なぜ、あんな顔をしていたんだろう
後方の構図が、すぐには読み解けなかった。
ヴァレリウスが、部屋の中央付近に立っていた。
公爵は少し離れた位置で腕を組み、静かに立っていた。
その後ろ、壁際に宰相もいた。いつから居たのか、エリシアは思い出せない。作業に没頭していて、視界の隅にも入れていなかったらしい。
銀灰の目が、ただ静かだった。
何かがあったのかどうかも、すぐには分からなかった。
静かさに、言葉にできない少しの違和感だけがある。
「……何かありましたか」
「何もないよ」
ヴァレリウスが言った。
いつもの声だった、はずだった。
——ただ、いつもの声のはずなのに、何かが違った。音の表面は同じだが、その下にあるものが、いつもと違う。温度が違った。その温度の名前を分類しようとしたが、リソースが足りなかった。
彼がこちらを向いた。
その顔を——見た。
幼い頃から、この人の顔を見てきた。感情を制御した顔。演算している顔。人の言葉の裏を読んでいる顔。エリシアが転んだあとに無言で確認する顔。蜜豆の残量を把握している顔。政治の場で、何も見せない顔。
今見えた顔は——そのどれでもなかった。
熱があった。
怒りとも違う。焦りとも違う。安堵とも違う。
そのどれかが混ざっているようでもあり、どれにも当てはまらないようでもあった。
これまで見てきた、どの顔とも違う。演算の分類表の、どこにも置けなかった。
「先に馬車へ」
公爵が、エリシアに向かって言った。
「——はい」
出口へ向かった。廊下に出た。
扉が閉まる直前、後方から公爵の声が低く聞こえた。ヴァレリウスに向かって何かを言っている——言葉は聞こえなかった。
馬車へ向かった。
中に入った。一人で、少しの間、座っていた。
今日の作業は、成功した。
それだけは、確かだった。
蜜豆を一粒、口に入れた。
甘い。——けれど、奥に、あの苦みがいる。もう、何度目だろう。
そして——なぜか。
さっき見た顔の方が、蜜豆よりも記憶に残っていた。
(……未分類)
そう処理した。けれど演算は終わらなかった。
しばらくして、ヴァレリウスが馬車に乗り込んできた。
向かいの席に座る。
いつも通りだった。少なくとも、見える範囲では。
馬車が動き出してしばらくした頃、彼がふと、こちらを見た。
「……少し、顔色が悪い」
「いつも通りです」
「そう」
それだけ言って、彼は黙った。
数秒後、その手が、エリシアのコートの衿元に触れた。
「少し、開いていた」
短く言って、手を離した。
エリシアは自分の衿に触れた。確かに少し乱れている。それだけのことだ。
ただ——彼が衿に触れたときの視線が、なぜか少し長かった。
触れられた場所に、ほんの少し、熱が残っている。彼の体温だ。——けれど、その熱が、なかなか引かない。
分類は、保留にした。
そして、その熱の上に、さっき見た、あの顔が、また重なってくる。
(……なぜ、あんな顔をしていたんだろう)
思考が、またそこへ戻った。
衿を直しただけだ。それ以上の情報はない。
演算してみる。
答えは出ない。
むしろ疑問だけが増える。
ヴァレリウスが窓の外を見ている。いつもの横顔だった。
さっき見た表情だけが、異物のように浮いている。
(分からない)
今日は、分からないことが多い。
後で考えよう。
そう結論して、もう一粒、蜜豆を口に入れた。
甘い。
しかし、やはり奥に苦みが残る。
昨日より強い。今朝よりも。
原因はまだ分からない。魔核の状態かもしれない。演算負荷の影響かもしれない。記録しておく必要がある。
そう判断した。
けれど。
なぜか、その結論を出したあとも、思考は完全には静まらなかった。
さっき見たヴァレリウスの表情が、演算の縁に引っ掛かったまま残っている。
見て、仕舞えば、いつもはそれで終わる。
今日は、終わらなかった。
演算を終えたはずなのに、一つだけ、閉じない式が残っている。さっき見たあの顔。それだけが計算の縁で、まだ明滅していた。
窓の外を、暮れゆく街並みが流れていった。




