これは——私ですか
腕を、引かれた。
息つく間も、なかった。
唇が——触れた。
*
世界が、止まった。
音が消えた。廃墟の風も、イグナティウスの息遣いも、ヴォイドの干渉音も、騎士たちの足音も、全部——消えた。
そして、波長の引きが、断ち切られた。あれほど強く呼んでいた穴の声が、ふっと、遠のいた。
バングルが、熱くなった。
温かい、ではない。熱い。これまでで一番の温度だ。指先から肩まで、一気に走った。
そのとき——脳を焼いていた熱が、変わった。
聖域に入ってから三日間、三原色横断型の解読で溜め続けた演算の熱。夢の中に流れ込んできた、あの「燃えている」感触。それらが全部——この一点から、上書きされていく。
焼けるような熱から、満ちるような熱へ。
消えるのではなく——正しい温度に、直っていく。まるで、体の中心にある何かが「これが正しい温度だ」と認識したように。
(苦みが——)
苦みが、引いていく。
夜会の馬車で感じた、琥珀の塩蜜豆のノイズと、バングルをつけた日に「甘い、ちゃんと甘い」と思った、あの瞬間を思い出す。あのときより、もっと遠くまで——苦みが、退いていく。毒が体の隅々から引き上がっていくように。世界の輪郭から、長い間そこにあった何かが、静かに消えていく。
(——演算が、止まった)
一秒の中で。
(この人は)
ヴァレリウスが、私を「変数」として扱ったことが、一度でも、あっただろうか。
手首を取った。バングルを確認した。「行かなければ向こうが来る」と言った。「俺が何とかする」と言った。聖域に踏み込んできた。ポルタを通り抜けた。
抱き上げたままで、ここまで来た。
全部。全部——自分のためだった。
その事実が、今さらのように、胸の奥へ落ちていく。
(どうして)
演算では、答えが出ない。合理性が、足りない。
聖域に入る必要はなかった。ここまで来る必要もなかった。
もっと早い段階で切り捨てる選択だって、できたはずだった。
なのに。この人は、来た。
ずっと。こちらへ向かって来ていた。
(私のために)
胸が、痛い。
苦しいのに。
その痛みを、失いたくない。
あの沈黙は、怒りではなかった。
言葉にできないものを抱えたまま、それでも前へ進んでいた沈黙だった。
一度も——私を切り捨てる答えを、選ばなかった。
一度も、「失っても構わないもの」として見ていなかった。
それどころか。
消えないように。壊れないように。失わないように。ずっと、手を伸ばしていた。
(……どうして)
答えは、もう、分かり始めている。
けれど。
その答えを認めてしまうのが、少しだけ怖い。
*
ゆっくりと唇が離れた。
バングルは、まだ熱を残している。
世界に、音が戻っている。風が吹いている。ヴォイドが唸っている。遠くで、誰かの叫ぶ声。
そして——自分の足が、もう、ヴォイドに引かれていないことに気づいた。
*
ヴァレリウスがヴォイドに右手を向けると、その指先から結晶が生まれ始めた。
かすかな音だ。
造光が展開するときの、空気が結晶化するような音。
光が集まる。形になる。
輪郭が生まれる。紫銀の髪。アメジストの瞳。細い肩。白い指先。
少しずつ、少しずつ。
自分と同じ姿が、光の中に組み上がっていく。
(……私だ)
息をするのも忘れて、見ていた。
「これは——私ですか」
「そうだよ」
「本物と、同じですか」
「ヴォイドには、見分けられないよ」
静かな返答だ。
当たり前のことを言うみたいに。そこに迷いはない。
エリシアは、光の中の自分を見た。
もう一人のエリシア。
もし何もなければ。あのヴォイドへ向かっていたのは、自分だった。
消えるはずだったのは、自分だった。
(これが私だったかもしれない)
その思考が、胸の奥へゆっくり沈んでいく。
(でも)
(私は、ここにいる)
そのとき、違和感に気づいた。
光を操るヴァレリウスの髪が、少しずつ色を失っている。
最初は、光の加減だと思った。けれど、違う。
根元からだ。鮮やかな金が、雪が積もるみたいに、静かに白へ変わっていく。
一本。また一本。光を割るような白。プリズムの欠片みたいな色。
それが、確かに増えている。
(——あ)
知っている。この、色が抜けていく感じを。代償だ。
何かを差し出した者の、しるし。
でも——私のときとは、違う。
私の髪は、ただ失われた。理へ編み込まれて、戻らなくなっただけ。
これは違う。ただ失われて"終わる"のではない。何か別の現象だ。
演算を走らせる。
仮説を立てる。
組み上げる。
途中で止まった。
いや。
止めた。
自分で。
その先だけは考えてはいけないと、本能が拒絶した。
分かるのは一つだけ。
これは危険だ。
髪の色だけでは終わらない。もっと何かが失われている。
そしてそれは、決して軽い代償ではない。
胸の奥が、冷える。
この人は。また、払っている。
今、この瞬間にも。私のために。
何を。どれだけ。どうやって。
答えは出ない。
けれど、このまま続けてはいけないという感覚だけが、強く残っている。
胸が苦しい。自分の髪を失ったときよりも、ずっと。
「……だめです」
声が出た。
何がだめなのか、自分でも説明できない。
けれど。
「それ以上は」
それだけは言わなければいけない気がする。
ヴァレリウスは手を止めなかった。
金が消える。白が増える。
一本、また一本。
何かが失われていく。
その事実だけが、はっきりと分かる。
何を止めればいいのかも分からない。
もう始まっている。もう失われている。それなのに。止めたい。これ以上、失ってほしくない。
ヴァレリウスは答えなかった。
ただ指先を動かし続けた。結晶の中のエリシアは、なおも形を得ていく。その横顔は静かだ。
苦痛も、後悔も、躊躇いも見えない。
だから余計に——苦しい。
「……間に合った」
声はかすれている。それでも、安堵していることが分かる。
世界が救われるからではない。
理が完成したからでもない。
ただ、エリシアが間に合ったから。
消えずに済んだから。
そう聞こえた。
*
結晶のエリシアが目を開いた。
完成した。




