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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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なぜ、あんな顔をしていたんだろう

後方の構図が、すぐには読み解けなかった。


ヴァレリウスが、部屋の中央付近に立っていた。

公爵は少し離れた位置で腕を組み、静かに立っていた。

その後ろ、壁際に宰相もいた。いつから居たのか、エリシアは思い出せない。作業に没頭していて、視界の隅にも入れていなかったらしい。


銀灰の目が、ただ静かだった。


何かがあったのかどうかも、すぐには分からなかった。


静かさに、言葉にできない少しの違和感だけがある。


「……何かありましたか」


「何もないよ」


ヴァレリウスが言った。


いつもの声だった、はずだった。


——ただ、いつもの声のはずなのに、何かが違った。音の表面は同じだが、その下にあるものが、いつもと違う。温度が違った。その温度の名前を分類しようとしたが、リソースが足りなかった。


彼がこちらを向いた。


その顔を——見た。


幼い頃から、この人の顔を見てきた。感情を制御した顔。演算している顔。人の言葉の裏を読んでいる顔。エリシアが転んだあとに無言で確認する顔。蜜豆の残量を把握している顔。政治の場で、何も見せない顔。


今見えた顔は——そのどれでもなかった。


熱があった。


怒りとも違う。焦りとも違う。安堵とも違う。


そのどれかが混ざっているようでもあり、どれにも当てはまらないようでもあった。


これまで見てきた、どの顔とも違う。演算の分類表の、どこにも置けなかった。


「先に馬車へ」


公爵が、エリシアに向かって言った。


「——はい」


出口へ向かった。廊下に出た。


扉が閉まる直前、後方から公爵の声が低く聞こえた。ヴァレリウスに向かって何かを言っている——言葉は聞こえなかった。


馬車へ向かった。


中に入った。一人で、少しの間、座っていた。


今日の作業は、成功した。


それだけは、確かだった。


蜜豆を一粒、口に入れた。


甘い。——けれど、奥に、あの苦みがいる。もう、何度目だろう。


そして——なぜか。


さっき見た顔の方が、蜜豆よりも記憶に残っていた。


(……未分類)


そう処理した。けれど演算は終わらなかった。


しばらくして、ヴァレリウスが馬車に乗り込んできた。


向かいの席に座る。

いつも通りだった。少なくとも、見える範囲では。


馬車が動き出してしばらくした頃、彼がふと、こちらを見た。


「……少し、顔色が悪い」


「いつも通りです」


「そう」


それだけ言って、彼は黙った。


数秒後、その手が、エリシアのコートの衿元に触れた。


「少し、開いていた」


短く言って、手を離した。


エリシアは自分の衿に触れた。確かに少し乱れている。それだけのことだ。


ただ——彼が衿に触れたときの視線が、なぜか少し長かった。


触れられた場所に、ほんの少し、熱が残っている。彼の体温だ。——けれど、その熱が、なかなか引かない。


分類は、保留にした。


そして、その熱の上に、さっき見た、あの顔が、また重なってくる。


(……なぜ、あんな顔をしていたんだろう)


思考が、またそこへ戻った。


衿を直しただけだ。それ以上の情報はない。


演算してみる。

答えは出ない。

むしろ疑問だけが増える。


ヴァレリウスが窓の外を見ている。いつもの横顔だった。


さっき見た表情だけが、異物のように浮いている。


(分からない)


今日は、分からないことが多い。


後で考えよう。


そう結論して、もう一粒、蜜豆を口に入れた。


甘い。


しかし、やはり奥に苦みが残る。


昨日より強い。今朝よりも。


原因はまだ分からない。魔核の状態かもしれない。演算負荷の影響かもしれない。記録しておく必要がある。


そう判断した。


けれど。


なぜか、その結論を出したあとも、思考は完全には静まらなかった。


さっき見たヴァレリウスの表情が、演算の縁に引っ掛かったまま残っている。


見て、仕舞えば、いつもはそれで終わる。


今日は、終わらなかった。


演算を終えたはずなのに、一つだけ、閉じない式が残っている。さっき見たあの顔。それだけが計算の縁で、まだ明滅していた。


窓の外を、暮れゆく街並みが流れていった。

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