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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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……ここに、いる

夢を見ていた。


子供の頃の夢だった。


公爵邸の、陽のあたる書斎。大きな机に、魔術の教本が広げられている。隣に、少年がいた。金色の髪の、まだ背の伸びきらない、幼いヴァレリウス。二人で一つの術式の図を覗き込んで、エリシアが何かを言うたびに、彼が「すごいね」と笑う。

三原色の役割。光弁(こうべん)の組み方。エリシアが新しい理の解釈を見つけるたびに、世界が、少しずつ広がっていく。それが、楽しくてたまらなかった。一人で解くより、ずっと。


「一緒に勉強するの、楽しい」


夢の中のエリシアは、無邪気に笑っていた。まだ何も背負っていない軽い心で。


「ねえ、ヴァレリウス。ずっと、一緒にいようね」


少年が、少し驚いた顔をして——それから、やわらかく笑った。


その笑顔が、まぶしくて——


…


目が覚めた。


頬を、温かいものが一筋、伝っていた。


涙だった。


なぜ泣いているのか、すぐにはわからなかった。ただ、胸の奥が、優しく痛んでいた。夢の中の自分が、あんなにも何も恐れていなかったことが——今は、少しだけ遠かった。


    *


視界が、ゆっくりと像を結んだ。


見慣れない天井。柔らかな寝具。窓から、淡い朝の光が差し込んでいる。

聖域の、あの反響しすぎる石の部屋ではなかった。音が、ちゃんと一方向から届く。馬車の車輪。遠い鳥の声。葉擦れ。それぞれが、ちょうどいい距離で、意識の余白に滑り込んでくる。穏やかな朝だった。


そして——頭が軽い。


あの、灼けるような演算の熱が、もうなかった。常に意識の余白を圧迫していた、世界中の波長を拾い続ける感覚が——静かに引いていた。夢の中の子供時代のように、エリシアの中に、余白が戻った。


枕元に、人の気配があった。


エリシアは、そっと、顔を傾けた。


ヴァレリウスがいた。


寝台の脇に椅子を寄せて、腕を枕にするように、上体を寝具に預けて——眠っている。よほど疲れていたのだろう。規則正しい寝息が、かすかに聞こえた。


その髪を見て、エリシアは息を呑んだ。


白銀だった。


記憶の中の、あの金色ではなかった。朝の光を受けて、白く、銀に、輝いている。時折——ほんのわずかに角度が変わると、髪の一筋一筋が、淡く色を返した。白。蒼。金。三原色の光が、プリズムのように、そこを通り抜けていく。


きれい、だと思った。


そして同時に、胸が締めつけられた。この色が、何の代償なのか——もう、わかっていた。


命の写し。人ひとりの情報を写し取り、別の器に宿す術。失敗すれば、自我の崩壊を招く術。

ヴァレリウスの髪から金が消えたのは、きっと、その一歩手前で。彼の地の色が、エリシアの銀に、書き換えられてしまったからだ。三色を収束させる器を持たない彼の中では、その銀は、紫には染まらない。ただ、光を割る。プリズムのように。


それでも、彼は——自分が壊れる危険を承知で、術を行使した。そうまでして、自分を生かしたのだ。


——けれど、ひとつだけ分からないことがあった。


命の写しは禁術だ。一介の公爵令息が知れるものではない。


(……どうやって)


疑問は残った。


けれど今は、彼がここにいることの方が大切だった。


体を起こし、手を伸ばした。


眠る彼を起こさないように、そっと。白銀の髪を、指先ですくうように、触れた。


やわらかかった。少しひんやりとして、けれどその奥に、確かな温度があった。


そして——触れた指先から、彼の波長が伝わってきた。


あの、滑らかな整った筋。眠っていてもなお、彼の波長は、こんなにも穏やかだった。それがそばにあるだけで、エリシアの世界は、ちょうどいい解像度になる。聖域にいた間、ずっと遠くから恋しく感じていた、この波長。


(……ここに、いる)


それだけで、泣きそうになった。


    *


ほどなく、規則正しかった寝息がふっと途切れた。


ヴァレリウスが、ゆっくりと目を開けた。


碧の瞳が、エリシアを映す。


「……おはよう」


低い、寝起きの声だった。


「おはよう、ございます」


エリシアは、慌てて手を引っ込めようとした。けれど、その手を彼が下からそっと包んだ。逃がさないように。


「気分は」


「……不思議なくらい、軽いです」


本当だった。


「エリシアは——あのあと、気を失うように眠っていた」ヴァレリウスが言った。「三日、目を覚まさなかった。緊張が、限界まで張り詰めていたんだろう。それが、解けた」


三日。


エリシアは、まばたきをした。記憶の最後は——廃墟の、夜明けの光。弟の、泣きそうな顔。空一面に咲いた、光の曼荼羅(まんだら)。そして、それより前の、あの——


唇に、熱が、蘇った。


頬が、勝手に、熱くなった。


    *


「ヴァレリウス」


エリシアは、包まれた手を握り返した。


「うん」


「……聞いて、ください」


うまく言葉が出てくるか、分からなかった。


いつもなら、先に理由を探していた。なぜそう感じたのか。何が原因で、どう分類すればいいのか。


けれど今は、その問いが遠かった。


胸の中にあるものが、珍しく隠れずにそこにあった。


「聖域にいた間、ずっと——遠くに、あなたの波長を、感じていました」


石の壁の向こうから、断続的に届いていた、あの三色の熱。夢の中に流れ込んできた、誰かが燃えているような感触。あれは彼だったのだと、今なら分かる。


届くはずのない場所から、届いていた。


それだけで、聖域の冷たさが少し薄くなっていた。


「離れて、初めて気づいたんです。あなたの波長が、どれだけ——私にとって、心地いいものだったか」


世界中の音と波長が、無秩序に意識へ流れ込んでくる。それが、エリシアの日常だった。

その騒がしさの中で、彼の波長だけが、いつも不思議なくらい滑らかだった。情報が消えるわけではない。痛みが消えるわけでもない。ただ、拾わなくていいものまで拾おうとする意識が、彼のそばでは少しだけ休める。


世界の解像度が、ちょうどよくなる。


エリシアは、彼の目を見た。


「あなたの波長が好きなんです。そばにいると、世界が静かになります」


言ってから、少しだけ違うと思った。


正しい。けれど、それだけでは足りない。


「でも、今は、それだけじゃありません」


碧の瞳を見つめる。


「ヴァレリウスだから、そばにいてほしいんです」


それが、いちばん近かった。


同じ波長なら誰でもいい、ということではない。安心するから、便利だから、状態が安定するから、そばにいてほしいのでもない。


ヴァレリウスだから。


夢の中で言った言葉と、同じだった。けれど今のは、その言葉の意味を深く知ったうえで、選んで、差し出した言葉だった。

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