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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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意図的な余剰、に見えます

聖域の朝は、音がない。


正確には——音はある。石の廊下を歩く靴音。遠い鐘の音。水が流れる気配。だが、それらがすべて等距離に届く。反響が多すぎて、方向が分からない。意識の余白がそれを全部拾おうとして、無駄に消費される。


(うるさい。落ち着かない)


寝台の端に腰を下ろして、バングルを見た。赤いしずくの石は、昨夜より少し暗い。光の加減——とは、もう言いにくい。


エリシアは膝を抱えた。


    *


二日目の朝、イグナティウスが来た。


白い法衣。整った所作。扉の前に立って、彼は礼をした。昨日より、わずかに深い。


「ご気分はいかがでしょうか」


「問題ありません」


「それは何よりです」彼は一拍置いた。「令嬢に——ぜひ、お目通しいただきたいものがございます」


羊皮紙(ようひし)の束が、両手で慎重に差し出された。分厚い。手に取ると、ずっしりと重い。


「建国の女神アステリアが残された始原の術式体系の記録です。建国の際にアステリア自らが書き記した調律の記録——始祖の記(しそのき)と呼ばれています。長年、誰もその深部を読み解けなかった記録が——令嬢をお待ちしていたのかもしれません」


エリシアはページをめくった。一行目を見た瞬間——(あ)


思考が、動いた。


    *


生光(せいこう)刻光(こくこう)造光(ぞうこう)が交差する記述を、エリシアは生まれて初めて見た。


正確には、三色が分離したまま並んでいる文献——流通している写本なら、何度も読んでいる。だが、これは違う。神殿が秘してきた原本、その深部だ。三色が互いに干渉し、補正し、共鳴しながら記録されている。建国の女神は——三原色を同時に扱っていた。なのに、体系はそれを"不具合"として処理している。


(なぜ不具合なんだろう)


「何か?」イグナティウスが聞いた。


「……三色の干渉パターンが、不具合として処理されています。でもこれは——」


「——続けてください」


エリシアはページを戻した。


「意図的な余剰、に見えます。不具合ではなく——三光の綴じ目を、意図的に残している?」


イグナティウスが、わずかに微笑んだ。


その笑顔の意味を、エリシアはまだ知らなかった。


    *


部屋に持ち帰り、読み始めた。


窓から光が一本だけ入っていた。その光を背中に受けてページをめくった。意識の余白が、全部ここに流れ込んでいくのが分かる。日常の処理——食事の時間、靴音の方向、空気の温度——それらの優先度が全部下がり、文字だけが残る。


面白い。


純粋に、そう思った。


三光の綴じ目で何が起きているか。体系はそれを「不具合」として弾いている。だが——アステリアは、そう処理されると知った上で、何かを残そうとしていた。それが何かは、まだ分からない。でも、分かりそうな気がする。


    *


昼を過ぎた頃、額が熱くなった。


(あ、これは——)


魔核の演算が限界を超えている。三色横断型の調律は、自身の魔力をすべて使う。意識の余白の99%ではなく——それ以上を引き出そうとしている。


(いけない、止めないと)


止めた。


深呼吸をして窓を見た。光が傾いている。気づかないうちに、もう夕方だ。


バングルを見た。


石が、どこか遠くで揺れているような気がする。錯覚かもしれない。


けれど。


(……今は、どうなっているんだろう)


初めて、そう考えた。


痛みが移っていることは知っている。でも、それがどの程度なのかは知らない。

熱だけが来る。痛みそのものは来ない。だから分からない。


第三の聖域のときは肩が落ちていた。

旧都では耳を押さえていた。


あれは、どれくらい痛かったんだろう。


今日、自分は一日中ここで本を読んでいた。では——その間、ヴァレリウスは何をしていたんだろう。


演算した。答えは出なかった。


見えない。分からない。


分からないままなのが、少しだけ嫌だ。


(……見えない)


その事実だけが、妙に落ち着かない。


    *


三日目の朝だったか、二日目の午後だったか——時間の感覚は、もう曖昧だ。


イグナティウスが、いつもと違う面持ちで現れた。

白い法衣。けれど今日の礼は、これまでのどれより深い。まるで祭壇に額づくようだ。


「アステリア様——いえ、エリシア令嬢。ついに、機が熟しました」


両手で、一枚の古い羊皮紙が、捧げ物のように差し出された。


「四つの聖域を束ねる、中央の結節点。全土の魔力を循環させる『中枢』の設計図でございます。長年、誰も四つの理を同時に繋ぐことはできなかった。ですが——真の器であられる貴女様ならば」


エリシアは羊皮紙を受け取った。一行目を見た瞬間、思考が動いた。


四つの聖域の結界が、中央の一点で衝突する構造だ。三色の干渉が、四重に折り重なっている。


(……ただの不具合じゃない。意図的な『特異点』だ)


読める。直せる。


四つの流れはすでに中央へ繋がり、今も互いに衝突している。


その瞬間、左手首のバングルがわずかに熱を持った。

反射的に視線を落とした。


(……これをやったら)


自分に生じる代償は計算できる。どこまでなら払えるかも分かる。


けれど、ヴァレリウスへ流れる痛みだけは計算できない。


そこで、演算が止まる。


バングルを外せば、彼へ流れる痛みは止められる。その代わり、和らいでいた感覚の歪みが戻り、思考に使える余白が減る。四つの聖域が重なる中枢を、余白の削られた思考で直せるとは思えない。


彼は、痛みが自分へ流れると知ったうえで、エリシアが演算できるようにとこの石を作った。けれど、どれほどの痛みまで引き受けるつもりだったのかは分からない。問うべき本人は、ここにいない。


(……痛ませたくない)


それだけは、もう分かっている。


だが、この中枢を残せば、四つの聖域を直しても、人の身体で歪みを補う仕組みは終わらない。誰かの代わりに彼があの場所へ立ち続ける。それを終わらせたくて、ここまで設計してきた。


ここで手を引けば、今日の痛みは彼へ流れない。その代わり、彼をあの役目から完全には降ろせない。


どちらを選んでも、彼をまったく痛ませずには済まない。


正しい答えは出ない。それなら、終わらせるための方を選ぶしかない。


「やります」


エリシアは設計図から顔を上げた。


囚われていることと、彼が背負わされた痛みを終わらせることは、別の問題だった。


    *


中央の聖域へ来るのは、二度目だ。

一度目は——あの、調律の日。祈祷師(きとうし)代理の補佐として、ヴァレリウスとともに、この場所に立った。


あの日、エリシアはここで「未完の旋律」を聴いた。第四結節の、欠陥を。


そして、二度目の今日。

囚われの身として、その欠陥を塞がせるために、連れてこられた。


外の白さは、あの日と同じく、嘘のようだ。


中は、黒い石。他の聖域と同じ、古い黒。六面を術式の溝が走り、中央に、腰の高さの、円い石の台。あの日と、何ひとつ変わっていない。


変わったのは——エリシアの立場だけではない。


あの日は、隣にヴァレリウスがいた。


今日はいない。


それだけなのに、部屋の共鳴が、少し違って感じられる。


エリシアが台に触れた瞬間、空間が、鳴った。


これまでとは、前提が違う。


アウロラ、ソリス、ボレアス、そして旧都。四つの聖域から、膨大な魔力の脈絡が、この一点へ向けて一気に雪崩れ込んでくる。単一の聖域ではない。四つが重なり合う、結節そのものだ。


光衣(こうい)が顕現する。部屋いっぱいに広がり、巨大な立体星図を組み上げていく。空間そのものが、エリシアの感覚器官になった。


四方向から迫る三色の光脈。それを同時に受け止め、干渉させず、一本の完璧なバイパスへ編み直す。


(足りない)


意識の余白を九十九パーセント注ぎ込んでも、まだ足りない。


その瞬間——左手首のバングルが灼ける。


腰まであった紫銀の髪が、ふわりと宙に浮いた。


三色の光脈に呼応するように、髪が解けていく。一本ずつ、「光の被膜」へと変換され、編み直しの素材として吸い上げられていく。


(……髪が)


何が起きているかは分かる。けれど、止める術はない。手は、台から離せない。


無数の星屑のような光が、散った。


(繋ぐ——第一と旧都を。第二と、第三を)


四つの聖域の魔力が、中央の一点で、完璧に噛み合った。


空間は眩い紫銀の光を放った。その共鳴が、長く、長く——歓喜の産声のように続く。


やがて、静かになった。


エリシアは台から手を離し、左手で髪に触れた。腰まであったはずの紫銀は——肩の少し下で、不揃いに終わっている。切り揃えられたのではない。そこから先だけが、ただ、なくなっている。


(……これが、代償か)


痛みはない。喪失感も、うまく分類できない。ただ、事実として、髪は短くなった。改修の対価として、自分の一部が、世界の(ことわり)に編み込まれた。それだけのことだ。


イグナティウスは、床に平伏している。


「……アステリア様」


その頬を、涙が伝っている。


「ご自身の一部を……理に、お還しになった」声が、震えている。「やはり、貴女様こそが——」


その先は言わなかった。けれど、エリシアには分かった。彼は今、確信したのだ。私が、理と一つになれる器だと。レリクトゥムで待っているものの意味が、彼の涙の中で、はっきりと形を持っている。


見上げる目に、もう品定めの色はない。満ちているのは、ただ、信仰だけだ。


(……私は、アステリアではないのですが)


その訂正を口にする気力は、今日はもう、残っていない。


    *


夜になった。


消灯の時間を告げる鐘が鳴り、エリシアは調律の記録を閉じて寝台に横になった。


石の壁を通じて、何かが聞こえる気がする。


音ではない。振動でもない。ただ——パルス、のようなものが。三色が混ざった、かすかな波長が。壁の向こうから、断続的に、届いている。


(世界の理が、動いている?)


目を閉じた。


その波長が、どこかヴァレリウスのピアスの響きに似ていると思いながら、左手で髪に触れた。肩の少し下で終わっている。


代償。その言葉が、浮かぶ。


(……私がこれなら)


演算が、そこで止まる。


自分が失ったものは、確認できる。短くなった髪。見えるし、触れられる。


でも、バングルの向こう側は——見えない。


もし今、彼が目の前にいたら。何が失われ、どれだけ痛んでいるのか、確かめられるはずなのに。


自分の代償だけが目に見えて、彼の代償だけが、見えない。


その一方通行が——今夜は、ひどく、不公平に思える。


    *


夢の中に、誰かがいた。


すぐ近くに。でも——触れていない。


音ではなかった。でも——音のように届いていた。魔核の奥の、どこかがかすかに鳴るような感覚。ずっと知っていた波長だった。いつも少し遠くにあって——今夜は、すぐそこにある。


声はなかった。


ただ、エリシアの髪に、何かが触れた気がした。


(……あ)


切なかった。温かかった。


それだけの夢だった。

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