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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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演算した。失敗した。

別の日、特に用があったわけではないが、公爵邸を訪ねた。


このごろ、甘いものがちゃんと甘い。それが嬉しくて、つい焼き菓子を買いすぎてしまった。一人ではとても食べきれない量なので、お裾分けにはちょうどいい。


公爵の執務室へ向かった。


そこで、エリシアは少し首を傾げた。執務室の前にいたのは、見慣れない若い侍従だった。


(……あれ)


いつもなら、ここには公爵家に長く仕える老執事がいる。幼い頃から何度も顔を合わせてきた人物が、今日はなぜかいない。


「エリシア様でいらっしゃいますね」


侍従が、どこか緊張した様子で頭を下げた。


「どうぞ、お入りください」


侍従は一拍置いてから、歯切れ悪く付け加えた。


「……閣下は、ご在室です」


何かがおかしいと思いながら、開いた扉の先を見て、その理由が分かった。


書類が山になっていた。机の上だけではない。

机の横、棚の上、床の端。

紙の塔がいくつも建っている。


そして、その中央で、公爵が埋もれていた。


さらにその隣。


いつもの執事が、臨時に運び込まれた小机に座っていて、同じく書類に埋もれていた。


(……執事さんまで)


公爵が顔を上げた。


「エリシア」


その顔が、みるみる明るくなる。


「助けてくれ」


「どうしました」


「私の息子が反抗期なんだ」


エリシアは考えた。


ヴァレリウスが。


反抗期。


演算した。


失敗した。


想像できなかった。


「……そうですか」


「信じていないね?」


「はい」


「だろうと思った」


公爵が遠い目をすると、執事が静かに補足した。


「正確には、仕事でございます」


「仕事だ」


公爵が頷いた。


「大量の仕事だ」


エリシアは書類の山を見た。


物流再編。予算配分。利権調整。新規事業計画。


見覚えのある構成だった。


というより。


非常に見覚えがあった。


(……ヴァレリウスだ)


理由は分からない。だが作成者だけは分かる。完璧すぎる。


「これは全て、私の息子から贈られた愛だ」


「愛」


「愛だ」


執事が咳払いをした。


「嫌がらせとも申します」


「どちらでも同じだろう」


公爵は言った。


「受け取る側は忙しい」


「それはそうですね」


エリシアは素直に頷いた。本当に忙しそうで、かなり同情した。


公爵はそんな彼女を見て、少しだけ身を乗り出した。


「エリシア」


「はい」


「昔の、あれをしてくれないか」


「あれ」


「よしよし」


エリシアは記憶を検索した。


幼い頃、公爵の頭を撫でた記憶がある。理由は忘れたが、事実だけは記録されていた。


合理性はないが、断る理由もない。


エリシアは公爵の頭を撫でた。


「つらいですね」


「つらい」


「よしよし」


「うむ」


公爵が満足そうに目を閉じると、執事は横を向いた。肩が震えている。笑いを堪えているらしい。


「閣下」


「何だ」


「せっかくですので、お茶でも」


「飲もう」


公爵は即答した。


「今すぐ飲もう」


仕事は一時放棄された。


侍女がお茶を運び、エリシアが持ってきた焼き菓子を開けると、執事も半ば強制的に席へ座らされた。


書類の塔に囲まれた、小さなお茶会だった。


公爵は上機嫌で、執事もどこか楽しそうだった。エリシアだけは、状況を理解していなかった。


(……父子のことだ)


そう分類したものの、理由は分からない。けれど、公爵家の人たちは、みんな少し笑っている。


それだけは分かった。


不思議と、悪くない午後だった。


    *


それからまた数日が経ったが、特に変わったことは起きなかった——少なくとも、エリシアには、そう見えた。


ヴァレリウスが、ときどきわずかに近い日があった。いつもの距離が半歩縮まり、気づけば隣にいることも増えていた。


歩幅を合わせる頻度も以前より増えていたが、理由は分からず、分析しようとしてやめた。


計算するリソースを割くほどではないと判断し、後で考えることにした事柄だけが、少しずつ増えていた。


ひとつ、確かなことがある。彼はもう、大方を知っているはずだ。ソリスでその目に見られ、あの腕輪まで作ってくれた。それでも、止めないし、問い質しもしない。


(——だから、許されている)


彼が止めないなら進んでいいのだと結論した。彼の沈黙は、いつだって信頼の形だった。


ただ今は、第三の聖域の設計図の方が先だ。


(計算が完了してから、話す)


幾つかのことについて、同じ言葉を自分に繰り返した。


——けれど。


その「幾つか」の中に、聖域とは関係のないものが、一つだけ混じっている気がする。


何を「計算が完了したら話す」のか。その内訳を、エリシアはまだはっきりとは決められなかった。

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