ちゃんと茶色い
ソリスの聖域を書き直してから、三週間ほどが過ぎていた。
その間、ヴァレリウスは時折寝不足そうだった。何か仕事が立て込んでいるのだろう。エリシアはそれ以上考えなかった。
その彼に「来てほしい」と言われたのは、三日前のことだ。
理由は聞かなかった。彼が「来てほしい」と言うなら、行けばいい。エリシアの中で、その判断はあっさり完了する。テオには「姉様は義兄様のことになると素直すぎます」と呆れられたが、合理的だと思う。信頼できる相手の要請には応じる——それだけのことだ。
公爵邸のヴァレリウスの書斎は、窓が大きかった。
外の光が白く差し込んでいて、エリシアはその眩しさに少し目を細めた。
(……明るい)
毎日見ている空なのに、今日は少し違う気がした。何かが、いつもとずれている。気のせいだろうかと思いながら、ヴァレリウスが机の引き出しから小さな箱を取り出すのを見ていた。
*
箱を開けると、細い銀の腕輪が入っていた。つくりはシンプルで、留め具の隣にだけ、赤いしずくのような小さな石が埋め込まれている。
(……きれい)
そう思った次の瞬間には、ちゃんと聞かなければと思い直した。
「何ですか、これ」
「魔核の安定に使える」
ヴァレリウスの説明は、それだけだった。
エリシアはもう一度、腕輪を見た。魔核を安定させるものなら、今の自分に必要だ。宰相との面談以来、感覚器の「ずれ」が気になっており、味覚の問題もまだ解消していない。
「……はめてみてもいいですか」
「こちらへ」
ヴァレリウスが手を差し出した。
「きつかったら、言って」
*
エリシアが手首を預けると、彼はバングルを持ち、留め具を慎重に合わせた。
カチ、と音がした。
その瞬間——
世界が、変わった。
書斎の木の床が、茶色い。ちゃんと茶色い。窓から見える空が、青い。こんなに青かったのか。机の上に置かれた花瓶の白い花が、白くて、少しだけ黄みがかっていて、端の方がうっすら透けている。
(……あ)
ずっと霧がかかっていたのだと、薄くなって初めて分かる。
「エリシア」
ヴァレリウスの声で我に返った。
「少し、世界の見え方が変わりました」
うまく説明できなくて、エリシアは腕輪を見た。赤いしずくの石が、窓の光を透かして澄んだ赤に灯っている。
「これ、すごいものですね」
ヴァレリウスは少し遅れて頷いただけで、表情はいつも通りだった。
けれど、何かを確かめるように一度だけエリシアの顔を見た気がして、その意味はうまく分類できなかった。
*
お茶が出てきたとき、エリシアは巾着の中に手を入れた。
「いつもありがとうございます」と言いながら、習慣で蜜豆を一粒取り出し、口に入れた。
甘い。
エリシアは動きを止めた。
もう一粒。甘い。三粒目も、やはり甘い。
(……おかしい)
ずっと苦かった。
あの薄い膜のような苦みが、ない。
エリシアはそこで初めて腕輪を見た。
赤いしずくの石が静かに光っている。
世界の色が戻ったこと。蜜豆が甘いこと。腕輪。
三つが、一本の線で繋がった。
「……これの効果ですか」
*
エリシアはヴァレリウスを見た。
味覚が戻った。世界の色も、少しだけ戻っている。
補助具としては、あまりに効果が高い。これほど自然に感覚器のずれを整える技術を、エリシアは知らない。聞いたことさえない。
だから、胸の奥に、かすかな嫌な予感が残る。
もし改善ではなく、どこかへ逃がしているだけなら、ヴァレリウスの方へ負担が行くことはないのだろうか。
「ねえ、これ……副作用はないの?」
「ないよ」
迷いも躊躇もない即答だった。
その答えは、エリシアがいちばん確かめたかった不安まで含めて否定したように聞こえた。
エリシアは頷いた。
「……ありがとうございます」
「必要なものだから」
ヴァレリウスはそう言って、少しだけ笑った。
「君は、放っておくと無理をするから」
短い言葉なのに、エリシアには、それだけで十分な答えに聞こえた。
*
帰り道、馬車の窓から見える街の色が、少しだけ鮮やかに感じられた。完全ではなく、まだ霧の名残がある。それでも確かに——昨日より、世界が見えている。
腕輪の石が、夕陽を受けて赤く灯った。
その赤を見ていると、書斎での彼が、ふいに思い出された。
今日の彼は、いつもより鮮明に見えた。
霧が薄くなったせいだろうか。
以前から同じ顔を見ていたはずなのに、霧の晴れた目で見る左耳の赤いしずくは、思っていたよりずっと澄んでいた。濁りのない、光をそのまま通す赤。白い肌に、その一点だけがくっきりと映る。
この腕輪の石と、同じだ。同じしずくの形、同じ澄んだ赤。まるで——対の片割れのように。
(……揃っている)
それに気づいた瞬間、胸の奥が、かすかに揺れる。
けれど、その理由は、まだ言葉にできなかった。




