……私は、死ぬつもりはないんですが
専属の侍女が、紫銀の髪を結い上げようとした。
今日は難しかった。演算負荷が朝から重く、背景で何かを処理し続けている。集中した状態で姿勢を一定に保つことが、うまくできなかった。鏡の前で侍女の手が動くたびに、演算の余波で身体の位置が微妙にずれた。二度試みて、二度とも侍女の作業を途中にさせた。
「今日はそのままでいいわ。ありがとう」
流すように言って、手を引かせる。気遣って——というより、自分のせいで余計な手間をかけるのが申し訳なかった。
ゆるやかなウェーブが、背中にそのまま落ちた。
部屋を出ようと扉を開けた瞬間——廊下に、人がいるのに気づいた。
(……え)
ヴァレリウスがいた。壁に寄りかかるでもなく、ただ立っていた。金髪が朝の薄い光を受けている。碧の目が、扉の開いた瞬間にこちらを向いた。驚いた顔はしていない。最初からここにいた、という静けさだった。
(いつから?)
演算の余白でざっと確認した。彼が廊下に立っている理由の計算が、すぐには出なかった。
「ヴァレリウス? こんな朝早くに、どうしたんですか」
「昨夜から来ていたよ」
昨夜から。深夜から、ここにいた——その情報を処理しようとして、余白が足りないと判断した。説明を要求するより先に、口が動いた。
「……朝食、よければ一緒にとりますか?」
「ありがとう」
アルスタ伯爵邸の朝食室は、暖かかった。
南向きの大きな窓が三枚。白石のアーチ天井。壁に嵌め込まれた魔法石が、外の季節とは無関係に室内を均一な温度に保っている。秋の薄曇りの光が窓から差し込み、磁器の皿の縁で白く弾けていた。給仕が音もなく動いている。演算の余白でその動線を無意識に追い、「次は水差しが来る」と予測した瞬間、水差しが来た。
向かいの席に、ヴァレリウスがいる。彼はお茶だけを頼んで、食事はとらなかった。給仕が来るたびに軽く頷くのを、演算の端で処理しながら、朝食の席についた。
テオから手紙が来ていた。「姉さん元気? 変わりない?」という内容だった。テオドールは今学期から王立貴族院学校の全寮制課程に入っている——王都のすぐ近くにある広大な学院敷地に寮があり、週末には大抵顔を出すが、今週は行事があるとかで手紙が届いた。元気ですと返事を書きながら——なぜか少しだけ、嘘をついた気がした。
*
朝食が終わる頃に、ヴァレリウスが向かいから言った。
「今日は神殿へは行かないでくれるかな」
「……午前に、調律の実務が予定されています」
「使いが来るよ」
それだけだった。根拠は示さない。だがこれまでの七年間で、彼が「こうなる」と言ったことが外れた記憶がなかった。
「わかりました。あなたがそう言うなら」
出仕の支度を止めた。邸の中で、演算を続けながら時間が過ぎた。
*
朝の光が柔らかくなった頃、玄関の方から声がした。
廊下を進むと、扉の前に見知らぬ顔が三つ並んでいる。
「エリシア伯爵令嬢、このたびはご連絡もなく、大変失礼いたしました。実は令嬢のご健康を案じまして、より安全な場所でお過ごしいただければと……」
長い前置きを聞きながら、エリシアは返答の選択肢を並べ始めた。相手は穏やかな笑顔だ。礼儀も正しい。なのに目の奥が——私という「人間」を見ていない。私の後ろにある何かを確認しにきたような、静かで正確な視線だった。
「お引き取り願おうか」
背後から、声がした。
振り返ると、ヴァレリウスがいた。
廊下の奥に立っていた。金髪が朝の光を受けて色を変える。白に近い、鮮やかな金。碧の目が、三人をまっすぐ見ている。声は穏やかで、低く、静かで、笑みさえ含んでいた。
なのに三人は揃って、半歩後退した。
(いつの間にあそこへ移動していたんだろう)
足音がまったくなかった。影が移動するように廊下の奥に立っていた——斥力を使えばそれができると、頭の片隅で処理した。今は必要のない計算だった。
*
十分後、三人はいなくなっていた。
「どうして、彼らが今日この邸に来るとわかったんですか」
「昨日から来ると思っていた」
「……なぜ」
ヴァレリウスは答えなかった。かわりに「腕を」と言った。
理由を問う間もなく、左手首を彼の手が包んだ。バングルの具合を確認しているのかもしれない。手のひらが温かい。いつもより少し高い気がする。でも彼がそうするなら何かの理由があるのだろう、とエリシアは思った。その確信に、根拠はない。
バングルを見下ろした。赤いしずくの石が、窓の光の中で——
(……あれ、少し色が変?)
光の加減かな、と思ったとき、ヴァレリウスが「宮廷への召喚状が来る」と言った。エリシアは石のことを忘れた。
*
召喚状は翌日届いた。
枢機卿イグナティウスの署名。ルミナリス神聖王国の宗教印章。「エリシア・フォン・アルスタ伯爵令嬢の魔核状態に関する公式確認のため」という文言。
「行く理由が、見当たらない気がしますが」
「行かなければ、向こうが来るよ」
「来てもいいのでは」
「来た場合の手段が、これより穏やかじゃなくなるからね」
エリシアはそれを聞いて、「なるほど」と言った。合理的だった。
*
宮廷は広すぎた。
石の廊下が続いて、天井が高くて、どこを歩いても自分の足音が返ってくる。意識の余白がその反響を全部拾ってしまって、耳の奥が少し痛い。
謁見の間に入った瞬間、玉座に人がいた。
白髪交じりの、穏やかな顔の男性。国王が直接この場に出てくることは珍しいはずだ——という記憶が、脳の片隅にある。
その目が、エリシアを見た。
温かい目だ。けれど、その奥に、何か重いものが静かに沈んでいる。値踏みでも、品定めでもない。かといって、祈る者が女神を見る目とも違う。
「よく来てくれた、エリシア令嬢」
王の声は、静かだ。
それだけだった。
それ以上、王は何も言わなかった。言葉を探しているようには見えない。むしろ、言わないことを選んでいるように見える。
理由は分類できない。けれど、その沈黙には重さがある。エリシアは礼をした。その重さが、しばらく肩に残った。
*
部屋の端に、枢機卿がいた。
白い法衣。整えられた銀の指輪。長い指。
その目が、エリシアを見た。
(——この目は)
嫌だ、と思った。言語化できなかったが、身体の方が先に知っていた。この目は——自分を「人間」として見ていない。でも軽蔑でも、値踏みでもない。もっと違う何か——長年探し求めていた答えをそこに見つけた、という熱を帯びた確信の目だった。崇めるような、恍惚としたような。それがかえって、言葉にできないまま、恐ろしかった。
バングルを通じて何かが一瞬強くなった気がして、エリシアは左手首を押さえた。
「エリシア伯爵令嬢は」イグナティウスが口を開いた。声は穏やかだった。柔らかく、整っていた。「生光・刻光・造光の三原色——アニマ・クロノス・ファブリカの交点に立つ、きわめて稀有なお方でいらっしゃいます」
「……ありがとうございます」
「これは称賛ではなく、事実の確認です」彼は微笑んだ。「我が国の建国の女神は、まさにその交点において始原の調律体系を築かれました。けれど、それは——いまだ、完成を見ていない。完成には、同じ交点に立つ純粋な造光の器が要る。その器が自ら世界の理と融合することで、始原の調律は、ついに完成する」
「融合というのは」エリシアは考えながら言った。「つまり術者の魔核が世界の理へ完全に移る——ということでしょうか。それは実質的に——」
「神聖な昇華です」
(……消える、ということでは?)
学術的な仮説として面白い。でも何かが引っかかる。その引っかかりを言語化しようとしたとき、隣でヴァレリウスが、わずかに動いた。
それだけで、黙った。
*
宮廷の長い石段を下りた。ヴァレリウスが先に立ち、待たせていた馬車の扉を開けた。
乗り込んで、扉が閉まる。車輪が石畳を鳴らし始めた。馬車の揺れが、意識の余白に染み込んでくる。窓の外を王都の石造りの建物が流れていく中で、エリシアはヴァレリウスに聞いた。
「『融合』って、つまり死ぬということですよね」
「そうだよ」
「枢機卿は、それを私にやらせようとしている?」
「現段階では言っていない。だがそういう設計だ」
エリシアは少し黙った。車輪の音だけが、密閉された空間に続いた。
「……私は、死ぬつもりはないんですが」
「俺が何とかする」
根拠がない言葉だった。なのにまったく疑わなかった。彼が言うなら、そうなのだと思った。




