この人に、私のせいで、苦しんでほしくない
第四の聖域は、旧都にある。
そのことは設計図で知り、地図の上でも確認していた。けれど、地図の上の「旧都」と、実際にそこへ向かう馬車の中とでは、感じる重さが違う。
刻の栞を抜けた直後、空気が変わった。夏の熱は薄れ、風が少しだけ鋭い。夏の終わりに秋の始まりが混じる、季節の境目の空気だ。
ここは、この国が生まれた場所だ。アステリアが最初に降り立ったとされる海岸線に近い西の古都で、長い歴史が石の下に積み重なり、空気の密度が王都とは違う。
演算を走らせ、旧都の聖域の設計図をもう一度最初から確認した。基本構造は、第一・第二・第三と同じ四層歪みのはずだ。
(……のはず)
「のはず」という部分が、少し引っかかる。第三の聖域のときにも同じ感覚があり、あれは予感どおり深度が違った。今度は——
左手首のバングルに触れた。
外すことは、一度考えた。これを使えば、演算の負荷は彼へ流れる。それを知ったまま使うことが正しいとは、まだ思えない。
けれど、彼は自分で設計し、自分で選んだ。そして問えば、今度は嘘をつかなかった。
その選択をなかったことにして、何も言わずに外すのも違う気がする。
少なくとも、未知の聖域へ触れる直前に条件を変えるべきではない。
エリシアは留め具から指を離した。
結論は、まだ出ない。
ヴァレリウスは馬車の向かいに座っている。今回は移動から一緒で、最初から別の経路を取らず、同じ馬車でここまで来ている。
向かいから視線を感じ、エリシアは尋ねた。
「なんですか」
「なんでもないよ」
「見ていましたよね」
「うん。設計図を確認しているなら、声に出した方が速いかもしれない」
エリシアは少し考え、「そうですね」と答えて、頭の中の設計図を言語化し始めた。
*
旧都の石造りの建物は、王都より色が暗い。
何百年も前の石積みが時間の重さを吸い込み、黒みがかった灰色になっている。その中を馬車で通ると、窓から入る光まで少し重くなる気がする。
市場には屋台が並び、野菜が積まれていた。形もよく、瑞々しい。けれど値札が違う。王都の十分の一、あるいはそれ以下の価格だ。買い求める人々の姿が、この場所のことを説明している。何年も洗い続けた上着と痩せた指を見れば、北の流刑地から運ばれてくる作物だと、演算しなくても分かる。
(……構造として、知っていた)
この国の豊かさが、何の上に成り立っているか。エリシアはそれを「設計図」として知っていた。けれど「窓から見える」という形で確認するのは、今日が初めてだ。
(……今は、設計図に戻る)
「旧都の聖域……第三と同じ四層構造の設計図ですが、なんとなく——」
「何が引っかかってる?」
「建国当初の記録が少ないです。第一・第二・第三は後代の文献で補完された記録があります。でも旧都は——ほぼ建国時の原本だけで、現存する文献の解像度が低いのです」
「つまり」
「実際に触れてみるまで、正確なことがわからない、ということです」
ヴァレリウスが窓の外へ目を向ける。近づく旧都の街並みをひと呼吸だけ確かめてから、エリシアへ視線を戻した。
「分かっていることだけで行こう。あとはその場で修正できる」
「はい。演算しながら、修正します」
「うん」
それだけだった。
*
市場の通りを抜けると、表向きの聖堂があった。その奥の森はこれまでのどれよりも暗く、木々の幹が太い。空を塞ぐ密度が違う。旧都の黒い石の続きのように光が届かない森を、馬車でおよそ十五分進む。最奥に、旧都の聖域があった。
*
四度目の黒い立方体が、森の奥に立っていた。
だが、それを覆うアステリアの花は、これまでのどれとも違う。白も、金も、青紫も、もう分かちがたく溶け合っている。最も古い聖域だからだろうか、原初の三色が一つの大輪に編み込まれたまま、ほどけずにいる。けれど、その色はどこか退き、灰銀がかってくすんでいる。三色が交わるはずの核心点のアメジストさえ、淀んで見える。
副花冠を走る光糸はここが最も濁り、その明滅は詰まり、飛び、長く遅れている。和音は、もう軋みに近い。
(……一番、痛がっている。まるで、眠りかけているみたいに)
人がいた。
白い法衣をまとい、長い指に銀の指輪を嵌めた背の高い白髪の男が、聖域の入口に静かに立っている。
(——枢機卿だ)
資料で見た顔だ。けれど実際に目の前に立つと、資料から受けた印象とは違う。
目が、静かだ。
静かではあるが、それはある種の物体を見るときの静けさだ。正確に観察し、使途を確かめ、信仰の方程式へ何かを当てはめている。
「エリシア・フォン・アルスタ伯爵令嬢」
声は穏やかで、よく整った礼儀正しい響きをしている。
「始祖の聖業の再演——まさにこの日を、長きにわたりお待ちしていました」
エリシアは返答の選択肢を整理した。「ありがとうございます」が一番無難だ。でも「長きにわたり」というのは何年か。それを確認するのは——
隣でヴァレリウスが微笑んだ。穏やかで礼儀正しいが、笑っているのは口元だけだ。
「枢機卿閣下。本日は遠路、ようこそいらっしゃいました」
声は柔らかく、温かい。
目は、笑っていない。
エリシアはそれを観察して、何かを分類しかけて——やめた。「ありがとうございます」と言って、聖域に向かって歩き始めた。
その瞬間、ヴァレリウスが一歩だけ、間に入った。
エリシアと枢機卿の視線のあいだに自分の体を割り込ませるような一歩。自然に見えるが、そこに意図があることは分かる。
(……守っている)
枢機卿の視線から、私を遠ざける位置取りだ。第二の聖域のときにも、こういう動作があった。一定の距離を保ったまま、外からの視線だけをさりげなく遮る動きだ。
(……いつもより、少し近い)
いつもの距離より、今日はわずかに近く感じる。
*
黒石の回廊を抜けると、調律室があった。窓はなく、中央の術式台を囲むように、床へ曼荼羅の魔法陣が刻まれている。光源は、壁の術式溝から滲む三色の燐光だけだ。
枢機卿は入口の辺りに留まっている。中へは踏み込まず、けれど立ち去りもせず、ただ見届けるつもりらしい。
エリシアが台へ歩くと、その背と枢機卿の視線のあいだに、ヴァレリウスが自然に立った。そこは半歩外側で、枢機卿の目からエリシアの手元がちょうど死角に入る位置だ。
(……また、間に入っている)
それだけ分類して、台に向き直った。
台に触れた。
空間が、鳴った。
第三の聖域の発動を経験していても、旧都は別物だ。
第三の光が「強い」なら、旧都の光は「深い」。白い光が空間を満たすのではなく、空間そのものが光になる感覚。陣が、自らの光衣への門を開いた。顕現した光衣が部屋いっぱいに広がり、壁と床と空気の境界が溶けて——空間そのものが、エリシアの感覚器官になっていく。
演算を開始した。
第一層——確認。
(予想と一致。これは第三と同じ四層構造の、最初の層)
第二層——入る。
(——あれ)
止まった。
止まったが、台から手を離さなかった。
第二層の内部に、通常の四層構造にはない「補助骨格」が走っている。設計図にはない。アステリアが現場で追加したのだろうか。補助骨格は複雑な形をしている。けれど——
(……四層じゃない)
第二層の骨格を追っていくと、その内部に、また別の層がある。
六重だ。
表面は四層に見えるが、第二層と第三層の間に、建国原本には記録されていない「隠れた二層」がある。アステリアが意図的に隠したのかもしれない。時間とともに自然発生した層なのかもしれない。
(今、確認している時間はない)
設計図を、頭の中で書き換えた。
四層用の手順を——六層対応に改める。数秒以内に。台から手を離さずに。演算の密度を維持しながら。
第二層の補助骨格を逆に利用する。骨格の走り方が独特だから、逆算して結節点を探す——
(——ある)
第三結節の手前に、隠れた結節があった。
設計は変わったが、行けると思った。
演算を全力で走らせた。
*
空間の中で、光が増えた。
第一・第二・第三のときにも光はあったが、今日は立体星図が六重に折り重なっている。生光と刻光と造光が交差して三色の光弁が空中に展開され、その内側にまた光弁が咲き、さらにその内側にも咲いていく。万華鏡。
旧都の石壁は光の色を受け取って変わり、白、金、蒼の三色が交互に石面を走った。
左手首が、熱い。
バングルだ。いつもより、ずっと熱い。その熱が今、彼に行っている。ヴァレリウスの顔が、一瞬よぎった。
それでも止められない。今、手を離せば、この六層が崩れる。
止めたくても、止めてはいけない。手は、離さなかった。
第五結節——接続。
(第六——)
第六結節の設置点を計算した。ここだ。
置いた。
逆流は第三の聖域よりも強く、数百年の歪みが変化を拒む波となって腕を走った。バングルが熱い。いつもより強い。それでも——
手を離さなかった。
(——もう少し)
第六結節——接続完了。
光が変わった。
今まで三色に分かれていた格子が一瞬アメジストへ溶け、三色が統合されて一つの光になった瞬間、石の壁が鳴いた。
今まで聞いたどの音とも違う。低く、深く、建物の石そのものが共鳴しているような音だ。長い。ずっと長い。旧都の石が、何百年ぶりかに呼吸する音のような——
静かになった。
*
エリシアは手を離した。
「……終わった」
振り返った。
ヴァレリウスは部屋の端に立っている。立ち方も、穏やかな顔もいつも通りだ。だが、左耳を一度だけ指で押さえた。その動作を、エリシアは見た。
(……また、行っていた)
バングル経由の痛みが、ヴァレリウスの方へ行っている。前回より強い。六層を通過したからだ。想定より、ずっと重い。
(……謝る、では、足りない気がする)
謝罪は、たぶん、自分の気が済むだけだ。そうじゃない。
(——この人に、私のせいで、苦しんでほしくない)
初めて、はっきりと、そう思った。自分が痛い思いをするのは、いつだって構わなかった。でも、彼が痛いのは——違う。それは、自分が痛いより、ずっと、嫌だった。
その感情を分類する間もなく——部屋の入口で、音がした。
振り向いた。
枢機卿イグナティウスが、そこにいた。
いつ入ってきたのかわからなかった。聖域の外で待つのではなく——演算の途中から、中にいたのかもしれない。白い法衣が、アメジストの残光の余韻を受けて輝いていた。
その目が——
変わっていた。
エリシアは確認した。あの「品定め」の静かさは消えている。代わりに満ちているものは——
(……信仰、だ)
——膝をついた。
枢機卿イグナティウスが、旧都の石床に、膝をついた。
長い指が組まれた。頭が下がった。声が来た。
「——アステリア様」




