甘い、です
ヴァレリウスは、しばらく、何も言わなかった。
ただ、エリシアの手を包んだまま、その顔をまっすぐに見つめていた。
逃げなかった。
いつかの馬車の中のように、窓の外へ視線を逸らすことも、もうしなかった。
やがて、彼が口を開いた。
「エリシア」
ようやく出てきた、という声だった。
「俺は、ずっと嘘をついていた」
嘘。
その言葉に、指がわずかに強張ってしまう。
「副作用はない、とか。大丈夫だ、とか。必要なことだから、とか。いくつも言った。どれも、エリシアを怖がらせないための言葉だった」
知っていた。
知らないはずがなかった。
ヴァレリウスは、いつも優しい嘘しかつかなかった。エリシアが怖がらないように。エリシアが止まらないように。エリシアが、彼の痛みに気づいてしまわないように。
その嘘を、エリシアは信じた。
信じたかったからだ。
「本当は、怖かった。エリシアが痛むたびに、俺の知らないところへ少しずつ遠ざかっていく気がした。息をしているのを確かめても、足りなかった。お茶をおいしいと言ってほしい、いつも笑っていてほしかった。俺の声で、安心してほしかった」
一つずつ、言葉が置かれていく。
そのたびに、彼の纏っていた何かが剥がれ落ちていった。
いつも正しい答えをくれる人。
いつも穏やかに笑っている人。
いつも、エリシアを怖がらせない人。
その下にいたのは、エリシアを失うことを怖がっていた人だった。エリシアの知らない顔だった。けれど、知らない顔でも、ヴァレリウスだった。
嫌ではなかった。
むしろ、その顔を隠さないでほしいと思った。
「それで、できるなら」
彼が、エリシアの手の甲に、額を寄せた。
「俺の隣に帰ってきてほしかった」
声が、少しだけ、掠れていた。
隣。
それは、場所の名前ではないのだと分かった。
「欲張りだろう」
苦く、彼は笑った。
「でも、もう綺麗な言葉に隠すのはやめる」
顔を上げた彼が、エリシアの目をまっすぐに見た。碧の瞳が揺れていた。白銀の髪が、朝の光に淡く色を散らした。
「愛している」
その一言が、これまで聞いたどんな言葉よりも、深くまっすぐに、エリシアの胸の奥へ届いた。
三色のどんな波長よりも澄んでいた。
その言葉は、これまで一度も自分に向けられたことのない種類のものだった。
誰かの役に立つから、ではない。
何かの目的のため、でもない。
ただエリシアが、エリシアであるというだけで——向けられた言葉だった。
*
エリシアは、口を開いた。
「好き」も、「愛している」も、言葉としては知っている。
定義も、用例も、たぶん間違えずに説明できる。
けれど今、胸の中にあるものは、どの定義にもぴったり収まらなかった。演算しても、ちょうどいい単語は出てこない。
だから、いちばん本当のことだけを、言った。
「……いなくならないで、ください」
声が、小さく、震えた。
「あなたが、いなくなるのは……いやです。すごく、いやです」
うまく言えた気はしなかった。
愛している、への返答として正しいのかも分からない。
それでも、これがいちばん奥にあった。難しい言葉より先に出てきた、いちばん素直な答えだった。
「エリシア」
「……はい」
「触れてもいい?」
エリシアは、瞬きをした。意味を理解するまでに、少しだけ時間がかかった。
あ。
口づけのことだ。
気づいた瞬間、頬が熱くなっていく。逃げる時間も、考える時間も、あった。
でも拒む理由は、なかった。
「……はい」
小さく頷いた。
エリシアは動けなかった。どうするのが正解か分からない。心臓が、ありえない速さで鳴っていた。
唇が、ゆっくりと重なった。
やわらかくて、温かかった。
そして、甘かった。
味覚ではない。
糖分でも、香りでもない。
それなのに、甘いとしか分類できない感覚が、唇の触れたところから、じんわりと胸の奥へ広がっていく。
彼の、かすかな匂いがした。清潔な、少し冷たい、けれど安心する匂い。それを近くで感じた瞬間、頭の中が真っ白になった。
演算が、止まった。
何も考えられなかった。
唇が、離れた。
エリシアは、自分の顔が、燃えるように熱いのを感じた。
「……っ、あの、これは、その」
言葉の順序が、ばらばらだった。いつも整然と回るはずの思考が、まるで言うことを聞かない。
「甘い、です」
「うん」
「なんで、ですか。お茶も、お菓子も、口にしていないのに……何かの、不具合……?」
ヴァレリウスが、ふっと——笑った。
エリシアがこれまで見た中で、いちばんやわらかい顔だった。
「不具合じゃないよ」
張り詰め続けていた何かが、初めて息を吐くように、ほどけていく。そんな笑い方だった。
「……よかった」
小さな声だった。
「エリシアが、ここにいる」
彼の手が、包んだエリシアの手を、確かめるようにほんの少し握り直した。
「俺の手を握って、困った顔をして、甘いと言っている」
それが、どこか信じきれない、という声だった。
「ずっと、これが欲しかった」
その声を聞いた瞬間、エリシアの中で、ひとつの式が反転した。
自分が痛む時、彼は怖かった。
エリシアが自分の体を演算に入れる時、彼はそれを、正しい選択として見ていたわけではなかった。
大切な人が遠ざかっていく恐怖として、受け止めていた。
その怖さなら、エリシアにも分かった。
ヴァレリウスが代償を支払うのを見て、怖かった。失いたくないと思った。彼が白銀になったとき、胸の奥が冷たく縮んだ。
なら、彼も同じだったのだ。
ずっと。
エリシアが気づかない間も、ずっと。
ヴァレリウスにとって、自分は失いたくない人だった。
胸の中が——切なくて、温かくて、そして、甘かった。




