この聖域も、痛がっている
刻の栞を抜けた。
外へ出ると、視界が一気に開けた。この街では、刻の栞も、神殿も、主だった役所も、なだらかな丘の上にある。そこから下るように街が広がり、屋根の連なりが一望できた。第二の聖域『ソリス』の神殿街だ。初夏の光が、白い壁と石畳の上に満ちている。
そして街の、ずっと奥——どこまでも牧草地が続いていた。なだらかな丘の起伏が地平線まで繰り返され、その表面を、深みのある初夏の緑が埋めている。遠くに、白と黒の牛が点々と見えた。風が、草の波を作っている。
(……今日が、二つ目だ)
第一の聖域『アウロラ』は、もう書き直した。今日はその二つ目——ソリスの改修。ここも成れば、残るはボレアス、旧都、そして中央。順番は、頭の中にある。
ヴァレリウスには、まだ話していない。
(……計算が、完了してから話す)
そう決めていた。今日の作業を終えれば、設計図の精度がまた一つ上がる。全部を確かめてから、彼に伝えればいい。
伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。——そこまで演算しかけて、止めた。今日はソリスの改修だ。予測に回すリソースはない。
はずなのに、少しだけ、回っていた。
馬車に乗り換えた。表向きの聖堂まで、ゆるやかな坂道を約一km登った。その間に、今日の演算の最終確認を一通り済ませた。
聖堂を通り過ぎると、また森が始まった。
丘上の開放感が嘘のように、木々がすぐに空を塞ぐ。馬車の揺れが変わり、方向感覚がわずかに傾いた——結界だ。今度は、考えるより先に分かった。二度目の感覚なので覚えている。立入禁止の森を馬車でおよそ十五分、奥へ進んだ。
第二の聖域も、第一と同じ——黒い石の、巨大な立方体だった。六面に、隙間なく術式の溝が刻まれている。
石の継ぎ目の深さも、表面の術式彫刻の磨耗具合も、数百年を経た聖域特有の重さが染み込んでいた。どこの聖域も、それぞれの時間の持ち方で古い。
立方体を覆うのは、アステリアの花——三弦花のつるだった。
アウロラの花は、白を主調にしていた。けれどソリスの花は、金を帯びている。刻光の地だからだ。無数の大輪が金色にけぶり、六面を覆っている。そして——三色が完全に交わる核心点だけが、アメジストに灯っていた。自分の瞳と、同じ色。この聖域も、その一点だけは、変わらない。
副花冠の細い光糸が、石の術式溝とリンクして明滅している。聖域の奥から響く、クリスタルのような細い共鳴音と、呼吸を合わせて。
けれど、ここでも——その明滅は、濁っていた。詰まり、飛び、遅れる。和音が、歪んでいる。
(……この聖域も、痛がっている。アウロラより、ずっと)
立方体の内部は、第一の聖域と同じ造りだった。外観より広い内部。窓のない部屋。中央の術式台。それを囲んで床に広がる、曼荼羅の魔法陣。
到着してすぐ、エリシアは共鳴パターンを読んだ。
第四結節の欠陥。第一の聖域と同じ構造。ただし規模が違う。歪みの層が多い。設置に要するエネルギー推計値が、アウロラの作業を上回る。
(今日は、難しい方の作業だ)
そう確認した。
それから——後方に視線を向けた。
ヴァレリウスが、いた。
意外ではなかった。むしろ、いつものことだ。気づけば近くにいて、気づけば視界の端にいる。ヴァレリウスだから、と納得しかけて——けれど、ひとつだけ、引っかかった。
(……第一の聖域の作業のことを、彼は知っているのだろうか)
第一の聖域のことも、この計画の全体も、エリシアは彼に話していない。「計算が完了してから話す」と決めて、今もそのつもりだ。なのに、彼が今日ここにいる。
(公爵が、話したのかもしれない)
どこまで伝わっているのかは、分からない。確かめるには、リソースが要る。
(……今は、作業が先だ)
後で整理すればいい。彼に何か問われても、計算が完了した後なら、答えられる。それが、正しい順番だ。
「何か手伝えることは?」
ヴァレリウスの声がした。穏やかな、いつもの声だった。その声を聞いて、エリシアは少しだけ肩の力を抜いた。
「いいえ。手順は、もう決まっていますから」
エリシアは答えた。声は、安定していた。
「そう」
ヴァレリウスは頷いた。それ以上は、言わない。
「始めてください」と公爵が言った。
エリシアは術式台に向かった。彼の視線が背中にある、という感触があった。それを後方に置いたまま、歩いた。けれど——術式台へ着くまで、彼がその場を動かないことを、なぜか背中で知っていた。
*
台に触れた瞬間、空間全体が応えた。
床の曼荼羅が灯る。陣が、光衣への門を開く。二度目だから、もう手順に迷いはない。顕現した光衣が部屋いっぱいに広がり、空間そのものがまた、エリシアの感覚器官になっていく。
生光の白、刻光の金、造光の蒼。三色の光脈が、天井まで立体星図を組み上げる。
(——広い)
アウロラより、ずっと大きい。そして、重い。
立体星図の層が、何重にも折り重なっていた。接続点の数も桁が違う。歪みの濁りが、光脈のあちこちで澱み、軋んでいる。光衣を通して、その軋みが芯のあたりへ直接流れ込んでくる。魔核の細っていく速度が、アウロラのときより速かった。代償が、重い。
それでも、構造の全体像はちゃんと展開した。第四結節の設置座標を、今この瞬間に見極めなければならない。
猶予は——約九十秒。
息を吸った。演算が走り始めた。
世界が、光と座標と接続エネルギーの流れだけになった。
音も、気配も、すべてが意識の外側へ滑り落ちていく。今は、ここだけだ。
*
第一節点——正確。第二節点——南方向にわずかなズレ、許容範囲。第三節点——ここが複雑だ。多層歪みの中心が第三接続点に集中している。追加エネルギーを集める。分配率を再計算する。
第三節点——接続完了。
(第四結節を、今)
置いた。
今回は逸脱がなかった。設計通りに接続された。エネルギーの収束速度が推計より速い。安定化が前回より短くなる。
(いい)
全エネルギーが第四結節を通過した。
光が、アメジストになった。
石の壁が、あの音を立てた。何百年も続いていた誤差補正が、不要になっていく音。今回の方が規模が大きい。
静かになった。
エリシアは手を離した。
「……成功した」
いつもの声で言った。
振り返った。




