↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/70

これは——私ですか

腕を、引かれた。


息つく間も、なかった。


唇が——触れた。


    *


世界が、止まった。


音が消えた。廃墟の風も、イグナティウスの息遣いも、ヴォイドの干渉音も、騎士たちの足音も、全部——消えた。


そして、波長の引きが、断ち切られた。あれほど強く呼んでいた穴の声が、ふっと、遠のいた。


バングルが、熱くなった。


温かい、ではない。熱い。これまでで一番の温度だ。指先から肩まで、一気に走った。


そのとき——脳を焼いていた熱が、変わった。


聖域に入ってから三日間、三原色横断型の解読で溜め続けた演算の熱。夢の中に流れ込んできた、あの「燃えている」感触。それらが全部——この一点から、上書きされていく。


焼けるような熱から、満ちるような熱へ。


消えるのではなく——正しい温度に、直っていく。まるで、体の中心にある何かが「これが正しい温度だ」と認識したように。


(苦みが——)


苦みが、引いていく。


夜会の馬車で感じた、琥珀(こはく)の塩蜜豆のノイズと、バングルをつけた日に「甘い、ちゃんと甘い」と思った、あの瞬間を思い出す。あのときより、もっと遠くまで——苦みが、退いていく。毒が体の隅々から引き上がっていくように。世界の輪郭から、長い間そこにあった何かが、静かに消えていく。


(——演算が、止まった)


一秒の中で。


(この人は)


ヴァレリウスが、私を「変数」として扱ったことが、一度でも、あっただろうか。


手首を取った。バングルを確認した。「行かなければ向こうが来る」と言った。「俺が何とかする」と言った。聖域に踏み込んできた。ポルタを通り抜けた。


抱き上げたままで、ここまで来た。


全部。全部——自分のためだった。


その事実が、今さらのように、胸の奥へ落ちていく。


(どうして)


演算では、答えが出ない。合理性が、足りない。


聖域に入る必要はなかった。ここまで来る必要もなかった。


もっと早い段階で切り捨てる選択だって、できたはずだった。


なのに。この人は、来た。


ずっと。こちらへ向かって来ていた。


(私のために)


胸が、痛い。


苦しいのに。


その痛みを、失いたくない。


あの沈黙は、怒りではなかった。


言葉にできないものを抱えたまま、それでも前へ進んでいた沈黙だった。


一度も——私を切り捨てる答えを、選ばなかった。


一度も、「失っても構わないもの」として見ていなかった。


それどころか。


消えないように。壊れないように。失わないように。ずっと、手を伸ばしていた。


(……どうして)


答えは、もう、分かり始めている。


けれど。


その答えを認めてしまうのが、少しだけ怖い。


    *


ゆっくりと唇が離れた。


バングルは、まだ熱を残している。


世界に、音が戻っている。風が吹いている。ヴォイドが唸っている。遠くで、誰かの叫ぶ声。


そして——自分の足が、もう、ヴォイドに引かれていないことに気づいた。


    *


ヴァレリウスがヴォイドに右手を向けると、その指先から結晶が生まれ始めた。


かすかな音だ。


造光(ぞうこう)が展開するときの、空気が結晶化するような音。


光が集まる。形になる。


輪郭が生まれる。紫銀の髪。アメジストの瞳。細い肩。白い指先。


少しずつ、少しずつ。


自分と同じ姿が、光の中に組み上がっていく。


(……私だ)


息をするのも忘れて、見ていた。


「これは——私ですか」


「そうだよ」


「本物と、同じですか」


「ヴォイドには、見分けられないよ」


静かな返答だ。


当たり前のことを言うみたいに。そこに迷いはない。


エリシアは、光の中の自分を見た。


もう一人のエリシア。


もし何もなければ。あのヴォイドへ向かっていたのは、自分だった。


消えるはずだったのは、自分だった。


(これが私だったかもしれない)


その思考が、胸の奥へゆっくり沈んでいく。


(でも)


(私は、ここにいる)


そのとき、違和感に気づいた。


光を操るヴァレリウスの髪が、少しずつ色を失っている。


最初は、光の加減だと思った。けれど、違う。

根元からだ。鮮やかな金が、雪が積もるみたいに、静かに白へ変わっていく。


一本。また一本。光を割るような白。プリズムの欠片みたいな色。


それが、確かに増えている。


(——あ)


知っている。この、色が抜けていく感じを。代償だ。


何かを差し出した者の、しるし。


でも——私のときとは、違う。


私の髪は、ただ失われた。理へ編み込まれて、戻らなくなっただけ。


これは違う。ただ失われて"終わる"のではない。何か別の現象だ。


演算を走らせる。


仮説を立てる。


組み上げる。


途中で止まった。


いや。


止めた。


自分で。


その先だけは考えてはいけないと、本能が拒絶した。


分かるのは一つだけ。


これは危険だ。


髪の色だけでは終わらない。もっと何かが失われている。


そしてそれは、決して軽い代償ではない。


胸の奥が、冷える。


この人は。また、払っている。


今、この瞬間にも。私のために。


何を。どれだけ。どうやって。


答えは出ない。


けれど、このまま続けてはいけないという感覚だけが、強く残っている。


胸が苦しい。自分の髪を失ったときよりも、ずっと。


「……だめです」


声が出た。


何がだめなのか、自分でも説明できない。


けれど。


「それ以上は」


それだけは言わなければいけない気がする。


ヴァレリウスは手を止めなかった。


金が消える。白が増える。


一本、また一本。


何かが失われていく。


その事実だけが、はっきりと分かる。


何を止めればいいのかも分からない。


もう始まっている。もう失われている。それなのに。止めたい。これ以上、失ってほしくない。


ヴァレリウスは答えなかった。


ただ指先を動かし続けた。結晶の中のエリシアは、なおも形を得ていく。その横顔は静かだ。


苦痛も、後悔も、躊躇(ちゅうちょ)いも見えない。


だから余計に——苦しい。


「……間に合った」


声はかすれている。それでも、安堵していることが分かる。


世界が救われるからではない。


理が完成したからでもない。


ただ、エリシアが間に合ったから。


消えずに済んだから。


そう聞こえた。


    *


結晶のエリシアが目を開いた。


完成した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。