もう、一人で、抱えなくていい
目覚めてから、数日が経った。
体は日ごとに軽くなったが、ヴァレリウスの看病は日ごとに手厚くなった。起き上がろうとすれば背に枕が入り、湯を飲もうとすれば先に温度を確かめられる。侍女に任せれば済むことまで、彼の手が先に届いた。
(……過保護、という分類で、合っているのだろうか)
分類は、保留にした。嫌ではなかったからだ。
その日の朝、医師から短い外出の許可が出た。
「エリシア」
ヴァレリウスが、椅子を寄せて言った。どこか、報せを持ってきた子供のような顔だった。
「レリクトゥムの今の様子が、報告で届いたんだ」
「……レリクトゥム」
あの廃墟。あのヴォイド。記憶の底で、何かが小さく身じろぎした。
「ヴォイドのあった場所の周りが——アステリアの花の群生地になっているそうだよ」
演算が、勝手に走り出した。
アステリアの花。三弦花。三色の魔力に感応して育ち、地脈に沿って蔓を伸ばす、生きた写し。それが、あの一点の周りに群れて咲いている——つまり、あの場所の魔力は、いま。
「……見たい、です」
考えるより先に、言葉が出ていた。
怖くないのか、と自分でも思った。あそこは、自分が消えるはずだった場所だ。けれど胸の中を探しても、怖さより先に、確かめたいものの方が多かった。あの理は、いまどんな波形で回っているのか。花は、どの色で咲いているのか。
ヴァレリウスが、ふ、と笑った。
「そう言うと思った。明日、行こう。視察を兼ねた、小さなお茶会だ」
決めるのが、早かった。医師の許可はもう取ってあります、という顔だった。
(……準備が、よすぎる)
その分類も、保留にした。
*
その日の午後、テオドールが部屋を訪ねてきた。
いつものように扉の前で一礼して——けれど、一人だった。
「義兄様は、廊下で待っていてくださるそうです」
少しだけ困ったような、それでいて少しだけ得意げな顔で、弟は言った。二人で話す時間を、もぎ取ってきたらしい。
テオドールは、寝台のそばの椅子に座った。
「姉様。お加減は、いかがですか」
丁寧な声だった。いつもの可愛い、でもしっかり者な弟の声。
——けれど、エリシアは、もう知っていた。
あのレリクトゥムの夜。崩れた回廊で、ヴァレリウスのすぐ後ろに、静かに立っていた弟。あのとき、分かったのだ。この二人は、繋がっていた。自分の知らないところで。仲の良い縁戚よりも、ずっと深い絆に感じた。
「テオ」
エリシアは、まっすぐに、弟を見た。
「あなた、ずっと——私の知らない所で、動いていたのね」
テオドールの肩が、わずかに、揺れた。
「聖域の結界を書き換えたのも。ヴァレリウスの、共犯だったのも」一つずつ、確かめるように。「ぜんぶ——私を、助けるためだった」
「……いつ、お気づきに」
「あの回廊で」
テオドールは、いつもの丁寧な笑みを作ろうとして——できなかった。
「……姉様の前では」
声が震えた。
「平気でいなければと思っていました」
涙をこらえ、無理に笑顔を作ろうとして、できていなかった。
「だって姉様は」
そこで言葉が途切れた。
「姉様は」
「いつも、大丈夫だって笑うから」
唇を噛む。
「だから僕が見ていないと」
「本当にいなくなってしまうと思っていたんです」
初めて、テオドールの瞳から涙が落ちた。
十三歳だった。
エリシアは、自分がどれほど周りに無理をさせてきたのか、ここ数日で少しずつ分かり始めていた。
あのときは、ほかに手段がなかった。それでも、幼い弟に背負わせたものの重さを、今まで考えることすらできていなかった。それが、悔やまれる。
謝りたかった。でもテオドールの求めているものは、それじゃない。それだけは分かった。
「もう、いいの」
エリシアは、手を伸ばして弟を引き寄せた。
いつも、逆だった。姉が倒れ、弟が「大丈夫ですか」と支える側だった。今度は——違った。
「もう、一人で、抱えなくていい。ありがとう、テオ。ずっと——ありがとう」
弟の張り詰めていた何かが、切れた。
「……っ、姉、さま——」
一度も姉の前で泣かなかった弟が。いつも冷静で、一歩引いて、姉を見守っていた弟が——今、年相応の、ただの子供の顔で、泣いた。エリシアの肩に顔を埋めて、声を殺して、それでも、止まらないまま。
エリシアは、その背を、ゆっくりと撫でた。自分の弟が、子供であることを、初めて知ったように。
どれくらい、そうしていただろう。
やがて、テオドールが顔を上げた。涙の跡のまま、少しだけ、笑った。
「……明日の、お茶会」
洟をすすって、それでも、しっかり者の弟の声へ戻ろうとしながら。
「僕が、お茶を淹れますね」
「ええ」エリシアも、笑った。「あなたのお茶が、いちばんおいしいから」
それから二人で、少しだけ、他愛のない話をした。笑い声が、何度も、こぼれた。扉の外の気配が、そのたびに少しだけ緩むのを、エリシアの耳は拾っていた。




