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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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32/50

あなたに、行っていたんですか

「……何かあった?」


ヴァレリウスが、いつもの声で言った。


エリシアはしばらく答えず、言葉を選んでいた。正確には、質問の形を探していた。聞きたいことは分かっているのに、その聞き方がまだ出てこない。


「その痛みは——」


言いかけて、続けた。


「あなたに、行っていたんですか」


部屋が静かだった。


ヴァレリウスがこちらを見た。一秒。二秒。


「そうだよ」


それだけだった。


嘘をつかなかった。


エリシアはその答えを受け取ったまま、言葉が出ない。


胸の奥で、何かが重く沈んでいく。


数ヶ月前から蜜豆は甘く、世界には色が戻っていた。演算が深まれば、バングルは熱を帯びた。


そのすべての裏側で——彼が負担を引き受けていた。


その事実に触れた今、自分の中で何かが静かに軋んでいる。


分類できない。


けれど——快い感情ではなかった。


「……ないよ、と言っていましたが」


「俺への副作用は、言わなかった」


正確だった。技術的に正確だった。私が確認しなかった。


エリシアは赤いしずくの石が嵌まったバングルを見てから、ヴァレリウスの左耳のピアスへ目を移した。同じ石が、対になっている。


「……これを設計したのは」


「俺だよ」


「……何のために」


今度は答えがすぐには返らず、ヴァレリウスはしばらくこちらを見たあと、少しだけ視線を落とした。


「エリシアが、演算できるように。それだけだよ」


それ以外の理由など最初から存在しないかのような、静かな声だった。


「だから作った」


それだけだった。


エリシアは分類を試みた。「エリシアが、演算できるように」——それが、痛みを彼が引き受ける理由になるか。なぜ彼が引き受ける必要があるのか。他の方法は——


分類しようとして止まった。先へ進めれば、おそらく、もっと「分からない」が増える。


今夜、全部は無理だ。


「……ありがとうございます」


また、この言葉だった。


正確ではないと分かっていた。それでも他の言葉が出てこなかった。


ヴァレリウスが、何かを吐き出すようにゆっくり息をついた気がした。


    *


聖域を出て廊下を歩きながら、左手の感触に気づいた。


演算後の余波で、指先が冷えている。指先だけではなく、手のひらまで冷たい。第三の聖域は第一・第二より演算の深度が高く、その分、末梢の循環が後回しになる。自分の体の反応として分類できる冷えだ。


ヴァレリウスは何も言わず、廊下を歩きながらごく自然にエリシアの左手を両手で包み、そのまま歩き続けた。


(……温かい)


バングルの熱とは違う。バングルは内側から来る、均等な熱だ。これは——外側からだ。包まれた形のまま、輪郭に沿って来る熱だ。


演算が、一瞬、止まった。


「ヴァレリウス……?」


「……行こう。少し、冷えているね」


(……これは、分類が——)


ヴァレリウスの手が、指先からゆっくりと熱を送り込んでくる。大きい手だ。エリシアの手全体を包めてしまう。その温度が、廊下の冷気に晒されていた指先を、一つずつ溶かしていくようだ。


(——未分類)


それ以上、二人は何も言わず、第三の聖域の夕暮れに赤く染まる窓のそばを歩き続けた。


    *


馬車に乗ると、ヴァレリウスは向かいの席ではなく、隣に座った。


(……)


エリシアは一瞬、反応が遅れた。いつもは対面に座るため、今日もそうだと認識していた。隣という選択肢は、演算に入っていない。


何かを言うより先に、彼はすでに座っていた。


肩が触れそうな距離だ。正確には触れていないが、わずかに体を傾ければ触れられる。その近さから、体温まで伝わってくる気がする。


(……演算が、やりにくい)


今日処理しようとしていたことが、いくつかある。バングルの熱。「そうだよ」という言葉。「俺への副作用は、言わなかった」という言葉。廊下で包まれた手の輪郭。


それらを並列で走らせようとして——うまくいかなかった。


隣の体温が、演算の邪魔をしている気がする。


蜜豆を取り出し、一粒口に入れた。


甘い。ちゃんと甘い。この甘さは、バングルが安定させてくれている。


その代償が、この人の左半身を流れ続けているとしたら——


(……計算が、完了していない)


今夜中には、整理できそうにない。


ただ、今日確かめたことが一つある。


「そうだよ」と言われたとき——彼は、嘘をつかなかった。


そして今、隣にいる。


廊下で包まれた手の熱は、まだ左手に残っている。


それが今夜のエリシアにとって、何より確かな事実だ。

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