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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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……怒っていますか

翌日、朝から何もしなかった。


いつもなら興味を引かれる始原の術式体系の記録も、今は読む気になれない。アステリアの記録を開くたび、「彼女もそうした」という事実が一つずつ積み重なる。


積み重なるほど、自分も「そうすること」が正しいという方向へ押し流されてしまいそうだった。


今は、読まない方がいい。


夜が来て、部屋が暗くなった。窓から月明かりが差し込む。


バングルを握ったまま眠った。


    *


夜半、静けさに気づいた。


部屋が——静かすぎる。


この数日、廊下には常に誰かの気配があった。一定の間隔で巡る靴音。扉の向こうに漂う人の熱。


今夜は、それがひどく少ない。


枢機卿(すうききょう)は?)


昨夜までは、ここにいたはずだ。


でも今は——気配が遠い。どこか別の場所へ移ったように感じられる。


(レリクトゥムに行ったのかもしれない。儀式の準備のために)


そこまで考えたとき、バングルがふいに温かくなった気がした。


錯覚かもしれない。それでも、何かが変わった。


    *


その静けさの中で、音がした。


正確には、音ではない。圧力の変化だ。空気が何かに押され、廊下の奥が遠く震えている。


エリシアは暗い部屋で身を起こした。


(何かが——来た)


理由はない。でも、確信がある。


扉の向こうから、これまでとは違う温度が伝わってくる。


    *


扉が開いた。


廊下の光が差し込み、金髪がその光を弾いた。


白に近い、鮮やかな金。


月と灯りが混ざる廊下に、ヴァレリウスが立っている。碧の目はまっすぐこちらへ向けられ、ほんの一瞬、何かを確かめるように止まった。


(来た)


驚きより先に、「やはり来た」という感触が胸へ落ちた。


(本当に、来た)


その瞬間、部屋の寒さが少し遠のき、胸の奥に沈んでいた重さもふっと軽くなる。

呼吸がしやすい。意識の余白を埋めていた雑音まで、一段階だけ遠ざかっていく。


なぜそうなるのかは分からない。


ただ、ここへ来てから初めて、大丈夫だと思えた。


「俺が何とかする」と、ヴァレリウスは言った。


根拠は、まだ示されていない。なのにこの数日、その言葉だけは疑わず、今も握りしめるように覚えている。


そして今、その言葉が、目の前に立っている。


頬が勝手に緩みそうになり、慌てて抑えた。


肌はもう、彼の波長を拾っている。


不思議なくらい滑らかな波長だ。

世界中の音と熱がうるさく押し寄せてくるこの聖域で、彼のものだけが、すっと一本、整った筋を通している。


それが部屋に踏み込んできた瞬間、ざわついていた意識の余白が——す、と、凪いだ。


(落ち着く)


理由は分からない。それでも、彼の波長が近くにあるだけで、世界の解像度がちょうどよくなる。


久しぶりの感覚に、エリシアの肩からは知らないうちに力が抜けていく。


「立てる?」


「立てます」


「行こう」


廊下の向こうから、足音が聞こえた。複数。遠い。


ヴァレリウスが右手を上げた瞬間、部屋の空気が圧力を持った。斥力の展開を、肌が捉える。窓枠がかすかに鳴った。


左手首を取られた。


    *


走った。


正確には、ヴァレリウスが滑るように進み、エリシアを引いている。斥力滑走は普通の走りよりずっと速い。足音が石床へ落ちる前に、次の一歩が来る。


聖騎士団の声がする。遠い。昨日より、数が少ない。


(やはり、本隊はもういない)


曲がり角を折れた。また折れた。


どこへ行くかは分からない。でも——


「エリシア」


名前を呼ばれた瞬間、抱き上げられた。


    *


ヴァレリウスの腕の中は、温かい。


その体温が、背中から腕へ均等に伝わってくる。


(——あ)


夢の中の熱だ。


聖域の夜に見た夢。誰かがすぐ近くにいた、あの夢。顔は見えなかった。けれど、残っていた熱はこの温度と同じだ。


頭より先に、体が知っていた。


目の前に、花の壁がある。石壁いっぱいに、結晶で象られたアステリアの花が凹凸を持って連なっている。


花弁の一枚ずつは無数の細線でかたどられ、その内側に光の骨格を透かせていた。演算は一瞬で、それを「転移門」と読んだ。


刻の栞(ときのしおり)。けれど、いつもの門とは形が違う。


ヴァレリウスは首飾りを取り出し、アメジストの石を壁の端の一輪へ押し当てた。


光が、折り畳まれた。


「目を閉じて」


閉じた。


光が来る。まぶたの向こうが白くなり、転移の眩暈(めまい)が全身を包む。足元が消える。方向もなくなる。


それでも、腕の温度だけはずっとそこにある。


消えない。


どこへ行くのか、何が起きているのかは分からない。


ただ、この腕がある限り大丈夫だと思える。理由はまだ分からない。確信だけがある。


    *


光が消えた。


けれど、足の裏に石の感触は戻ってこない。


エリシアは、まだヴァレリウスの腕の中にいる。下ろされてはいない。聖域の部屋から靴も履かずに連れ出された素足が、宙にある。


冷たい夜気が頬に触れ、エリシアは腕の中で目を開けた。


    *


古い石の回廊だった。


崩れかけた柱が、月明かりの中に並んでいる。床の石は内側からほのかに光り、遠い昔の術式の余熱をまだ覚えているように見えた。


空気もこれまでのどことも違う。重く、密度がある。肌の奥を、何かがかすかに引いていく。


(ここは……聖域じゃない。もっと、古い場所)


そして、もう一人いた。


「——テオ」


月光に紫を返す黒髪。灰色がかったアメジストの瞳。


弟のテオドールが、少し後ろに静かに立っている。


「姉様」テオドールが、小さく頷いた。「ご無事で、よかった」


なぜ弟がここにいるのかと問うより先に——分かった。


この二人は、エリシアの知らないところで、ずっと繋がっていたのだ。驚きよりも先に、また温かいものが込み上げてくる。


一人ではなかった。


あの聖域の夜、自分が一人で演算していた間も、外側ではこの二人が動いていてくれた。


    *


ヴァレリウスはエリシアを抱えたまま歩き始めた。下ろす素振りはなく、腕の力も緩まない。


けれど、その目はまっすぐ前だけを見ている。一度も、腕の中のエリシアを見下ろさない。


すぐ近くに、彼の顎の線がある。喉の動き。息の音。


これ以上ないほど近いのに、視線だけがどこか遠い。


(……目を、合わせてくれない)


なぜだろう、と考えた。


何かしてしまっただろうか。


あのとき黙って「承知しました」と答えたこと。「俺が何とかする」と言われたのに自分が折れようとしていたこと。


彼はどちらも知っていて、怒っているのかもしれない。


抱えられた腕の中から、その横顔を見上げた。


「……怒っていますか」


聞いた。


ヴァレリウスの足が、少し止まった。それでもこちらを見ない。答えはない。


沈黙が、古い回廊の中に落ちた。


「……やっぱり、怒っているんだ」


つい、小さく口に出してしまった。


返事は、なかった。ただ、抱える腕にほんの少し力がこもった気がする。


彼の左耳のピアスが、月明かりの中でかすかに熱を持ったように見えた。


気のせいかもしれない。


しばらくして、ふと気づいた。


怒っているのなら、それで説明がつくはずだ。


なのに、胸の奥に引っかかったものがまだ残っている。


(……違う)


うまく言葉にならない。


怒らせたことが気になるのではない。


ただ、こちらを見てくれない。そのことが、思っていたよりもずっと気になっていた。


    *


それでも。


不思議と寂しくはない。


触れ合う胸元から、彼の波長が直接伝わってくる。あの、滑らかな、整った筋。


世界中の音と熱がうるさいこの土地で、彼の波長だけが、すっと一本通っている。怒っているのかもしれない人の腕の中なのに、その鼓動はエリシアを安心させる。


(この人のそばは、落ち着く)


違う。落ち着く、それだけではない。


いなくなったときに寒かった理由を、エリシアはもう知っている。


見上げた横顔は、逃げている顔ではない。何か確かなものへ、意志を持って向かっている顔だ。


月光の中の、その輪郭が——少しだけ、かっこいい、と。思ってしまって。


(……今、私、何を考えたの)


慌てて、その思考にいつものように保留の札を貼ろうとした。


——貼れない。


保留の棚は、もう、いっぱいだった。


衿に残って引かなかった熱。蜜豆を、いつの間にか満たしておく手。


いつもの距離が、もう半歩近くなる日。


彼の沈黙を「許し」と呼んだこと。「会いたい」とこぼれた夜。


全部、同じ場所に積み上がっている。


今——その名前が、ようやく分かった。


(……ああ)


その名前を、エリシアは知っている。


知っているのに。口にした瞬間、何かが変わってしまう気がする。


だから、まだ言わなかった。


けれど。


胸の奥は、もう答えを知っていた。

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