消えたくない
ヴァレリウスが足を止めると、エリシアはその腕の中から前方を見た。
崩れた回廊の向こう。夜明け前だというのに、そこだけが昼のように明るい。白い法衣が、その光の中に点在している。
(……いた)
イグナティウスの本隊だ。儀式のために集められた聖職者たち。その中心にいる白髪の姿も見える。
ここから先は、隠れて進む場所ではない。皆の前に出る場所だ。
エリシアは少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……下ろしてください」
ヴァレリウスが視線だけを落とした。
「歩ける?」
「はい」
少しだけ間があり、それから腕の力がゆるんだ。地面に降りた瞬間、素足の裏に冷たい石の感触が戻った。
少しだけ、名残惜しい。その理由はもう分かっている。けれど今は、後回しにする。
一歩足を進めた。冷たさに、違和感がある。足裏を傷つける尖った石も、崩れた瓦礫もない。
見渡せば、周囲は廃墟だ。崩れた柱。砕けた回廊。風に削られた石壁。
それなのに、エリシアの前へ続く一本の道だけが、異様なほど整えられている。
まるで、誰かを迎えるためだけに。長い時間をかけて磨き上げたように。
視線の先では、白い法衣の列が静かに頭を垂れている。
(……待っていたんだ)
六百年。その言葉が、不意に胸をよぎった。
聖職者たちは、整えられた石畳の終着点を、弧を描いて取り囲んでいる。足の先まで隠れる、純白の長いマント。頭から目深にフードを被り、顔は布の奥に沈んで見えない。背には、複雑な曼荼羅状の魔法陣が、淡い光を放ちながら浮かび上がっている。
(あれは……血筋を持たない者の、防護の装束)
聖衣、という言葉が、古代の文書の記述から浮かんだ。ヴォイドの放つ三色の魔力に灼かれぬよう、生身を覆い隠す装束。顔のない白い列が、儀式の静けさの中で、犯しがたい威圧を放っている。
その中心に——ただ一人、フードも被らず、素顔のまま立っている男がいる。
イグナティウスだ。
(あの人だけ、防護がいらない。……血筋だ)
公爵家の血を引く者だけが、この土地に生身で立てる。枢機卿の座が、信仰ではなく、血筋で選ばれていることを——エリシアは、その光景だけで理解した。
昨日のうちに、ここへ来て、儀式の準備を整えていたのだ。枢機卿は、逃げた先を追いかけてきたのではない。最初から、ここで待っていた。
(ヴァレリウスは、それを知っていた。だからここへ来たんだ)
逃げたのでは、なかった。乗り込んだのだ。
何とかする、と言ったあの言葉は、もう根拠のない約束ではない。ヴァレリウスは聖域へ迎えに来て、テオドールとともに、ここへ至る道を作った。
この先で何が起きるのかは、まだ分からない。それでも、一人ではない。そのことだけは、もう知っている。
この人が選んだ道なら、エリシアも自分の足で進める。
枢機卿が、こちらを見た。
「よくいらっしゃいました」
いつもと同じ、穏やかな声だ。けれど、その穏やかさは、以前とは違う。
品定めは、もう終わっている。残っているのは、確信と信仰だけだ。
*
ヴォイドは、廃墟の中心にある。
縦穴——底が、見えない。そこから立ち昇るのは、三つの色だ。白銀、黄金、蒼。生光と刻光と造光が一つの渦の中で互いに干渉しながら、螺旋を描いている。三色の継ぎ目に、淡い緑と菫色が滲む。真珠の内側のような、夜空のオーロラのような——見る角度ごとに色の移ろう、底のない光の柱だ。
(……きれい)
そう思った。
ただ、それだけだった。
その先に、言葉はない。決意も、覚悟も、演算さえも——浮かんでこない。ただ、表情が、抜けていく。
体が、ヴォイドの方へ、傾いている。
(……あ)
波長が引き合っている。あの穴の三色と、自分の三色が。同じ形のスペクトルが、共鳴している。
呼ばれている、という感覚ではない。
抗えない引力に、捕まったという感覚に近い。
理が。世界そのものが。数百年間待ち続けていたものを——ようやく迎えに来たのだと。
なぜか、そう分かってしまう。
ヴォイドは、エリシア自身を見ているのではない。その奥にある三色の形を見ている。
定められた場所へ還るものを見つめるように。
足が、ひとりでに動いた。
一歩。自分の意志で踏み出した——とは、思えない。呼ばれて、惹かれて、吸い寄せられて。頭の中は、空っぽだ。
*
イグナティウスの声が、どこか遠くで、響いた。
「令嬢の魂の調律が、始祖の調律と合一する瞬間——それが始原の理の完成です。これ以上の神聖な昇華は、この国の歴史に存在しません」
声は穏やかで、一点の疑いもない。心から信じていることが分かる。
エリシアの足は止まらなかった。ヴォイドの光は近く、白銀と黄金と蒼が絡み合いながら、ゆっくりと呼吸している。
綺麗だ。恐ろしいほどに。
ずっと、心の底に引っかかっているものがある。
「自分が消えること」を、どこかで信じ切れない、小さな引っかかり。
けれど今は——その引っかかりさえ、光の渦に溶けて、遠い。
もう一歩、踏み出した。
そのとき。
ふいに。
胸の奥で、何かが軋んだ。
(——嫌だ)
思考より先に、言葉が落ちた。足が、止まった。
なぜ。
そう思った瞬間、浮かんだのは、ヴァレリウスだった。
蜜豆の包み。肩に掛かった毛布。
届くけれど触れない距離。
もう半歩近い距離。
「俺が何とかする」
あの声。そして。
月明かりの回廊で、一度もこちらを見なかった横顔。
胸が、軋んだ。
(まだ)
息が、震えた。
(まだ、話していない)
この気持ち。気づいたのに。
まだ、伝えていない。一度も。
(まだ——)
会いたい。
もっと。
一緒にいたい。
もっと知りたい。
隣を歩きたい。彼の顔を見たい。声を聞きたい。怒った理由を知りたい。笑うところも見たい。
知らないことが、まだたくさんある。
胸の奥から、何かがせり上がった。
今まで演算の奥底に押し込めていたものが。
熱になって、叫びになって、溢れ出す。
(消えたくない)
初めて、そう思った。
理のためでも、世界のためでもない。
ただ。
(生きたい)
ヴォイドが、すぐそこに、口を開けていた。




