これの方が、むしろ『綺麗』だ
台に触れた瞬間、空間全体が応えた。
床の曼荼羅が、淡く灯った。
エリシアが起動させた術式——それは、刻の栞とよく似た理で動く。
栞が遠い土地と土地を繋ぐなら、この陣は、自分と世界とを繋ぐ。
回路が開く。
開かれたのは、自らの光衣へ至る門だった。
その先から、光衣が顕現する。
引き延ばすのではない。陣が、彼女の光衣そのものへのリンクを開いただけだ。
顕現した光衣は、部屋いっぱいへ広がっていく。
注ぎ込むほど、魔核の芯がしんと細っていく感覚があった。代償だ。いつものことだ。
生光の白が、床から立ち上がった。刻光の金が、宙に糸を張る。造光の蒼が、壁を這い上がる。
三色の光は互いに接続し、無数の経路を描きながら空間を埋めていく。
光衣はそれらを抱き込みながら浸透し、石に刻まれた術式の一つ一つへ触れていった。
今この空間そのものが、エリシアの感覚器官になり始めていた。
それは視覚ではない。聴覚でもない。
光脈の流れ。接続点の歪み。構造の欠陥。
本来なら演算の向こう側にあるはずの情報が、指先で触れるもののように流れ込んでくる。
そして光はさらに枝分かれし、結び直され、空間そのものへ根を張っていった。
今この部屋そのものが、ひとつの巨大な術式へと変わり始めていた。
それは、部屋の空間そのものに組み上がった巨大な立体星図だった。
数百年分の聖域の構造が、光の点と線で天井まで埋め尽くすように展開している。
エリシアは、その中心に立っていた。
手を伸ばせば、どの光脈にも触れられる。
指を一つ動かせば、流れが応えて経路を変える。
(——見える)
(全部、見える)
聖域の理の全体構造が、いまや演算の中だけでなく、この部屋の空中に、そのまま形を持っていた。
想像していたより広かった。想像していたより深かった。
始祖は、あの時代に届きうる技術の最高点まで——確かに、到達していた。ただ、最後の結び目だけがどうしても完成に至らなかった。だから始祖は、自らの光衣の情報を欠けた一点へ編み込み、繋ぎ留めたのだろう。
第四結節の欠陥。それが、今、この指先の下にあった。
脈絡が幾重にも交わる、その一点。そこだけ、波形が滲んで、ぶれている。
始祖の光衣は、純粋な魔力まで完全に包み込めるものではなかった。そこから編まれた繋ぎ目もまた、魔力を封じ切れない。始祖の記でそう読み、頭の中では幾度も描いた。けれど、演算の視野の中心にそれが具現化されると、紙の上の数値とは、まるで密度が違った。
滲み出しつづける、この光。数百年のあいだ、歴代の調律師が——そして自分の一族が——代々その身に受け取ってきた『痛み』の、正体だった。
息を吸った。
(全部、一度に置く)
これは継続作業ではない。複数回に分けられない。構造を「開いた」瞬間から、補填されてきた全エネルギーが流動状態になる。その間に第四結節を設置して接続して安定させなければ——そのエネルギーは行き場を失って、この空間ごと爆散する。
猶予は——演算上、約九十秒。
現実感はなかった。あるのは設計図と、三原色の光脈と、この指先だけだった。
接続を始めた。
第一節点——正確だ。第二節点——わずかにずれているが許容範囲。第三節点——接続完了。
(第四結節を、今)
置いた。
その瞬間、光が乱れた。
予測からの逸脱——0.3%の幾何偏差。
小さい数字だ。設計図上では無視できる誤差範囲だった。しかし実構造において0.3%は、第四結節の接続角度を変え、接続エネルギーの分配率を変え、安定化に要する時間を変える。
変えた時間は——猶予から約十一秒を奪う。
(——経路を変える)
一秒未満で、新しい解が来た。
接続角を4.7度傾ける。それによって分配率の変化を吸収できる。安定化時間は元に戻る。ただし——第四結節の形状が変わる。設計図通りではなくなる。
でも。
(これの方が、むしろ)
(「綺麗」だ)
接続角を変えた。
その瞬間、聖域の全エネルギーが新しい経路を通ろうとした。
部屋の光が白になった。
温度が急激に落ちた——あるいは上がったのか、皮膚の感覚が一瞬機能しなくなった。石の壁が、かすかに鳴いた。振動音ではなく——何か別の音だった。周波数が合っていない音が、徐々に整っていくときの音。
(——来た)
エネルギーが、第四結節を通過した。
不均一だった波形が、均一になった。
歪んでいた補正が、不要になった。
そして——部屋が、アメジストに染まった。
三色が、第四結節の一点で完全に交わった瞬間だった。白と金と蒼が溶け合い、見慣れた紫が生まれる。自分の瞳の色だ、とエリシアは思った。壁の術式溝を伝って、外の花にもそれが届いたのだろう——さっきまで不規則に喘いでいた副花冠の明滅が、今は、静かな一定の呼吸を取り戻していた。
(……治った)
数百年ものあいだ、一族が担い続けてきた痛みの代償が、石の中で、一瞬だけ光となって——ほどけた。
静かになった。
エリシアは手を離した。
部屋が静かだった。静かすぎて、少しの間、自分の心拍の音だけが聞こえた。
「……成功した」
自分のために言ったのではなかった。計算が完了したとき、答えを声に出すことがある。それだけのことだ。
*
手が冷えていた。演算に使ったリソースの分、末梢に血が回っていない。よくあることだ。
(……第四結節の形状が変わった)
(でも、これの方がずっと正確だ。始祖はたぶん、ここに辿り着こうとしていた)
設計図を更新しなければならない。頭の中の設計図を。
それから——ヴァレリウスに、いつ話すかも。
(計算は、まだ完了していない)
中央まで終わってから。そう再計算して、胸の奥の小さな軋みごと、次の頁へ畳んだ。
「——エリシア」
公爵の声がした。
振り返ると、公爵が三歩の距離に立っていた。顔を確認した——いつものにこやかな顔ではなかった。引き締まった顔だった。何かを考えている顔だ。
その視線が、一度、エリシアの瞳を見た。それから、まだ床にうっすら残るアメジストの残光へ。そして、また瞳へ。何かを確かめるような——けれど、もう確かめ終えてしまったような目だった。
エリシアには、その往復の意味が、わからなかった。
「手を」
公爵が手を差し出した。
エリシアは少し間を置いてから、その手に触れた。
大きな、温かい手だった。ヴァレリウスの手とは違う温度だ。
(……ああ。この人も、体温が高い家系なのか)
「冷えているな」
「演算後は末梢に血が戻りにくいんです。しばらくすれば」
「そうか」
公爵は手を放さなかった。少しの間、そのままだった。
エリシアはその方向で計算するリソースがなかったので、放置した。
後方で、宰相が動く気配がした。エリシアは振り返らなかった。
(……結果は出た。理論は正しかった。これを中央の聖域に適用すれば——)
設計図が、頭の中で自動的に次の段階へ進み始めた。
(次は、もっと大きい)
甘い、という感覚が遠くにあった。
ポケットの蜜豆のことを思い出した。成功した後に食べようと思っていた。
まだ、その味を確かめてはいない。




