……怒っていますか
翌日、朝から何もしなかった。
いつもなら興味を引かれる始原の術式体系の記録も、今は読む気になれない。アステリアの記録を開くたび、「彼女もそうした」という事実が一つずつ積み重なる。
積み重なるほど、自分も「そうすること」が正しいという方向へ押し流されてしまいそうだった。
今は、読まない方がいい。
夜が来て、部屋が暗くなった。窓から月明かりが差し込む。
バングルを握ったまま眠った。
*
夜半、静けさに気づいた。
部屋が——静かすぎる。
この数日、廊下には常に誰かの気配があった。一定の間隔で巡る靴音。扉の向こうに漂う人の熱。
今夜は、それがひどく少ない。
(枢機卿は?)
昨夜までは、ここにいたはずだ。
でも今は——気配が遠い。どこか別の場所へ移ったように感じられる。
(レリクトゥムに行ったのかもしれない。儀式の準備のために)
そこまで考えたとき、バングルがふいに温かくなった気がした。
錯覚かもしれない。それでも、何かが変わった。
*
その静けさの中で、音がした。
正確には、音ではない。圧力の変化だ。空気が何かに押され、廊下の奥が遠く震えている。
エリシアは暗い部屋で身を起こした。
(何かが——来た)
理由はない。でも、確信がある。
扉の向こうから、これまでとは違う温度が伝わってくる。
*
扉が開いた。
廊下の光が差し込み、金髪がその光を弾いた。
白に近い、鮮やかな金。
月と灯りが混ざる廊下に、ヴァレリウスが立っている。碧の目はまっすぐこちらへ向けられ、ほんの一瞬、何かを確かめるように止まった。
(来た)
驚きより先に、「やはり来た」という感触が胸へ落ちた。
(本当に、来た)
その瞬間、部屋の寒さが少し遠のき、胸の奥に沈んでいた重さもふっと軽くなる。
呼吸がしやすい。意識の余白を埋めていた雑音まで、一段階だけ遠ざかっていく。
なぜそうなるのかは分からない。
ただ、ここへ来てから初めて、大丈夫だと思えた。
「俺が何とかする」と、ヴァレリウスは言った。
根拠は、まだ示されていない。なのにこの数日、その言葉だけは疑わず、今も握りしめるように覚えている。
そして今、その言葉が、目の前に立っている。
頬が勝手に緩みそうになり、慌てて抑えた。
肌はもう、彼の波長を拾っている。
不思議なくらい滑らかな波長だ。
世界中の音と熱がうるさく押し寄せてくるこの聖域で、彼のものだけが、すっと一本、整った筋を通している。
それが部屋に踏み込んできた瞬間、ざわついていた意識の余白が——す、と、凪いだ。
(落ち着く)
理由は分からない。それでも、彼の波長が近くにあるだけで、世界の解像度がちょうどよくなる。
久しぶりの感覚に、エリシアの肩からは知らないうちに力が抜けていく。
「立てる?」
「立てます」
「行こう」
廊下の向こうから、足音が聞こえた。複数。遠い。
ヴァレリウスが右手を上げた瞬間、部屋の空気が圧力を持った。斥力の展開を、肌が捉える。窓枠がかすかに鳴った。
左手首を取られた。
*
走った。
正確には、ヴァレリウスが滑るように進み、エリシアを引いている。斥力滑走は普通の走りよりずっと速い。足音が石床へ落ちる前に、次の一歩が来る。
聖騎士団の声がする。遠い。昨日より、数が少ない。
(やはり、本隊はもういない)
曲がり角を折れた。また折れた。
どこへ行くかは分からない。でも——
「エリシア」
名前を呼ばれた瞬間、抱き上げられた。
*
ヴァレリウスの腕の中は、温かい。
その体温が、背中から腕へ均等に伝わってくる。
(——あ)
夢の中の熱だ。
聖域の夜に見た夢。誰かがすぐ近くにいた、あの夢。顔は見えなかった。けれど、残っていた熱はこの温度と同じだ。
頭より先に、体が知っていた。
目の前に、花の壁がある。石壁いっぱいに、結晶で象られたアステリアの花が凹凸を持って連なっている。
花弁の一枚ずつは無数の細線でかたどられ、その内側に光の骨格を透かせていた。演算は一瞬で、それを「転移門」と読んだ。
刻の栞。けれど、いつもの門とは形が違う。
ヴァレリウスは首飾りを取り出し、アメジストの石を壁の端の一輪へ押し当てた。
光が、折り畳まれた。
「目を閉じて」
閉じた。
光が来る。まぶたの向こうが白くなり、転移の眩暈が全身を包む。足元が消える。方向もなくなる。
それでも、腕の温度だけはずっとそこにある。
消えない。
どこへ行くのか、何が起きているのかは分からない。
ただ、この腕がある限り大丈夫だと思える。理由はまだ分からない。確信だけがある。
*
光が消えた。
けれど、足の裏に石の感触は戻ってこない。
エリシアは、まだヴァレリウスの腕の中にいる。下ろされてはいない。聖域の部屋から靴も履かずに連れ出された素足が、宙にある。
冷たい夜気が頬に触れ、エリシアは腕の中で目を開けた。
*
古い石の回廊だった。
崩れかけた柱が、月明かりの中に並んでいる。床の石は内側からほのかに光り、遠い昔の術式の余熱をまだ覚えているように見えた。
空気もこれまでのどことも違う。重く、密度がある。肌の奥を、何かがかすかに引いていく。
(ここは……聖域じゃない。もっと、古い場所)
そして、もう一人いた。
「——テオ」
月光に紫を返す黒髪。灰色がかったアメジストの瞳。
弟のテオドールが、少し後ろに静かに立っている。
「姉様」テオドールが、小さく頷いた。「ご無事で、よかった」
なぜ弟がここにいるのかと問うより先に——分かった。
この二人は、エリシアの知らないところで、ずっと繋がっていたのだ。驚きよりも先に、また温かいものが込み上げてくる。
一人ではなかった。
あの聖域の夜、自分が一人で演算していた間も、外側ではこの二人が動いていてくれた。
*
ヴァレリウスはエリシアを抱えたまま歩き始めた。下ろす素振りはなく、腕の力も緩まない。
けれど、その目はまっすぐ前だけを見ている。一度も、腕の中のエリシアを見下ろさない。
すぐ近くに、彼の顎の線がある。喉の動き。息の音。
これ以上ないほど近いのに、視線だけがどこか遠い。
(……目を、合わせてくれない)
なぜだろう、と考えた。
何かしてしまっただろうか。
あのとき黙って「承知しました」と答えたこと。「俺が何とかする」と言われたのに自分が折れようとしていたこと。
彼はどちらも知っていて、怒っているのかもしれない。
抱えられた腕の中から、その横顔を見上げた。
「……怒っていますか」
聞いた。
ヴァレリウスの足が、少し止まった。それでもこちらを見ない。答えはない。
沈黙が、古い回廊の中に落ちた。
「……やっぱり、怒っているんだ」
つい、小さく口に出してしまった。
返事は、なかった。ただ、抱える腕にほんの少し力がこもった気がする。
彼の左耳のピアスが、月明かりの中でかすかに熱を持ったように見えた。
気のせいかもしれない。
しばらくして、ふと気づいた。
怒っているのなら、それで説明がつくはずだ。
なのに、胸の奥に引っかかったものがまだ残っている。
(……違う)
うまく言葉にならない。
怒らせたことが気になるのではない。
ただ、こちらを見てくれない。そのことが、思っていたよりもずっと気になっていた。
*
それでも。
不思議と寂しくはない。
触れ合う胸元から、彼の波長が直接伝わってくる。あの、滑らかな、整った筋。
世界中の音と熱がうるさいこの土地で、彼の波長だけが、すっと一本通っている。怒っているのかもしれない人の腕の中なのに、その鼓動はエリシアを安心させる。
(この人のそばは、落ち着く)
違う。落ち着く、それだけではない。
いなくなったときに寒かった理由を、エリシアはもう知っている。
見上げた横顔は、逃げている顔ではない。何か確かなものへ、意志を持って向かっている顔だ。
月光の中の、その輪郭が——少しだけ、かっこいい、と。思ってしまって。
(……今、私、何を考えたの)
慌てて、その思考にいつものように保留の札を貼ろうとした。
——貼れない。
保留の棚は、もう、いっぱいだった。
衿に残って引かなかった熱。蜜豆を、いつの間にか満たしておく手。
いつもの距離が、もう半歩近くなる日。
彼の沈黙を「許し」と呼んだこと。「会いたい」とこぼれた夜。
全部、同じ場所に積み上がっている。
今——その名前が、ようやく分かった。
(……ああ)
その名前を、エリシアは知っている。
知っているのに。口にした瞬間、何かが変わってしまう気がする。
だから、まだ言わなかった。
けれど。
胸の奥は、もう答えを知っていた。




