これは強制力があるやつだ
その夜、エリシアは自室の机で、設計図を書き換え続けていた。
中央——最後の聖域の構造を、頭の中で何度も組み直す。融合理論の引っかかりも、まだ畳めていない。
(……あと、少し)
そう思った記憶が、最後だった。
——目が覚めた。
頬の下に、設計図があった。机に突っ伏したまま、眠っていたらしい。窓の外は、まだ暗い。
肩に、毛布が掛かっていた。
(……いつ)
掛けた記憶はない。自分で取りに行った記憶も、ない。
机の端に、茶が置かれていた。指で触れると、まだ温かい。冷め切る前だ。つまり——そう昔ではない。
その隣に、蜜豆の包みがあった。減っていたはずのそれが、また、満ちていた。
一粒、口に入れた。
甘かった。ちゃんと、甘い。
部屋に、ヴァレリウスはいなかった。
(……いない)
掛けられた毛布。まだ温かい茶。満ちた蜜豆。本人はいない。けれど、ここにいたことだけは、三つの痕跡が、教えていた。
毛布を肩から落とさないように、少し引き寄せた。
肩に残った重みが、あたたかかった。
(……この温かさは——)
分類しようとして、いつものように、保留にした。
ただ、保留にした項目が一つ増えたはずなのに、なぜか今夜は、それが、苦ではなかった。
*
聖騎士団は、その翌朝に来た。
伯爵邸の広い玄関ホールに、普段はそつのない老執事が顔を青ざめさせて立っていた。メイドたちが壁際に身を縮めている。その中央を、白衣の七人が静かに靴音を響かせて進んできた。声を荒げない。礼儀正しい。
「エリシア伯爵令嬢、神殿聖域への同行をお願いします」
(これは強制力があるやつだ)
枢機卿イグナティウスは——神官補佐であるエリシアの、直属の最高上司だ。神殿が管轄する職に就いている以上、その長の公式召喚を「断る」には相応の根拠が必要になる。礼儀正しく来ることで「断る根拠を奪っている」——その設計が、七人の白衣の後ろに透けて見えた。伯爵家の格があっても、神殿の公式大義名分を持つ相手に正面から抗えば、「不服従」という烙印が向こうに渡る。七人が礼儀正しければ正しいほど、こちらの選択肢は狭まる。使用人たちが縮んでいるのも、無理はない。この邸の誰もが、それを皮膚で知っていた。
ヴァレリウスが来ていた。どこにいたのかわからないが、気づいたら隣にいた。七人の騎士たちと、一瞬だけ——何かが起きた。見えない何かが部屋に満ちて、消えた。
ヴァレリウスは動かなかった。
エリシアは彼の横顔を見た。初めて見る表情だ。彼が——できない、という顔をしている。
「ヴァレリウス」
名前を呼んだら、碧の目がこちらを向いた。
言葉が出なかった。何を言えばいいかわからなくて、バングルを握った。石の感触が、少し冷たかった。
騎士たちに促されて、エリシアは歩き始めた。
振り返ったとき、ヴァレリウスがまだそこにいた。動かないまま、ただ見ていた。
(……何とかする、と言っていた)
だから問題はないはずだ。
なのに演算のどこかが、うまく静まらなかった。
*
与えられた部屋は——冷たくなかった。
白い天蓋が頭上に広がっていた。厚い絨毯が石の床を覆い、棚には聖遺物の小像が整然と並んでいた。香炉の残り香が空気に溶け、花台には白百合が活けられている。
(……牢、ではない)
エリシアは部屋の中央に立ったまま、少し考えた。最高位の祈りの間に置かれるような調度品だ。それが——なぜか、冷たい石の床より、ずっと落ち着かなかった。
寝台の端に腰を下ろして、バングルを見た。
石が、暗い。
(昨日より確実に、暗い)
光の加減じゃないかもしれない——考えかけて、やめた。今夜は余白が足りない。
天蓋付きの寝台に横になって、目を閉じた。
*
夢の中に、熱があった。
誰かが——遠いところで、燃えている。声はない。ただ熱い。焼けている。焼けて、焼けて——
朝、目が覚めた。夢の内容が思い出せない。
バングルを見た。石の色が、昨日より少し暗い気がする。
(光の加減、かな)
細い窓から差し込む光を見た。
ヴァレリウスが「何とかする」と言っていた。
それをまだ、信じていた。




