……ここに、いる
夢を見ていた。
子供の頃の夢だった。
公爵邸の、陽のあたる書斎。大きな机に、魔術の教本が広げられている。隣に、少年がいた。金色の髪の、まだ背の伸びきらない、幼いヴァレリウス。二人で一つの術式の図を覗き込んで、エリシアが何かを言うたびに、彼が「すごいね」と笑う。
三原色の役割。光弁の組み方。エリシアが新しい理の解釈を見つけるたびに、世界が、少しずつ広がっていく。それが、楽しくてたまらなかった。一人で解くより、ずっと。
「一緒に勉強するの、楽しい」
夢の中のエリシアは、無邪気に笑っていた。まだ何も背負っていない軽い心で。
「ねえ、ヴァレリウス。ずっと、一緒にいようね」
少年が、少し驚いた顔をして——それから、やわらかく笑った。
その笑顔が、まぶしくて——
…
目が覚めた。
頬を、温かいものが一筋、伝っていた。
涙だった。
なぜ泣いているのか、すぐにはわからなかった。ただ、胸の奥が、優しく痛んでいた。夢の中の自分が、あんなにも何も恐れていなかったことが——今は、少しだけ遠かった。
*
視界が、ゆっくりと像を結んだ。
見慣れない天井。柔らかな寝具。窓から、淡い朝の光が差し込んでいる。
聖域の、あの反響しすぎる石の部屋ではなかった。音が、ちゃんと一方向から届く。馬車の車輪。遠い鳥の声。葉擦れ。それぞれが、ちょうどいい距離で、意識の余白に滑り込んでくる。穏やかな朝だった。
そして——頭が軽い。
あの、灼けるような演算の熱が、もうなかった。常に意識の余白を圧迫していた、世界中の波長を拾い続ける感覚が——静かに引いていた。夢の中の子供時代のように、エリシアの中に、余白が戻った。
枕元に、人の気配があった。
エリシアは、そっと、顔を傾けた。
ヴァレリウスがいた。
寝台の脇に椅子を寄せて、腕を枕にするように、上体を寝具に預けて——眠っている。よほど疲れていたのだろう。規則正しい寝息が、かすかに聞こえた。
その髪を見て、エリシアは息を呑んだ。
白銀だった。
記憶の中の、あの金色ではなかった。朝の光を受けて、白く、銀に、輝いている。時折——ほんのわずかに角度が変わると、髪の一筋一筋が、淡く色を返した。白。蒼。金。三原色の光が、プリズムのように、そこを通り抜けていく。
きれい、だと思った。
そして同時に、胸が締めつけられた。この色が、何の代償なのか——もう、わかっていた。
命の写し。人ひとりの情報を写し取り、別の器に宿す術。失敗すれば、自我の崩壊を招く術。
ヴァレリウスの髪から金が消えたのは、きっと、その一歩手前で。彼の地の色が、エリシアの銀に、書き換えられてしまったからだ。三色を収束させる器を持たない彼の中では、その銀は、紫には染まらない。ただ、光を割る。プリズムのように。
それでも、彼は——自分が壊れる危険を承知で、術を行使した。そうまでして、自分を生かしたのだ。
——けれど、ひとつだけ分からないことがあった。
命の写しは禁術だ。一介の公爵令息が知れるものではない。
(……どうやって)
疑問は残った。
けれど今は、彼がここにいることの方が大切だった。
体を起こし、手を伸ばした。
眠る彼を起こさないように、そっと。白銀の髪を、指先ですくうように、触れた。
やわらかかった。少しひんやりとして、けれどその奥に、確かな温度があった。
そして——触れた指先から、彼の波長が伝わってきた。
あの、滑らかな整った筋。眠っていてもなお、彼の波長は、こんなにも穏やかだった。それがそばにあるだけで、エリシアの世界は、ちょうどいい解像度になる。聖域にいた間、ずっと遠くから恋しく感じていた、この波長。
(……ここに、いる)
それだけで、泣きそうになった。
*
ほどなく、規則正しかった寝息がふっと途切れた。
ヴァレリウスが、ゆっくりと目を開けた。
碧の瞳が、エリシアを映す。
「……おはよう」
低い、寝起きの声だった。
「おはよう、ございます」
エリシアは、慌てて手を引っ込めようとした。けれど、その手を彼が下からそっと包んだ。逃がさないように。
「気分は」
「……不思議なくらい、軽いです」
本当だった。
「エリシアは——あのあと、気を失うように眠っていた」ヴァレリウスが言った。「三日、目を覚まさなかった。緊張が、限界まで張り詰めていたんだろう。それが、解けた」
三日。
エリシアは、まばたきをした。記憶の最後は——廃墟の、夜明けの光。弟の、泣きそうな顔。空一面に咲いた、光の曼荼羅。そして、それより前の、あの——
唇に、熱が、蘇った。
頬が、勝手に、熱くなった。
*
「ヴァレリウス」
エリシアは、包まれた手を握り返した。
「うん」
「……聞いて、ください」
うまく言葉が出てくるか、分からなかった。
いつもなら、先に理由を探していた。なぜそう感じたのか。何が原因で、どう分類すればいいのか。
けれど今は、その問いが遠かった。
胸の中にあるものが、珍しく隠れずにそこにあった。
「聖域にいた間、ずっと——遠くに、あなたの波長を、感じていました」
石の壁の向こうから、断続的に届いていた、あの三色の熱。夢の中に流れ込んできた、誰かが燃えているような感触。あれは彼だったのだと、今なら分かる。
届くはずのない場所から、届いていた。
それだけで、聖域の冷たさが少し薄くなっていた。
「離れて、初めて気づいたんです。あなたの波長が、どれだけ——私にとって、心地いいものだったか」
世界中の音と波長が、無秩序に意識へ流れ込んでくる。それが、エリシアの日常だった。
その騒がしさの中で、彼の波長だけが、いつも不思議なくらい滑らかだった。情報が消えるわけではない。痛みが消えるわけでもない。ただ、拾わなくていいものまで拾おうとする意識が、彼のそばでは少しだけ休める。
世界の解像度が、ちょうどよくなる。
エリシアは、彼の目を見た。
「あなたの波長が好きなんです。そばにいると、世界が静かになります」
言ってから、少しだけ違うと思った。
正しい。けれど、それだけでは足りない。
「でも、今は、それだけじゃありません」
碧の瞳を見つめる。
「ヴァレリウスだから、そばにいてほしいんです」
それが、いちばん近かった。
同じ波長なら誰でもいい、ということではない。安心するから、便利だから、状態が安定するから、そばにいてほしいのでもない。
ヴァレリウスだから。
夢の中で言った言葉と、同じだった。けれど今のは、その言葉の意味を深く知ったうえで、選んで、差し出した言葉だった。




