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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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甘い、です

ヴァレリウスは、しばらく、何も言わなかった。


ただ、エリシアの手を包んだまま、その顔をまっすぐに見つめていた。


逃げなかった。


いつかの馬車の中のように、窓の外へ視線を逸らすことも、もうしなかった。


やがて、彼が口を開いた。


「エリシア」


ようやく出てきた、という声だった。


「俺は、ずっと嘘をついていた」


嘘。


その言葉に、指がわずかに強張ってしまう。


「副作用はない、とか。大丈夫だ、とか。必要なことだから、とか。いくつも言った。どれも、エリシアを怖がらせないための言葉だった」


知っていた。


知らないはずがなかった。


ヴァレリウスは、いつも優しい嘘しかつかなかった。エリシアが怖がらないように。エリシアが止まらないように。エリシアが、彼の痛みに気づいてしまわないように。


その嘘を、エリシアは信じた。


信じたかったからだ。


「本当は、怖かった。エリシアが痛むたびに、俺の知らないところへ少しずつ遠ざかっていく気がした。息をしているのを確かめても、足りなかった。お茶をおいしいと言ってほしい、いつも笑っていてほしかった。俺の声で、安心してほしかった」


一つずつ、言葉が置かれていく。


そのたびに、彼の纏っていた何かが剥がれ落ちていった。


いつも正しい答えをくれる人。


いつも穏やかに笑っている人。


いつも、エリシアを怖がらせない人。


その下にいたのは、エリシアを失うことを怖がっていた人だった。エリシアの知らない顔だった。けれど、知らない顔でも、ヴァレリウスだった。


嫌ではなかった。


むしろ、その顔を隠さないでほしいと思った。


「それで、できるなら」


彼が、エリシアの手の甲に、額を寄せた。


「俺の隣に帰ってきてほしかった」


声が、少しだけ、掠れていた。


隣。


それは、場所の名前ではないのだと分かった。


「欲張りだろう」


苦く、彼は笑った。


「でも、もう綺麗な言葉に隠すのはやめる」


顔を上げた彼が、エリシアの目をまっすぐに見た。碧の瞳が揺れていた。白銀の髪が、朝の光に淡く色を散らした。


「愛している」


その一言が、これまで聞いたどんな言葉よりも、深くまっすぐに、エリシアの胸の奥へ届いた。


三色のどんな波長よりも澄んでいた。


その言葉は、これまで一度も自分に向けられたことのない種類のものだった。


誰かの役に立つから、ではない。


何かの目的のため、でもない。


ただエリシアが、エリシアであるというだけで——向けられた言葉だった。


    *


エリシアは、口を開いた。


「好き」も、「愛している」も、言葉としては知っている。


定義も、用例も、たぶん間違えずに説明できる。


けれど今、胸の中にあるものは、どの定義にもぴったり収まらなかった。演算しても、ちょうどいい単語は出てこない。


だから、いちばん本当のことだけを、言った。


「……いなくならないで、ください」


声が、小さく、震えた。


「あなたが、いなくなるのは……いやです。すごく、いやです」


うまく言えた気はしなかった。


愛している、への返答として正しいのかも分からない。


それでも、これがいちばん奥にあった。難しい言葉より先に出てきた、いちばん素直な答えだった。


「エリシア」


「……はい」


「触れてもいい?」


エリシアは、瞬きをした。意味を理解するまでに、少しだけ時間がかかった。


あ。


口づけのことだ。


気づいた瞬間、頬が熱くなっていく。逃げる時間も、考える時間も、あった。


でも拒む理由は、なかった。


「……はい」


小さく頷いた。


エリシアは動けなかった。どうするのが正解か分からない。心臓が、ありえない速さで鳴っていた。


唇が、ゆっくりと重なった。


やわらかくて、温かかった。


そして、甘かった。


味覚ではない。


糖分でも、香りでもない。


それなのに、甘いとしか分類できない感覚が、唇の触れたところから、じんわりと胸の奥へ広がっていく。


彼の、かすかな匂いがした。清潔な、少し冷たい、けれど安心する匂い。それを近くで感じた瞬間、頭の中が真っ白になった。


演算が、止まった。


何も考えられなかった。


唇が、離れた。


エリシアは、自分の顔が、燃えるように熱いのを感じた。


「……っ、あの、これは、その」


言葉の順序が、ばらばらだった。いつも整然と回るはずの思考が、まるで言うことを聞かない。


「甘い、です」


「うん」


「なんで、ですか。お茶も、お菓子も、口にしていないのに……何かの、不具合……?」


ヴァレリウスが、ふっと——笑った。


エリシアがこれまで見た中で、いちばんやわらかい顔だった。


「不具合じゃないよ」


張り詰め続けていた何かが、初めて息を吐くように、ほどけていく。そんな笑い方だった。


「……よかった」


小さな声だった。


「エリシアが、ここにいる」


彼の手が、包んだエリシアの手を、確かめるようにほんの少し握り直した。


「俺の手を握って、困った顔をして、甘いと言っている」


それが、どこか信じきれない、という声だった。


「ずっと、これが欲しかった」


その声を聞いた瞬間、エリシアの中で、ひとつの式が反転した。


自分が痛む時、彼は怖かった。


エリシアが自分の体を演算に入れる時、彼はそれを、正しい選択として見ていたわけではなかった。


大切な人が遠ざかっていく恐怖として、受け止めていた。


その怖さなら、エリシアにも分かった。


ヴァレリウスが代償を支払うのを見て、怖かった。失いたくないと思った。彼が白銀になったとき、胸の奥が冷たく縮んだ。


なら、彼も同じだったのだ。


ずっと。


エリシアが気づかない間も、ずっと。


ヴァレリウスにとって、自分は失いたくない人だった。


胸の中が——切なくて、温かくて、そして、甘かった。

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