ヴァレリウスが、いないんだ
朝、目が覚めた。
さっきまでの夢の感触が、まだ、どこかに残っている。切なくて、温かい、何か。けれど、思い出そうとすると、ほどけて消える。
手を伸ばして、髪に触れた。肩の少し下で、不揃いに終わっている。
(……そうだ。短くなったんだった)
昨日のことなのに、もう、ずいぶん前のように感じる。改修の代償。事実として、もう受け止めている。痛みはない。
ただ、背中が、少し寒い。腰まであった髪が覆っていた場所は、今は、何もない。
バングルを見た。石の色は、昨夜より少し戻っている。
窓から、細い光が差し込んできた。
*
その日の夕方、イグナティウスが再び訪ねてきた。
今日の入り方は、いつもと違った。扉を開ける前に一拍あり、顔を上げたとき、その目はいつもより穏やかに見えた。あの得体の知れない確信の熱は、今日は静かに落ち着いている。代わりに、何か別のものが満ちている。
(確信、だ)
「明後日——レリクトゥム・アステリアへ、令嬢をお迎えする時が満ちました」
エリシアは聞いた。
「始祖様が六百年前に遺されたものは——令嬢をお待ちしていたのです。始祖の記を完成へと導き、この国に遍く安定をもたらすことができるのは、この世に令嬢おひとりのみ。アステリア様の調律が、ようやく、その帰着点を見つけた」
「どうか、恐れないでください」イグナティウスの声は、慈愛に満ちていた。「これは、喪失ではございません。理から生まれた御方が、理へお還りになる——それは、貴女様ご自身の、帰還にほかなりません。この世に生まれた器が辿り着ける、最も高き祝福。国のためであると同時に……何よりも、貴女様ご自身のための、御業なのです」
言葉は穏やかで、礼儀正しい。
(「融合」は消えることだ)
宮廷の謁見で、確認した。「神聖な昇華」という言葉の意味を、エリシアはもう知っている。
(ヴァレリウスは何とかすると言っていた)
アステリアは、それをした。敗戦の後、海を渡って、一人で国を興した。そのために——自分を使った。
でも——アステリアには、「何とかする」と言った誰かがいたのだろうか。
(もし間に合わなかったら)
少し、考えた。ヴァレリウスが、テオドールが、大切な人たちが穏やかに生きていけるなら——そのときは、それでもいいと思う。でもそれは、本当に最後の話だ。今はまだ、その前だ。
今騒ぎを起こしたら、ヴァレリウスが動きにくくなる。
「承知しました」
声は、静かに出た。
*
イグナティウスが去った後、部屋が静かになった。
バングルを握った。石の温度が、少し低い。
エリシアは膝を抱えた。
嘘をついた、という感覚はない。騒ぎにはならなかった。それでいいと思う。
ヴァレリウスが「何とかする」と言ったのなら——今自分にできることは、その邪魔をしないことだけだ。
「俺が何とかする」
根拠のない言葉だ。なのに——あの声を信じた自分が、まだ、胸の中にいる。
膝を抱えたまま、いつのまにか、意識が落ちていた。
——くしゃみで、目が覚めた。
調律の記録に、頬を伏せていたらしい。顔を上げた。
誰もいない。
白い天蓋。整えられた聖遺物。活けられた白百合。煌びやかで、よく整った部屋。静かすぎて、自分の呼吸の音だけが返ってくる。
手を伸ばして、蜜豆の包みを探した。
——切れている。最後の一粒を、いつ口にしたのかも、思い出せない。
(……補充されていない)
当たり前だ。ここには、補充する人がいない。
部屋が、寒い。
(……寒い?)
おかしい、と思った。この部屋は魔法石で温度が一定に保たれている。数値の上では、寒いはずがない。それに——どんな殺風景な場所でも、寒いと感じたことは、これまで一度も、なかった。
何が違うんだろう、と演算した。室温。湿度。気流。寝起きの体温。どれも、これまでと変わらない。
——一つだけ、変わっていた。
(……ああ)
(ヴァレリウスが、いないんだ)
そう気づいた瞬間、ここ数日ずっと胸の奥にあった重さの正体が、少しだけ分かった気がした。
「ヴァレリウスに会いたい」
無意識に言葉が漏れ、そっと目を閉じた。
会いたい、というだけのことが。
どうしてこんなにも、胸を締めつけるのか分からなかった。




