演算した。失敗した。
別の日、特に用があったわけではないが、公爵邸を訪ねた。
このごろ、甘いものがちゃんと甘い。それが嬉しくて、つい焼き菓子を買いすぎてしまった。一人ではとても食べきれない量なので、お裾分けにはちょうどいい。
公爵の執務室へ向かった。
そこで、エリシアは少し首を傾げた。執務室の前にいたのは、見慣れない若い侍従だった。
(……あれ)
いつもなら、ここには公爵家に長く仕える老執事がいる。幼い頃から何度も顔を合わせてきた人物が、今日はなぜかいない。
「エリシア様でいらっしゃいますね」
侍従が、どこか緊張した様子で頭を下げた。
「どうぞ、お入りください」
侍従は一拍置いてから、歯切れ悪く付け加えた。
「……閣下は、ご在室です」
何かがおかしいと思いながら、開いた扉の先を見て、その理由が分かった。
書類が山になっていた。机の上だけではない。
机の横、棚の上、床の端。
紙の塔がいくつも建っている。
そして、その中央で、公爵が埋もれていた。
さらにその隣。
いつもの執事が、臨時に運び込まれた小机に座っていて、同じく書類に埋もれていた。
(……執事さんまで)
公爵が顔を上げた。
「エリシア」
その顔が、みるみる明るくなる。
「助けてくれ」
「どうしました」
「私の息子が反抗期なんだ」
エリシアは考えた。
ヴァレリウスが。
反抗期。
演算した。
失敗した。
想像できなかった。
「……そうですか」
「信じていないね?」
「はい」
「だろうと思った」
公爵が遠い目をすると、執事が静かに補足した。
「正確には、仕事でございます」
「仕事だ」
公爵が頷いた。
「大量の仕事だ」
エリシアは書類の山を見た。
物流再編。予算配分。利権調整。新規事業計画。
見覚えのある構成だった。
というより。
非常に見覚えがあった。
(……ヴァレリウスだ)
理由は分からない。だが作成者だけは分かる。完璧すぎる。
「これは全て、私の息子から贈られた愛だ」
「愛」
「愛だ」
執事が咳払いをした。
「嫌がらせとも申します」
「どちらでも同じだろう」
公爵は言った。
「受け取る側は忙しい」
「それはそうですね」
エリシアは素直に頷いた。本当に忙しそうで、かなり同情した。
公爵はそんな彼女を見て、少しだけ身を乗り出した。
「エリシア」
「はい」
「昔の、あれをしてくれないか」
「あれ」
「よしよし」
エリシアは記憶を検索した。
幼い頃、公爵の頭を撫でた記憶がある。理由は忘れたが、事実だけは記録されていた。
合理性はないが、断る理由もない。
エリシアは公爵の頭を撫でた。
「つらいですね」
「つらい」
「よしよし」
「うむ」
公爵が満足そうに目を閉じると、執事は横を向いた。肩が震えている。笑いを堪えているらしい。
「閣下」
「何だ」
「せっかくですので、お茶でも」
「飲もう」
公爵は即答した。
「今すぐ飲もう」
仕事は一時放棄された。
侍女がお茶を運び、エリシアが持ってきた焼き菓子を開けると、執事も半ば強制的に席へ座らされた。
書類の塔に囲まれた、小さなお茶会だった。
公爵は上機嫌で、執事もどこか楽しそうだった。エリシアだけは、状況を理解していなかった。
(……父子のことだ)
そう分類したものの、理由は分からない。けれど、公爵家の人たちは、みんな少し笑っている。
それだけは分かった。
不思議と、悪くない午後だった。
*
それからまた数日が経ったが、特に変わったことは起きなかった——少なくとも、エリシアには、そう見えた。
ヴァレリウスが、ときどきわずかに近い日があった。いつもの距離が半歩縮まり、気づけば隣にいることも増えていた。
歩幅を合わせる頻度も以前より増えていたが、理由は分からず、分析しようとしてやめた。
計算するリソースを割くほどではないと判断し、後で考えることにした事柄だけが、少しずつ増えていた。
ひとつ、確かなことがある。彼はもう、大方を知っているはずだ。ソリスでその目に見られ、あの腕輪まで作ってくれた。それでも、止めないし、問い質しもしない。
(——だから、許されている)
彼が止めないなら進んでいいのだと結論した。彼の沈黙は、いつだって信頼の形だった。
ただ今は、第三の聖域の設計図の方が先だ。
(計算が完了してから、話す)
幾つかのことについて、同じ言葉を自分に繰り返した。
——けれど。
その「幾つか」の中に、聖域とは関係のないものが、一つだけ混じっている気がする。
何を「計算が完了したら話す」のか。その内訳を、エリシアはまだはっきりとは決められなかった。




