笑顔の裏で覚えておいた。
限界が来たのは、その次だった。
ヴァレリウスの菓子に、毒が入った。
未遂だった。銀の検毒具が仕事をし、口に入る前に露見した。仕込んだ筋も、三日で割れた。跡取りさえいなければ——そういう算術で動いた家が、あったのだ。
その家がその後どうなったかを、ここに記す必要はない。ラインハイト公爵を敵に回すとどうなるか、社交界は久々に思い出した。それだけ言えば足りる。
後始末は、完璧だった。
すべての後始末を終えた夜、ランドルフは息子の部屋へ行った。八歳の子供が、自分の命を狙われたのだ。怯えているだろう。眠れずにいるだろう。父として、傍にいてやらねば——
ヴァレリウスは、起きていた。寝台の上に姿勢よく座って、父を見て、綺麗に微笑んだ。
「父上。ご心配には及びません」
落ち着いた声だった。
「人とは、そういうものでしょう」
ランドルフは、その夜、初めて本当に恐ろしくなった。
毒よりも。ハイエナどもよりも。
平気そうな顔をしている、この子供が。
母が死んでも泣かず、命を狙われても揺れず、「人とはそういうもの」と八歳で結論した、この子が。
(——違うだろう)
人は、そういうものでは、ない。
そう言ってやりたかった。だが、言えなかった。この数年、あの子の目の前で「そういうもの」ばかりが折り重なってきたのは、事実だからだ。笑顔の裏に値札を貼った人間ばかりが、あの子の世界の標本箱に並んでいる。
反証が、ない。
言葉でいくら説いても、標本が全部そちらを向いているなら、子供は標本を信じる。
(……見せてやらねばならん)
裏のない人間が、この世にいることを。
自分の常識が、まるで通用しない相手がいることを。
世界は、あの子が結論したより、ずっと広くて、ずっと変で、まだ捨てたものではないことを。
問題は——そんな人間に、心当たりがあるかどうかだった。
ランドルフは、書斎で夜を明かして、考えた。貴族の名を百ほど並べて、百ほど消した。全員、裏がある。自分を含めてだ。
百一人目で、手が止まった。
(……いや。いるではないか)
会ったのは、数えるほどだ。社交にほとんど出てこない家だから。だが、忘れようもない。
数年前、王城の魔道具の評定の席で、居並ぶ大臣たちを前に「この設計で量産すれば、三日と保たず事故が出ます。責任者の署名欄はどこですか」と言い放って、場を凍らせた男。凍った場で一人だけ、心底不思議そうに「え、なぜ皆さん黙るんです?」という顔をしていた男。
アルスタ伯爵クレメンス。
魔道具研究における、この国随一の権威。そして、公爵が知る限り——この国でただ一人、公爵の前で公爵に興味を示さなかった男。
ランドルフは、朝一番で書簡をしたためた。
依頼の名目は、すぐに決まった。
護符だ。
息子の命が狙われた。防御の魔道具を、というのは、口実として完璧に筋が通る。実際、必要でもある。
書簡と同じ朝、影も放った。息子を預けるかもしれない家だ。念には念を入れる。
戻ってきた報告は、拍子抜けするほど薄かった。危うい負債、なし。よからぬ繋がり、なし。醜聞、なし。特記事項はただ一つ——当主は研究に入ると食事を忘れる。公爵家の影が本気で洗って、それしか出ない家だった。
(……本物か)
数日後、返事の代わりに本人が来た。アルスタ伯爵家の本邸は、同じ王都の中にある。返事をしたためるより、直接聞きに来るほうが早かった——らしい。
「護符ですか」
応接間に通されたアルスタ伯爵は、出された茶を一口飲んで、あっさり言った。
「市販のもので十分ですよ。神殿街の三番通りの工房のが、値段の割によくできています。あそこのを二枚重ねれば、大抵のものは防げます」
ランドルフは、久しぶりに、返答に一拍詰まった。
公爵家の依頼である。相場の十倍積むと言っている。それを、市販品を勧めて断ろうとしている。面倒だからだ。顔にそう書いてある。
銀の髪に、銀の目。光の加減でどちらも淡い菫を宿す。四十のはずだが、どう見ても二十代の青年にしか見えない。その若い顔が、実に正直に「早く帰って研究の続きがしたい」と言っていた。
おべっかがない。忖度がない。公爵という肩書きが、この男の目方では、茶菓子ほどの重さもない。
(……ああ)
ランドルフは、確信した。
(この男だ)
この男を動かすのは、金ではない。権力でもない。となれば、残る手は一つしかない。
「市販品で防げるものは、要らぬのです」
ランドルフは、身を乗り出した。
「物理の刃を防ぎ、あらゆる毒を防ぎ、魔力による害意を防ぐ。それでいて——子供が身につけて、身につけていると誰にも分からない。触れても、視ても、魔力で探っても、存在を悟らせない護符。それを、お願いしたい」
アルスタ伯爵は、瞬きをした。
「……無茶苦茶を言いますね」
「ええ」
「三つの防御系統は、干渉します。物理と毒はまだしも、魔力防御を重ねると術式が肥大する。肥大すれば隠せない。隠すために術式を圧縮すれば、防御が薄くなる。全部を立てるのは——」
言いながら、伯爵の視線が、宙に浮いた。
指が、膝の上で、何かを組み始める。見えない術式を、空で編んでいる指の動きだった。
「……圧縮ではなく、同調なら」
声が、変わっていた。
「本人の波長に完全同調させれば、術式は"その子の一部"として振る舞う。一部なら、探知には掛からない。掛からないなら、隠す必要そのものがない。防御の三系統は同調層の外側に並列で……いや、待てよ、それだと成長で波長がずれる。ずれる分を先に読んで、可変の遊びを——」
もう、公爵を見ていなかった。
さっきまで茶菓子ほどの重さもなかった依頼が、今、この男の世界の中心に据わったのが分かった。銀の目が、子供のように輝いていた。
「——面白い」
伯爵は、顔を上げた。
「作りましょう。そんなもの、世界のどこにもありませんから」
「感謝します」
「ただし」
伯爵は、人差し指を立てた。
「ヴァレリウス君を、完成までうちへよこしてください」
「……ほう?」
「本人の波長に同調させると言ったでしょう。波長は、日ごと揺れます。揺れ幅ごと編み込むには、毎日測る必要がある。完成まで、うちに泊まり込みで」
ランドルフは、少し考えるふりをした。
考えるまでもなかった。願ってもない話だった。護符はどうせ口実で——いや、護符も本気で欲しいが——本命は最初から、こちらだったのだから。
「よろしくお願いします」
にこやかに、即答した。
*
その夜、息子に伝えた。
「アルスタ伯爵邸に、しばらく泊まり込んでもらう。お前の護符を作ってもらうためだ」
ヴァレリウスは、綺麗に微笑んだ。
「かしこまりました、父上。……ですが、護符でしたら、王都の工房でも」
「あそこのでなくてはならん」
「知らないお宅にご厄介になるのは、先方のご負担かと」
「気にせんでいい家だ」
「僕でしたら、邸で大人しくしております。ご心配には」
静かに、にこやかに、三重に嫌がっていた。知らない家。知らない大人。知らない子供。それらが全部「裏を探る仕事」に見えているのが、手に取るように分かった。
ランドルフは、息子の目を見て、言った。
「ヴァレリウス。あの家は、大丈夫だ」
我ながら、書類では示しようのない太鼓判だった。
けれど、それ以上の言葉を持っていなかった。行けば分かる、としか言いようのないものが、あの家にはあった。
ヴァレリウスは、しばらく父を見ていた。それから、渋々と、一礼した。
「……かしこまりました」
荷物を積んだ馬車が門を出ていくのを、ランドルフは窓から見送った。
初夏の陽が、まだ喪の色の抜けない庭に、白々と落ちていた。
静かな邸だった。妻が逝ってから、ずっと静かだった。使用人たちは声を潜め、廊下は磨かれたまま誰も走らず、時間だけが正確に流れていく。
(……頼む)
誰に祈っているのか、自分でも分からないまま、ランドルフは目を閉じた。
(あの子に、何かひとつでいい。裏のないものを、見せてやってくれ)




