あなたに、行っていたんですか
「……何かあった?」
ヴァレリウスが、いつもの声で言った。
エリシアはしばらく答えず、言葉を選んでいた。正確には、質問の形を探していた。聞きたいことは分かっているのに、その聞き方がまだ出てこない。
「その痛みは——」
言いかけて、続けた。
「あなたに、行っていたんですか」
部屋が静かだった。
ヴァレリウスがこちらを見た。一秒。二秒。
「そうだよ」
それだけだった。
嘘をつかなかった。
エリシアはその答えを受け取ったまま、言葉が出ない。
胸の奥で、何かが重く沈んでいく。
数ヶ月前から蜜豆は甘く、世界には色が戻っていた。演算が深まれば、バングルは熱を帯びた。
そのすべての裏側で——彼が負担を引き受けていた。
その事実に触れた今、自分の中で何かが静かに軋んでいる。
分類できない。
けれど——快い感情ではなかった。
「……ないよ、と言っていましたが」
「俺への副作用は、言わなかった」
正確だった。技術的に正確だった。私が確認しなかった。
エリシアは赤いしずくの石が嵌まったバングルを見てから、ヴァレリウスの左耳のピアスへ目を移した。同じ石が、対になっている。
「……これを設計したのは」
「俺だよ」
「……何のために」
今度は答えがすぐには返らず、ヴァレリウスはしばらくこちらを見たあと、少しだけ視線を落とした。
「エリシアが、演算できるように。それだけだよ」
それ以外の理由など最初から存在しないかのような、静かな声だった。
「だから作った」
それだけだった。
エリシアは分類を試みた。「エリシアが、演算できるように」——それが、痛みを彼が引き受ける理由になるか。なぜ彼が引き受ける必要があるのか。他の方法は——
分類しようとして止まった。先へ進めれば、おそらく、もっと「分からない」が増える。
今夜、全部は無理だ。
「……ありがとうございます」
また、この言葉だった。
正確ではないと分かっていた。それでも他の言葉が出てこなかった。
ヴァレリウスが、何かを吐き出すようにゆっくり息をついた気がした。
*
聖域を出て廊下を歩きながら、左手の感触に気づいた。
演算後の余波で、指先が冷えている。指先だけではなく、手のひらまで冷たい。第三の聖域は第一・第二より演算の深度が高く、その分、末梢の循環が後回しになる。自分の体の反応として分類できる冷えだ。
ヴァレリウスは何も言わず、廊下を歩きながらごく自然にエリシアの左手を両手で包み、そのまま歩き続けた。
(……温かい)
バングルの熱とは違う。バングルは内側から来る、均等な熱だ。これは——外側からだ。包まれた形のまま、輪郭に沿って来る熱だ。
演算が、一瞬、止まった。
「ヴァレリウス……?」
「……行こう。少し、冷えているね」
(……これは、分類が——)
ヴァレリウスの手が、指先からゆっくりと熱を送り込んでくる。大きい手だ。エリシアの手全体を包めてしまう。その温度が、廊下の冷気に晒されていた指先を、一つずつ溶かしていくようだ。
(——未分類)
それ以上、二人は何も言わず、第三の聖域の夕暮れに赤く染まる窓のそばを歩き続けた。
*
馬車に乗ると、ヴァレリウスは向かいの席ではなく、隣に座った。
(……)
エリシアは一瞬、反応が遅れた。いつもは対面に座るため、今日もそうだと認識していた。隣という選択肢は、演算に入っていない。
何かを言うより先に、彼はすでに座っていた。
肩が触れそうな距離だ。正確には触れていないが、わずかに体を傾ければ触れられる。その近さから、体温まで伝わってくる気がする。
(……演算が、やりにくい)
今日処理しようとしていたことが、いくつかある。バングルの熱。「そうだよ」という言葉。「俺への副作用は、言わなかった」という言葉。廊下で包まれた手の輪郭。
それらを並列で走らせようとして——うまくいかなかった。
隣の体温が、演算の邪魔をしている気がする。
蜜豆を取り出し、一粒口に入れた。
甘い。ちゃんと甘い。この甘さは、バングルが安定させてくれている。
その代償が、この人の左半身を流れ続けているとしたら——
(……計算が、完了していない)
今夜中には、整理できそうにない。
ただ、今日確かめたことが一つある。
「そうだよ」と言われたとき——彼は、嘘をつかなかった。
そして今、隣にいる。
廊下で包まれた手の熱は、まだ左手に残っている。
それが今夜のエリシアにとって、何より確かな事実だ。




