私は、変数じゃなかった。初めから
翌日。
レリクトゥム・アステリア——始まりと終わりの庭に、エリシアはいた。
崩れた回廊を抜けた瞬間、足が、止まった。
一面の、花だった。
かつてヴォイドが口を開けていた、あの一点。その周りに、アステリアの花——三弦花が、途方もない群生になって咲き広がっていた。石畳の隙間から、崩れた柱の根元から、蔓が地脈をなぞって這い、その先々で大輪をひらいている。
色は——アメジスト。
三色の完全に交わる地にしか咲かない、最も神聖な色。祭壇画などの人工物でしか見たことのない色の花が、季節も何も構わずに、廃墟を埋めていた。
(——調べたい)
思うより先に、足が動いていた。
駆け出していた。演算が、勝手に全力で回り始める。花弁の光の透過率。蔓の分岐則。地脈との対応。この目で、近くで、確かめたい——
ふわり、と。
腰に、腕が回った。
「っ」
世界が、掬い上げられた。
気づけば、エリシアはヴァレリウスの腕の中にいた。横抱きに、軽々と。駆け出した勢いだけが行き場を失って、靴の先が宙で所在なく揺れた。
「穴はまだ、塞がっていないよ」
耳のすぐ上で、声がした。
「花に埋もれて、縁が見えなくなっている。危ないから——見るなら、ここから」
「……あ」
言われて、演算が追いついた。花の群生の中心には、まだ、あの縦穴が口を開けているのだ。理が完成しても、六百年の傷跡そのものは、埋まらない。花に覆われて、境目はもう、目では分からない。
一人で駆け寄っていたら、危なかった。
「……ありがとう、ございます」
「うん」
ヴァレリウスは笑って、エリシアを抱えたまま、ゆっくりと花の中を歩き始めた。蔓の間の確かな足場だけを選んで。エリシアがいちばん見たいものへ、いちばん近い、安全なところまで。
(この腕……)
覚えのある、浮遊感だった。
聖域から連れ出された、あの夜。あの回廊。この腕は、エリシアの知らないまま、死の縁へ向かって歩いていた。
同じ腕が、今は、花を見せるために歩いている。
穴の縁の手前で、ヴァレリウスは足を止めた。
腕の中から、エリシアは、見た。
アメジストの大輪が、風に揺れている。三本の光の弦が編み合わさった、複雑な副花冠。その一つ一つが、地脈の律動と同じ周期で、かすかに明滅している。花の向こうに、あの縦穴が見えた。底のない闇——けれど、そこから立ち昇っていた三色の螺旋は、もう、ない。
静かだった。
そして。
(……呼ばれない)
耳を澄ませても、肌の奥を探っても、何も、エリシアを引かなかった。
あの、抗えなかった共鳴が、どこにもない。世界はもう、エリシアを器として、探していない。
その静けさを確かめた瞬間、胸のいちばん深いところから、息が、ひとつ抜けた。
「……静かです」
「うん」
「もう、呼ばれません」
「うん」
抱える腕に、ほんの少しだけ、力がこもった。あの回廊と同じ、言葉の代わりの、小さな力。けれど今日は、その意味を、取り違えなかった。
ふと、アステリアの始祖の記を思い出した。
三光の綴じ目に残された、「意図的な余剰」。
先日、あれが不具合ではなく、別の答えへ辿り着くためのヒントだと知った。けれど今、この花を見たことで、その答えが何のために残されたのか、もう少しだけ分かる。
エリシアは、始祖の記をずっと読み違えていた。
アステリアは、六百年前に自分を差し出した。だから自分も、必要なら式へ組み込んで使うのが正しい。自分は「変数」——部品のようなものだと。何度演算し直しても、同じ答えになった。
けれど、彼女が後世へ残した余剰は、同じ犠牲を命じるためのものではなかった。
世界の理を、正しい演算だけで閉じないための空白だった。いつか誰かが、自分を差し出す以外の答えを選べるように。「失いたくない」という、あまりにも個人的な願いまで受け入れられるように。
その空白に、ヴァレリウスの術が届いた。
だから今、犠牲の花だったはずの大輪が、誰も失われないまま咲き誇っている。
(きれい)
素直に、そう思った。観察では、なく。
*
テーブルは、花の群生を望む石畳の上に、整えられていた。
近づいて、エリシアは、目を丸くした。
ケーキが、ずらりと並んでいた。
木苺のタルト。焼き菓子の塔。砂糖がけの果実。層になったクリームのケーキ。滅多に許されなかった種類の菓子が、これでもかと皿を埋めている。端には、見慣れた蜜豆の器まで、ちゃんとあった。
「……多く、ないですか」
「久しぶりだからね」
ヴァレリウスは、悪びれなかった。「焼き菓子は父上の箱から、医師の許可が出たものを全部持ってきた」
テオドールが、湯気の立つポットを手に、澄ました顔で言った。
「僕は止めました」
「嘘をつけ。菓子を選んだのはお前だ」
「姉様の好みは、僕がいちばん知っていますから」
弟が少しだけ胸を張った。昨日の涙の跡は、もうどこにもない。あるのは、年相応の得意げな顔だった。
テオドールの淹れたお茶が、カップに注がれた。
エリシアは、木苺のタルトを一口食べた。
甘かった。
「あ」と、声が出た。
甘い——「ちゃんと甘い」だったあの日より、もっと深いところまで、甘かった。苦みがない。ノイズがない。ただ純粋に、そのお菓子が本来持っている味がした。はじめて食べるみたいだった。ずっと前から知っていた味なのに、はじめて、その全部を、受け取った気がした。
お茶も、飲んだ。
「……お茶も、お菓子も」声が出た。「本当に、おいしい」
笑っていた。自分で気づかなかったけれど、笑っていた。頬が緩んでいた。目が、少し熱くなった。おかしいと思った——お菓子がおいしいだけで、こんなに泣きそうになるのは。
でも、おかしくはなかった。ずっと、苦みの中にいたから。
王都を発つ前の、あの朝のカフェ。公爵邸のコンサバトリー。いつもの銘柄のはずのお茶が、いつからか、舌の奥にかすかなノイズを残すようになっていた。あれは、魔核が限界へ近づいていた最初の兆しだったのだと、今はわかる。魔核の歪みを、体が先に苦みとして感じ取っていた。
その苦みが——今、どこにも、なかった。
「おいしいです」
テオドールも、頬を緩めて言った。皿の上の焼き菓子が、いつのまにか二つ減っている。
「甘いか」
彼が聞いた。
「甘いです」エリシアは、笑った。「ちゃんと、ではなくて——本当に。全部、全部、甘いです」
彼の白銀の髪が、午後の光を割っていた。プリズムが動くように、虹色の縞が、テーブルの上に落ちる。ケーキの皿の上にも。エリシアの手の上にも。花の上にも。
おいしかった。温かかった。甘かった。全部、本当に、全部。
あの口づけの一秒間に、世界の苦みが引いた。
苦みが引いた世界は、こんなにもおいしかった。
ふと、向かいの白銀を見る。
あの夜、彼が自分を削っていくのを、エリシアは止められなかった。「だめです」と言った声が、震えていた。削られていたのは彼なのに、私も痛かった。
(……そういうこと、だったんだ)
自分を削るというのは、自分ひとりの痛みでは、終わらないのだ。その人を大切に思う誰かも痛む。
七年間。自分を数に入れないまま削るたび、エリシアは、この人とテオにも未知数の痛みを飲ませていたのだ。
なら、答えは簡単だった。演算するまでもなかった。
(大切な人たちのためにも——私も、私を大切にする)
痛みも、疲れも、ちゃんと勘定に入れる。自分を変数として組み込まない。この二人が、いつもエリシアを大切にしてくれるのと、同じように。
変数は、こんな風に、お菓子を食べながら、泣き笑いしない。
(私は、変数じゃなかった。初めから)
向かいに、心地いい波長の人がいて。隣に、もう、一人で泣かなくてもいい弟がいて。目の前に、もう誰の犠牲も要らない花が、咲いていて。それだけの、ありふれた午後。それが、世界の調律よりも、ずっと——尊かった。
*
恋、という。
聞いたことがある名前だった。
けれど今は、知っている。
それは演算では辿り着けない答えだった。
間違えるかもしれない。傷つくかもしれない。
それでも。
初めて、自分で選びたいと思った。
ヴァレリウスの隣で。テオと一緒に。
お茶を飲みながら。
生きていきたい、と。
*
エリシアは、微笑んだ。
もう、自分を変数とは呼ばなかった。
ただ、エリシアとして生きていこうと思った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。エリシアの物語は、ひとまずここで一区切りです。
明日からは十年前の二人の出会いを数話挟み、そのあとは視点を変えて――ヴァレリウスの側から、同じ日々を描きます。彼女に見えていなかった場所で、彼が何を思い、どう奮闘していたのか。よろしければ、最後までお付き合いください。※本作は完結まで書き上げています。毎日更新でお届けします。




